boxingmaniaayalaのブログ

ボクシングマニア・悪童アヤラのページ

下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

☆ボクシング観戦記・新盤・北米30年 HBO SHOWTIME ESPN☆

コーネリアス・ボザ・エドワーズVSジョン・ベルデローサ:
ーべデローサは無敗の21勝(14KO)で世界2位の白人パンチャー。エドワーズはチャコン、ロックリッジに連敗後のロードバック。ベルデローサはボクマガの写真でみたのと全然違っていた。オグラディー(後に4回KO勝ち・オグラディのラストファイト)みたいなハンサムボーイを予想していたら。カッコもくそもない突貫、ぶん回しファイターで頑丈そのもののイタリア系。
ーエドワーズはいつもの正統派スタイルで対処。ベルデローサはサム・スリマン(豪)に一発をつけたようにふりまわす。エドワーズは堅実なブロックでほとんど当てさせず。ずっと右ジャブを突いて左右のアッパーに繋げる。
ーかなり強烈なパンチを食ってもどうじずガンガン前に突進するベルデローサだったが。だんだん技量と底力の差がでる。エドワーズは大振りをかわしたところへ的確に強打を見舞う。それでもブンブンスイングの嵐ながらロープに詰められエドワーズの重そうな連打を浴びるとロープに両手をあげて万歳したように吹っ飛ばされた。ダウン。まだまだ闘志満々、怖じずに左右フックで襲い掛かったところにエドワーズのコンパクトなショートを食らいダウン。ここでストップ。エドワーズさすが、と嬉しかった一戦☆
ジュニア・ジョーンズVSケネディ・マッキニー:
ーこの試合のジョーンズは迫力はあったけどいつもより荒っぽいボクシング。マッキニーはいつもの派手さはないけど実にまとまった堅実なスタイル。それでも序盤はジョーンズのメチャクチャ左右ストレートからの連打をかなり当てられる。3回、ジョーンズの右が炸裂。マッキニーは後ろを向いてしまいダウン。勝負に出たジョーンズはロープに詰め滅多打ち。ストレートの中心にどんなパンチでも浴びせた。ただ意外に的中率は高くない。マッキニーはうまく上体を動かしそらしている。
ーここでジョーンズは打ち疲れ。4回、スピードが落ちて防御ががら空きになってたところへマッキニーが逆襲。ワンツーから右がカウンターで命中。ジョーンズあえなくダウン。そのまま疲労困憊。立ち上がれなかった。ジョーンズはムラっ気がありすぎた。この後、エスピノサがマッキニーを初回ダウンさせ2回、豪快に沈めた。ジョーンズとやってほしかった(おそらくエスピノサがノックアウトしたでしょう)。
アレハンドロ・ゴンザレスVSルーイ・エスピノサ:
ー無敗のケリーに土をつけ。豪快なノックアウトでタイトルを強奪したコブリタ・ゴンザレスの初防衛。エスピノサは前J・フェザー級王者。しかしすでに峠は越えていた。けどパンチがあり勇敢な選手。
ーこの試合はケリー戦とはうってかわって乱雑で手数もすくなかったゴンザレス(次の試合でメディナに負けたのがわかる)。こんなにムラッがあるボクサーなのかと正直驚いてしまった。
ー試合はワンサイドだった。時々当てるゴンザレスのパンチは強烈でエスピノサのパンチはあまり効かない。みるみる顔が腫れていった。けどゴンザレスはケリー戦に比べれば半分ぐらいも手が出ない。それにときどき打つパンチも単発でノックアウトチャンスは幾らでもあったのになせず。
ー結構がっかりした。相手によって気合がちがうのか。だらだらと12回終わった凡戦。ゴンザレス大差で初防衛。一度勝っているエスピノサ(この試合はエスピノサの「やる気」に問題。初回右のうちおろし一発でぐらつかせたのに2回、あえなく崩れ落ちてしまった)も完全になめていた(それがあの痛恨のしっぺがえし。嬉しかった☆)。
トレーシー・ハリス・パターソンVSジェシー・べナビデス:
ーエキサイティングな一戦。忘れられない。べナビデスの顔は無残に晴れ上がっていたが12回一進一退。サウスポーのべナビデスが真っ向から打ち合った。パターソンもワンツーから左フックを叩き込み連打にもっていく。べナビデスも左ストレートを放ちアッパー、ボディーにも返す。
ー壮絶な打撃戦が続き有効打でパターソンがやや上回ったかな?判定は2-1でパターソン。でもべナビデスは健闘した(初黒星のデシマ戦から多く学んだのだろう)。
マイケル・ナンVSフランク・テート:
ーテートはアマ時代クロンクに世話になっていた。左ジャブはよく伸びるし強い。ロス五輪金メダルでありながら目だ立たず。そして世紀の一戦、無敗同士オラジデ(23勝(17KO)テート(19勝(10KO)この試合はオラジデにとってやや不幸だった。延期があり半年以上も試合間があいてしまう(試合後、インタビューで「延期には落胆した。それ以来集中できなかった)と悲しそうに語っていた)。
ー2-1でオラジデ有利の下馬評。蓋をあけてみればテートのワンサイドゲーム・5回と11回にダウンを奪われ完敗。テートはオラジデが2発打ったら5~6発まとめ完全にスピード勝ち。初防衛戦はイギリスでシブソン(収支圧倒し10回でストップ。シブソンのラストファイト)。
ーナンもスピードでは負けないし身長も一回り大きい。24勝(18KO)無敗。アマ時代は中堅選手だった。これまた蓋をあければナンの一方的な勝利。テートはナンのスピードに翻弄されほとんど反撃できず。もともとテートは下がりながらのカウンターパンチャー。出入りの激しいナンの手打ちながら速い連打を終始叩き込まれる。9回、無防備になったところでストップ。ナン、一気に評価あがりました。
マイケル・オラジデVSアイラン・バークレー:
ー生き残り戦。これに負けると特にオラジデは後がない。でも初回からジャブでバークレーの突進をストップできない。バークレーは構わずガンガン前にでる。オラジデは下がりながらのパンチだからあまり効かない。
ー3回、バークレーの連打でダウン。もう決まりかなと思いきや4回。オラジデ得意の左フックがカウンターで炸裂。バークレーは膝をついた。オラジデは両手を挙げて勝利を誇示。ラッシュにでた右ストレートが命中。乱戦になりながらも左フックも当たった。しかしバークレーはタフ。なんとかしのいだ。
-5回ははじまるなりバークレーのかするような左フックでオラジデは横に吹き飛ぶようにダウン。ロープに詰めて滅多打ち。オラジデはよく上体を動かしかわしているがバランスが悪い。大きくよろめいたところでストップ。猛烈に抗議していたがこれがオラジデの実力だったんでしょう。バークレーの豪快なノックアウト勝ち。
フランキー・ランドールVSプリモ・ラモス
ーランドールはロサリオに僅差で敗れたとはいえ逆に評価を上げた。この試合も世界挑戦への試金石。相手のラモスはパンチのある頑丈な選手。初回はランドールのジャブとストレートが速くて強い。
ーところが2回、ラモスが振り回した右に続く左フックがロープ際で炸裂。もんどりうって仰向けに倒れたランドールはなんとかたとうともがくがノックアウト負け。このあとランドールは徐々に試合枯れになり麻薬売買でむ所暮らしを経験するという苦難を味わう。しかしここで「休め」たからかえってよかったのではないか。それが後にチャベスを破る原動力になった気がする。ラモス衝撃の2回KO。この後メルドリック・テーラーに判定負け。
トミー・モリソンVSドノバン・ラドック:
ーラドックはやはりタイソン戦以来打たれ脆くなった。この試合も初回、はじまるいやな得意の豪快な左フックを浴びせ続く右アッパーでモリソンは膝をつく。はやいかなと思いきや。結構攻め倦む。
ー2回終了にモリソンが逆襲。左右のフックを炸裂させ。右ボディーからアッパータイソンばりのコンボを打ち込む。効いている。
ー以降はなんとなくラドックの攻撃にはりがなくまたモリソンもそれほど目立つような攻勢はみせない。五回ラドックが勝負に出た左の連打から右を打ち込んだときモリソンの左フックがカウンターとなった仰向けにダウン。これで立ち上がれずモリソンの見事な逆転KO勝ち。正直さびしかった。やっぱりタイソンの強打を12回浴び続けたダメージはぬけきらない気がしたものだ。
グレゴリオ・バルガスVSケビン・ケリー
ー敵地アイルランドで地元の英雄ホドキンソンからノックアウトでタイトルを強奪したバルガスは29勝(20KO)2敗。かたや「無冠の帝王」そのもの無敗の43連勝(27KO)のケリーはいよいよ正念場。
ー歴史に残る高度なテクニックの披露および壮烈な打撃戦でした。前半3回はサウスポーケリーのスピードにバルガスはついていけない。バルガスのパンチが放たれるとケリーはもう射程外に去っている。
ーただバルガスもそうは簡単に当てさせない。入場時解説者が「この男はメキシカン典型のブラッド&ガッツファイターじゃない」「レベルの高い真のパンチャー」といっていたとおり。ケリーに肉薄し強打を振り回した。
ー7回にチャンスが訪れる。バルガスの右がカウンターになったロープに下がったところに左ボディ二連打。左右の連打を浴びせる。けどケリーはバルガスの右に合わせて左フックのカウンターを打つのがうまい。再三命中させていた。
ー一進一退。11回、バルガスの右ストレートがまともに炸裂。ケリーはしりもちをつくダウン。ここからすさまじ打ち合いがはじまる。両者全部をだしきって最終ラウンド。バルガスの勝ちかな?とおもいきや2-1でケリーが新王者に。バルガスの健闘は讃えてしかるべき。

43W30KO5L・Lloyd the 'Honey’ Honeyghan・「黒いカサノバ」・カリーを破った実力派 ・若干追加☆

Lloyd Honeyghan (born 22 April 1960)[1] is a retired British boxer and former undisputed welterweight champion of the world. Born in Jamaica, he was WBC, WBA & IBF welterweight champion from 1986 to 1987 and WBC welterweight champion from 1988 to 1989.
はじめに:
ーハニガンの試合はたくさんみました。ロッシ、カリー、バカとの二戦。ほかにもスターリング、ブリーランド、パチエンザ・・・。とにかく「パワー」がある積極的な選手でした。「名王者」のひとりに数えられるでしょう。
ジャンフランコ・ロッシ戦:
ーハニガンは21連勝中(13KO)。ロッシもまだ若々しい。この試合のロッシはあまり「クリンチ」はしなかった。ハニガンはパワフルで速攻型。初回からガンガン打って出る。体は固いようだけど「バネ」があり弾むようなフットワークから繰り出すパンチは破壊力があった。
ー3回までクリーンな展開。ロッシもよくジャブを放ち応戦。そこでハニガンの右フックが炸裂。ロッシはロープ外に半身を出すダウン。カウントなしですぐストップになった痛快なノックアウト劇でした。
Boxing career[edit]
Honeyghan was born in Jamaica and spent his early years in that country. He came to England at the age of nine to join his parents who had settled in Bermondsey. He took up boxing at the age of 11 with the Fisher Amateur Boxing club. He was a good rather than an outstanding amateur boxer. He boxed for England but never won an ABA title being beaten in the English semi-finals by Joey Frost in 1979.
Honeyghan turned professional with Terry Lawless in 1980. He debuted with a six round points victory over fellow novice Mike Sullivan. He won his first 13 fights, including a victory over the tough Kostas Petrou. Before positioning himself for an eliminator against the capable Lloyd Hibbert for the British Welterweight Title on 18 January 1983. Honeyghan outpointed the future British Junior Middleweight Champion over 10 rounds. He followed this by capturing the Southern Area Welterweight Title with a fourth round KO over the dangerous Sid Smith in March 1983.

ドナルド・カリー戦:ハニガン26連勝(16KO)VSカリー25連勝(20KO):
ーカリーは少しなめていたようだ。試合前の記者会見でも「ハグラー」とやることばかり話していた。「ハニガン、関心ないね。ただ王者としてのボクシングをするだけさ」自信過剰だったかも(もしくは後ろでマネージャーとのゴダゴダがあったので。わざとはしゃいでるようにも見えた)。
ー初回からハニガンが一気にエンジン全開。ひるまずガンガン打っていった。左右のワンツーからコンビネーション。カリーはブロックしているけど強烈なパンチ。終了間際、またワンツーからの連打でカリーの顎をはねあげた。
ー2回が山場。しばらくしてハニガンのー右ストレートが炸裂。カリーは膝をがっくり折ったがこらえる。足を使いながらクリンチで防ぐけどハニガンは接近戦でも打ち勝ってた。3回、カリーがパンチを出してくる。しきりにカウンターを狙い。終了間際左フックから右ストレートが命中。ハニガンはどうぜず。
ー4回、カリーは好戦的になってきた。ただ手数が少ない。ハニガンは相変わらず思い切りがよく。パンチに力がある。5回再び、2回とおなじハニガンのオーバーハンドライトがカリーの顎に炸裂。効いていた。おまけにバッテンティングで目尻もカット。どんどんジリ貧になっていく。カリーのパンチも当たってるのにハニガンはタフ。
ー6回終了前、またハニガンの強烈なワンツーからの連打が命中。カリーは戦意を喪失したような表情を見せる。そのままストップ。ハニガンが仰向けに倒れ快挙を祝す。ミッキー・ダフも大喜び。「統一」タイトルを手に入れた(WBA・WBC・IBF)。マイケル・バッファーのアナウンスが流れるなか、カリーが健闘を讃える。ハニガンは前王者の腕をあげ敬意を称していた。ボクシングの「最高」なところ☆ また後で☆ アヤラ
Honeyghan captured the British Title by 12 round decision against the tough Cliff Gilpin on 5 April 1983, after suffering the first knockdown of his career in the second round. Honeyghan later stated that Gilpin gave him one of his hardest fights.
He remained busy throughout 1983, travelling to the United States to defeat Kevin Austin, then outpointing American contender Harold Brazier in London before rounding off the year with a clear points victory in a British Title rematch with Cliff Gilpin.

ジョ二ー・バンフス戦:22勝(16KO)1敗・元モスクワ五輪代表のスイッチヒッター
ーバンフスはマッドドッグ・ハッチャーに11回KO負け。タイトル喪失後、ウエルター級にうつった。不可解ながら負傷判定でスターリングを破り。ランキングは1位。ただまったくいいところなくハニガンに2回でストップ負け。
ー「勢い」の差が大きい。初回からハニガンはサウスポーで対すバンフスにものおじせずガンガン打って出た。バンフスは圧力に押されバランスを崩す。ハニガンは実にパワフルで前半に強い選手。おまけに体の力も上だった。初回終了間際、ロープに詰めて猛連打。先制のダウンを奪った。ー2回、バンフスが出遅れたところへ強襲。コーナーにしゃがみ込んだバンフス。そのままストップとなるが。ルー・デュバが猛然と抗議していたのがなんともさびしかった。2回KO勝ちでハニガン初防衛。バンフスのラストファイト。
In 1984 Honeyghan fought only once, defeating Roberto Mendez. He suffered a serious hand injury and had to have a pin inserted into his left hand to keep the bone in place.
On 5 January 1985 he capturing the European Welterweight Title with a highly impressive third round knockout of future two time World Junior Middleweight Champion Gianfranco Rosi in Perugia, Italy. Honeyghan kept extremely busy during 1985, defeating three American contenders in world title challenger Roger Stafford, followed by Danny Paul and Ralph Twinning.
Honeyghan and Lawless parted company because Honeyghan believed that Lawless was spending too much time on the career of Frank Bruno and not enough on his career. He signed with Mickey Duff and Honeyghan closed out 1985 with a stoppage victory over fellow world rated Briton and former stable-mate Sylvester Mittee for the European, British and Commonwealth titles.
On 20 May 1986 Honeyghan stopped top American contender Horace Shufford in eight rounds in London, earning him a title shot against the unbeaten and undisputed World Welterweight Champion Donald Curry of the United States.

ホルへ・バカ(2):雪辱なる見事な3回ノックアウト勝ち・タイトル奪回:
ー初戦は、接戦の末9回負傷判定でハニガンは敗れた(初黒星)。ロンドンの再戦はライブ放送でみました。バカはパンチがありしぶとさと頑丈さで勝負するタイプ。ハニガンは初回から積極果敢に打っていくのはいつものとおなじ。この試合辺りからしきりにサウスポーにスイッチを取り混ぜる。
ーボディーブローが有効だった。突っ込むように左右をボディーに叩き込み。上に返す。ハニガンはみかけより器用なボクサーで体重のシフトもうまく。パンチはどれもスピードがあって強烈だった。
ー3回、ハニガンの執拗なボディー攻撃に根負けした形でバカはロープ際でダウン。そのままたちあがれず10カウント。強かったですねハニガン。
At the time Curry was considered the best pound for pound fighter in the world and Honeyghan was given little chance by the majority of the media. He caused a major upset by dominating the fight, nearly dropping Curry in the second round, before Curry retired at the end of round six. Before the fight Curry had himself dismissed his unknown foreign opponent, asking "Who is this ragamuffin?". Honeyghan thereafter adopted the title "ragamuffin" or "Ragamuffin Man" with relish.
ジーン・ハッチャー戦・前J・ウェルター級王者を初回40秒でKO:
ーハッチャーはバンフスをノックアウトした頑丈な強打者。一発のパワーもあった。けどそれほどのテクニシャンではなく。ウバルト・サッコにタイトルを奪われ。浜田が焦点を合わせていたWBCタイトルはオリバからコッジ(オリバを3回KOで戴冠)へと続く。
ー初回、はじまってしばらくにらみあいからハニガンが放った右がクロスカウンターになってハッチャーの顎を横殴りにした。そのままうつ伏せにダウン。すごい戦慄一発KO劇。立ち上がったところを猛連打。レフリーがストップしたらまたうつ伏せに倒れこむ。しばらく立ち上がれず。ハニガンは序盤の速攻がつぼにはまるとすさまじいいきのよさ。強さを発揮した。名王者でした。
The fight had taken place one night after another "expert shocker", when Edwin Rosario knocked out Livingstone Bramble in two rounds to claim the WBA lightweight title, and one week after Honeyghan's win, Ring Magazine mentioned his victory on their "Weekend of shockers!" issue's cover. (Rosario's photo was featured on the cover of that issue).

鄭栄佑戦:
ーアメリカでみました。やっぱり東洋選手がラスベガスで試合、しかもハニガンとやるというのが何より嬉しかった☆ しかもメインはスターリングVSブリーランド(2)。鄭は東洋王者として日本選手は勝てなかった。
ーハニガンはこの試合は70%サウスポーで戦いました。サウスポーでも迫力があり、この試合は距離をとってワンツーで攻めた。一方鄭はスピードも切れも及ばず。パンチはほとんど当たらない。その間にハニガンはガンガンストレートを叩き込んできた。4回、くらいでほぼワンサイド。ハニガンはこの試合は突貫でパンチを出しまくるより。冷静にサウスポーのボクサーみたいに戦った。足をとめて真正面からまっすぐで対した(このハニガンのサウスポー好きです)。
ー5回、クォーティー対朴(クォーティーほどハニガンはパワーはないにせよ)に似た展開。レフリーがストップしました。ハニガンの圧勝。
Honeyghan disagreed with the WBA's rules that allowed fights to take place in apartheid South Africa, so he publicly and controversially dumped the WBA welterweight belt into a London trash bin soon after winning it, relinquishing the title rather than defending it against South African Harold Volbrecht. This move would prove significant, as soon after, the WBA stopped sanctioning fights held in South Africa.
After winning the world title he changed his boxer-puncher style to that of more of an out-and-out slugger. In his first defence, after dominating and flooring his opponent in the first round, he caused controversy by racing across the ring and hitting his opponent, former World light welterweight champion Johnny Bumphus as soon as the bell sounded to start the second round. Bumphus was given time to recover but the fight had been knocked out of him and he did not last much longer. In his second defence of the title, Honeyghan defeated the then unbeaten future World Champion Maurice Blocker on points. He became a crowd pleaser with his all action style of fighting and recorded one of the fastest wins in a world title fight with a 45-second blow-out of former light welterweight champion Gene Hatcher of the United States.
He lost his title to Jorge Vaca in 1987 when a clash of heads meant that the fight had to be stopped due to a cut sustained by Vaca. The scorecards at the time of the stoppage favoured Vaca. Honeyghan became only the second British boxer in history to regain a world title when he easily knocked Vaca out in a return fight in the third round, the first being Ted "Kid" Lewis earlier in the 20th century. In the post fight press conference Honeyghan expressed his views on Mickey Duff, stating "Mickey and I don't mix outside of boxing, He looks at me as a pawn, a commodity. I don't like him." This elicited a memorable response from Duff who stated "Fortunately, there is nothing in our contract that says we have to like each other."

マーロン・スターリング戦・統一戦
ーハニガンはあんまり調子よくなかった。なんか攻撃もおとなしい感じ。というよりスターリングの「魔術師」の術中に陥ってるような気がした。前には出ているのだが、あまり有効なパンチは打てなかった。一方スターリングは着実にミスをとらえ目だ立たないけどインサイドから当てていた。
ーもっとハニガンの勢いある攻勢を予想していたので全体からすると盛り上がりはもうひとつ。淡々とラウンドが過ぎ。9回、スターリングのボディーブローでハニガンはダウン。あんまり強烈にもみえなかったけど。意気消沈した感じ。スターリングはある意味「ライツアウト」「ウィンキー・ライト」タイプ。そうは簡単にパンチを当てさせずうまくそらす。そうなるとそれに2勝したカリーはやはり偉大だ。スターリングKOで王座統一。
マーク・ブリーランド戦ブリーランドの全盛期23勝(17KO)1敗1分け・アマ110勝(70KO)1敗
ー思い出したのから書いてるので。スターリング戦はあとで書きますね☆
ーはじめにみたときは。ちゃんとみてなかった(結果は知ってたので)。ハニガン衰えたな、ワンサイドだ。と思ってたら。イギリス放送でみたら背景説明とスターリング戦以降のハニガンの生活が紹介されて。まだまだじゃないか。と気合入れてみました。
ー考えてみれば。バカとの試合は負けとはいえないから。スターリングに負けただけ。一方ブリーランドは一番強かったころ。速戦即決戦法が身についてた。決定戦で李・初回KO、尾崎・4回TKO(初回開始からどんどんワンツーで積極果敢)。
ー試合が始まるとハニガンはいつもとそう変わらず。相変わらず弾むようなフットワークから小刻みに動き。打ち込む隙を狙う。ブリーランドの距離が長いからそう簡単には入れない。ブリーランドはやや置くようなパンチながら左を打つ。この選手のボクシングはヒョロヒョロしてるようなあんまりカッコよくないところから。鞭のようなパンチを繰り出す。尾崎選手も試合ご「結構パンチ強かった」と感想。体の柔らかさでしないを効かして打つから伸びと鋭さが加わる。
ーハニガンはブリーランドのストレートで時々当たっていたけど。一瞬のすきをついて入り左右をふりまわす。3回、ブリーランドのおよそ10発ぐらい打ったんじゃないでしょうか。はじめの8発くらいは当たらずとも9,10と炸裂。そこでまた右ストレートが襲う。ハニガンダウン。あとは一方的、2,3のダウンはもう必要なし。ブリーランド、敵地で痛烈なKO防衛。ブリーランド、ロス組の中で一番贔屓(アマ時代から)。
ーちなみにブリーランドアマ時代、日本に来ました。瀬川正義とスティーブ・マクローリーがやったの覚える。ブリーランドは韓国選手だったっけな?でもそのときのアマ戦績82勝(64KO)1敗。だったからKO減ったんですね。ハニガンは引退。後にバリー・マクギガンが「ボクサー組合」を作ったとき。ルイス、チャーリー・マグリ、ハニガン、ブルーノ、シブソン、ユーバンクそんなところで元気そうだった。今はすっかり「でっぷり」肥満体(苦笑)。
Honeyghan next defended against tough South Korean Yung-Kil Chung, halting him in five rounds in July 1988. In February 1989 Honeyghan lost his title to former Don Curry victim and arch rival Marlon Starling. Honeyghan boxed wildly against the defensively excellent Starling, and was stopped in the ninth round after taking heavy punishment. Honeyghan returned later in the year, labouring to a points decision over Delfino Marin in the USA, however he appeared to be a fading force.
ビニー・パチエンザ戦:カムバック・衰え隠せず:
ーこの試合は何度も宣伝でやっていたので。よく覚えている。ハニガンが「一枚トランクス」だったのは参った(苦笑)。全体としてはサウスポーにスイッチしながら良く戦っていた。けど「ライト級」あがりのパチエンザの方が一回り大きくみえ。体の力で上回っていた気がする(圧力に押されっぱなし)。またハニガンのパンチは効かなかった。一発パンチもパチエンザの豪腕の方が勝ってた。11回、ボディーを攻められたハニガンはダウン。ストップ。完敗でした。ハニガンのラストファイト。
He had to apologise to the WBA for his previous actions in order to fight for the WBA title in 1990 against Mark Breland. By this time Honeyghan was past his best and was stopped by Breland in three rounds after being knocked down six times. Honeyghan claimed to be weight-weakened, but was probably both sliding skillwise and still suffering from the affects of the punishment he had taken in the Starling fight.In 1991, he resumed his career at light middleweight and during 1991 and 1992 he won six consecutive fights against relatively modest opposition in Mario Olmedo, John Welters, Darryl Anthony, Alfredo Ramirez, Mickey Duncan and Carlo Colarusso. In early 1993 he was still good enough to win the Commonwealth title at Light Middleweight by defeating the useful Mickey Hughes, however in June of that year he was stopped in 10 rounds by former world champion Vinny Pazienza. Victories over Steve Goodwin and in 1994 Kevin Adamson followed, with Honeyghan recapturing the Commonwealth Title in the latter fight. He did not fight for another year and retired after he was stopped in a middleweight bout by fellow Briton Adrian Dodson in three rounds in 1995, on the same boxing show as Nigel Benn v Gerald McClellan.
PED allegations[edit]
Lloyd Honeyghan always had trouble with his hands and tested positive for a painkilling drug after his fight against Marlon Starling. He was fined $1,500 by the Nevada State Athletic Commission.[2][3]
Post-retirement[edit]
Following his retirement, Honeyghan tried his hand in the music business and as a boxing promoter but with little success. He is a speaker on the after dinner circuit and can sometimes be found ringside, at major boxing shows in London.

44W42KO3L1D Wilfredo Gomez・「KOキング ・Bazooka」=「腐っても鯛」強かった☆ミュンヘン五輪代表☆元アマ世界王者+追加☆

Wilfredo Gómez Rivera[3] (Spanish pronunciation: [wilˈfɾeðo ˈɣomes]; born October 29, 1956), sometimes referred to as Bazooka Gómez, is a Puerto Rican former professional boxer and three-time world champion. He is frequently mentioned among the best Puerto Rican boxers of all time by sports journalists and analysts, along with Félix Trinidad, Miguel Cotto, Wilfred Benítez, Héctor Camacho, Edwin Rosario, and Carlos Ortíz.[4] His seventeen consecutive knockouts in championship defenses is a record for all boxing divisions.
ウイルフレド・ゴメス:32連勝(全KO)1分け
ーいろいろ問題はあったにせよ。強かったです。でなければ、世界最高記録の「17連続ノックアウト防衛」はできない。
ー現在は別人のように「肥え」てしまい。夫人を殴打して逮捕される不祥事もありました。
廉東均戦:タイトル奪取
ー12回KO勝ち。見事な連打とフィニッシュ。初回、足を使う廉をつかまえようと出たゴメスに右がカウンターとなってしりもち。それほどのダメージはないようにみえた。以後もずっとゴメスが追い廉は旋回する。
ー12回、捕まえた。廉のパンチをことごとく見切り。逆に倍浴びせるパンチはどれも強烈。すごいノックアウトで戴冠。無敗の20連続KO勝ち1分け。ゴメスの時代が始まった。
ロイヤル・小林戦:24勝(21KO)2敗1分け:
ーゴメスの二度目の防衛戦は日本で行われた。前王者「KO仕掛け人」のロイヤル・小林。同じくミュンヘン五輪日本代表(それを蹴ってプロ入り・32勝(28KO・RSC)3敗)。初挑戦は相手が悪過ぎた。21歳の若きアルゲリョのフェザー級タイトルに挑戦し4回終了間際。左右のフックを猛然と叩きつけアルゲリョをロープに詰めたが及ばず。
ー5回、まだ若く。荒削りな面もあったアルゲリョの強打爆発。本当に一発一発鋭利でまた伸びもあるパンチ。左アッパーが小林のボディをえぐった。ヨロヨロとロープに下がった小林に連打からまたボディーへ一撃。苦悶の表情を浮かべて小林はダウン。立ち上がったとこへまた上から下へ返す(アルゲリョは必ずコンビネーションにボディーブローを混ぜる)。小林もんどりうってダウンし悶絶。そのままテンカウント。アルゲリョの見事なKO防衛。
ーその後長らく小林はアルゲリョを強打を「氷で叩かれたよう」だと絶賛していた。けどこの「ゴメス」戦については多くを語らず。なぜか不思議に思っていたものだった。小林によると試合前、ゴメス陣営の巧妙な「駆け引き」「煽りたて」で頭にきてしまい。冷静さを失ったとか。
ー初回から小林はよく攻めた。ゴメスは顎に弱点があるという戦前の評判。小林はフックを振るいゴメスをロープに詰めようとした。ゴメスは下がりながらもボディー打ちから左右を顔面に浴びせて迎撃。この頃のゴメスのボクシングが好みでした。
ー3回のあの左フックのカウンターで顎をはねあげられるまで。小林が優勢だった。痛烈なダウン。もう試合は決まっていたけど。立ち上がった小林の根性はすごい。ゴメスの連打で2度のダウンを追加され。そのままストップ。ゴメスは巧いし強い。呆気にとられた。
カルロス・サラテ戦:スーパーファイト・21連続KO対54勝(52KO)無敗:
ーどうやらサラテは減量に失敗した様子。あと「真偽」は確かめようがないにせよ。ゴメスは「昂奮剤」か「麻薬」を使用して試合に臨んだという噂もある(試合前から異常なほどハイテンション。4回の二度目のダウンから5回のKOまで倒れた相手に「加撃」をやめないラフな行為)。
ー試合としては一級品同士の緊迫した一戦だった。サラテは短期決戦。めずらしく前にでてゴメスの弱い顎を狙う。ただ「俄かファイター」の帰来いがめず、的中率が悪い(あと、初回から焦燥感に包まれていた)。
ーゴメスはひたすら旋回しサラテをじらす。サラテは得意のレバーブローを打ち込もうと強打を振るうけど当たらない。4回までその展開。下がりながらゴメスの左ストレートともフックともいえる正確なブローが勇んで前に突進したサラテの顎をカウンターで打ちぬく。そのまま座り込むダウンのサラテ。
ーゴメスの目が「戦う男」の眼光に変わる。立ち上がったサラテはヨロヨロしながらもカウンターを狙い左フックをあわせた。ここでゴメスの右が二発カウンターとして炸裂。サラテは一回転してコーナーに座り込む。ゴメスはまた右を命中させ再びダウン。ここでテンプルに右を加撃。
-5回はあってなきようなもの。勝負は決まっていた。開始と同時にゴメスが最後の詰めに出てダウンを奪い。立ち上がったサラテはさらに打たれ後ろを向いてしまう。ここでサラテのコーナーからクーヨ・エルナンデスが飛び込み。TKOとなる。サラテ痛恨の初黒星。ゴメスはまた連続KO記録を更新。歴史に残る名勝負だった。Biography[edit]
Gómez was born in a poor area of Las Monjas in San Juan, Puerto Rico, the son of Jacobo Gomez and Julia Rivera. He has admitted to newspapers[which?] that, as a little child, he had to fight off bullies on Las Monjas' streets. He constantly fought in school as per his family members remember. He has told some Puerto Rican newspapers[which?] that he felt he was born to fight because of that situation. Gómez's father was a taxi driver and his mother was a homemaker. Gómez himself reportedly used a bicycle as means of transportation when he was young, and he sold candy to earn pocket money before becoming an amateur boxer.[5]
Amateur career and professional debut[edit]
Gómez won the gold medal at the 1974 Central American and Caribbean Games held in Santo Domingo, Dominican Republic, and 1974 World Championships in Havana, Cuba before turning professional.[6] He also competed in the 1972 Olympic Games in Munich, Germany, getting eliminated by an Egyptian rival in the Olympic's first round of bouts.[7] He compiled an overall record of 96 wins and 3 defeats as an amateur boxer. Because of his family's economic situation, he decided not to wait for the 1976 Olympic Games in Montreal, Canada, opting to begin making money right after the Cuban competition instead. Coming from Puerto Rico, he settled for less money and exposure from the American media, and moved to Costa Rica, where he began to tour all of Central America in hopes of finding matches. His professional debut came in Panama City, Panama, where he fought to a draw with Jacinto Fuentes.
サガッド・ポーンダビー戦:元ムエタイ三冠王・センサクの後継者
ー国際式転向後3連勝(3KO)、4戦目で無敗の王者ゴメスに挑んだサガッド。まったくいいところなく3回ストップ負け。あんまり覚えていません。初回はサガッドもよく前にでていた。けど打ちまくられ相手にならず。敵地タイで地元の英雄を平然と破る。たいしたもんです。
ホセ・セルバンテス戦:
ーサンチェス戦に向けた最後のJ・フェザー級防衛戦。相手は晩年ながらオリバレスをノックアウトした黒人選手。この試合はゴメスのベストファイト。見事な3回KO勝ちで優秀の美を飾った。まさかサンチェスに負けるとは予想できず。
サンチェス戦:二階級制覇ならず・初黒星
ー下馬評は「6-5」でゴメス。場所はシーザーズパレス。スーパーファイトでした。ゴメスは自信満々。ややなめていた帰来もあり。自信過剰で好戦的になりすぎていた。
ー初回、余裕のある表情で前へ出る。サンチェスはジャブを突きながらワンツーを放つ。ゴメスがロープにつめて打ち込んだところへサンチェスの右ストレートが炸裂。ひるまず豪腕をふるうゴメスに今度は左フックがカウンターとなってゴメスはしりもちをつく。信じられないといった顔をしていた。効いている。
ー立ち上がったら長いストレートを中心にサンチェスが猛攻にうつる。ゴメスはカウンターを狙いながらもロープに詰まってクリンチの仕方をしらない。よく踏みとどまったと根性に感服する。
ーゴメスにとって一番相性が悪く。苦手なタイプ。長身でストレート攻撃を主体とする小細工のないボクシングヲするサンチェス。ゴメスは懸命に挽回しようと打って出るけど。スウェーバックするところへ繰り返しストレートの連打を浴びていた。
ー6回が山場。ゴメスの右ストレートが命中。よろめいたサンチェスはコーナーに下がる。ゴメスはKOを狙って前に出る。ここでもサンチェスの迎撃をかなり当てられゴメスの顔面は無残に腫れあがっていた。
-8回、ノックアウト寸前までゴメスは相打ち左フックのカウンターで応戦。そこへサンチェスの右ストレートが顎を打ちぬく。ゴメスは大きくゆらいでサンチェスはロープに詰めて滅多打ち。ゴメスはロープに腰掛ける形で防戦一方。ダウンしてそのままノックアウトでサンチェスが防衛に成功。最後のベストファイト。
ーゴメスは完敗。でもそれからJ・フェザー級タイトルを全部ノックアウトで防衛したのは「腐っても鯛」の証でしょうね。
ファン・キッド・メサ戦:42勝(37KO)3敗・強打者未来の王者:
ーこの試合は、当時東京のさる「映写会」に参加していた兄が持って帰ってくる「パンフレット」でガルサ(無敗の42連勝(40KO))との一戦を控えるキッド・メサの写真と戦績が載っていたのが懐かしい。
ーサンチェスに負けた再起戦。リングサイドには亡き王者が座っていてゴメスは鋭い視線を送り続けた。アメリカのマニア(この試合は例外的に画像がよかった)とのやり取りで手に入れました(もはや過去の話(苦笑)。
ーメサはパワーがあるしパンチが切れる。けどこの試合もゴメスの「ローブロー」や「肘」が目立っていた。でも相変わらず「強い」。6回、コーナーに詰めて滅多打ち。一発パンチもピントール戦みたいに強烈だった。しかし最後のダウンもかなり「ローブロー」が混ざりこの試合はピントール戦とおなじく「きたねえなあ~」と嘆いたのも記憶に新しい。ゴメス連続KO防衛を14に伸ばす圧勝。
ファン・ラポルテ戦:40勝(40KO)1敗1分け・29勝(16KO)4敗
ーゴメスの二階級制覇。サンファンで4万の観衆。横のサッカースタジアムにも3万。プエルトルコは事実上の祭日。ラポルテはニューヨークに幼い頃移住した選手。ゴメスは地元、プエルトリコ生粋の生えぬき。7割がゴメスを応援していた。結果は大差の判定勝ちでゴメスの二階級制覇なる。ラポルテはもうひとつ元気がなかったのが残念でした。
ー試合前、リング上にはスターたちが勢ぞろい。ベニテス、カマチョ、ガジェハスやホームズもいた。にらみ合いで薄笑いを浮かべやや緊張気味のラポルテをゴメスは盛んに挑発していた。
ー初回、豪腕を振り合う。ラポルテの右ストレートがゴメスがスウェーバックしたところに命中。ゴメスは危なっかしい。さらに3~4発スイングを交換した後ラポルテの左フックが炸裂。ゴメスは後ろに下がり足を使う。一発の破壊力ではラポルテが上だった(ただ一般に言われてるほど「一発強打」だったともおもません。「KO率」もそうだし「倒せない」試合も多い)。
ーラポルテの大きいパンチをついてゴメスは細かく当てる。大試合慣れしている店ではゴメスが有利。巧さも数倍上。あと駆け引きやずるさもおなじく。ラポルテは左ジャブ(これが出ないときは調子が悪い)もでないし手数が少ない。
ー3回、ラポルテのチャンス。ところがラポルテが豪腕をふるって左右アッパーを放ちながらコーナーに詰めた瞬間。左フックがゴメスの顎を打ちぬく。ガクガクっとふらつき懸命に逃げるゴメスにさらに左フックの追い打ち。効いてました。けど後続パンチが続かない。もっと出て欲しかった(KOチャンス)。ゴメスのノーガード見切りの防御は「連打」(とくにストレート)を打ち込むのが一番有効ながら。むずかしいところ。
ーゴメスは相変わらずラポルテの大きいスイングを交わして小さく数当てるを繰り返した。6回がゴメスのKOチャンス。ロープに詰め連打を浴びせる。「ローブロー」は少なくないがあれだけ数を当てる「的中率」にはあらためて感心した。唯一ラポルテがバランスを崩して危なかったのは8回。勇んで突っ込んだところへゴメスの右がカウンターとなった。ぐらりとしてロープに前からもたれる。ゴメスはまた数で勝負。
ー一発の威力はむかしと変わらなかったと思う。ただ「勝ちに徹した」試合のようにみえた。ゴメスの顔はサンチェス戦やピントールより全然きれいな顔。そのまま12回ワンサイドの判定勝ち。ラポルテは以降、王者には返り咲けず。
Professional career[edit]
After this inauspicious debut, he reeled off a streak of 32 knockout wins in a row.[6] Including wins over Fuentes, who was dispatched in 2 rounds in a rematch, and future world champion Alberto Davila, who lasted 9 rounds before being defeated. His 32 knockout wins in a row make him one of two world champions with the longest knockout streak in history, placing him in a third place tie behind Lamar Clark (44) and Billy Fox (43) for the all-time knockout streak, and tied with Deontay Wilder. Among world champions, Gómez had the longest knockout winning streak; neither Clark nor Fox won world titles.[5][self-published source?] After Deontay Wilder defeated Bermane Stiverne for the WBC world Heavyweight title by unanimous 12 round decision on January 17, 2015, Wilder, who had won his first 32 fights by knockout, tied Gomez for the longest knockout streak by a world champion in boxing history, but at the same time had his own knockout streak snapped, ending his hopes to break Gomez's record and become the world champion with the longest streak.Gómez's knockout streak caught the eye of the WBC Super Bantamweight champion Dong Kyun Yum of South Korea, who travelled to San Juan, Puerto Rico to defend his crown against Gómez. Yum had a promising start, dropping Gómez 30 seconds into the bout, but Gómez picked himself up and eventually won the crown, his first world title, with a 12th round knockout.[5][self-published source?] His first defense took him to the Far East, where he beat former world champion Royal Kobayashi in 3 rounds in Tokyo.[5] Kobayashi had lasted 5 rounds vs Alexis Argüello. Next was Sagad Petchyindee in a small city of Thailand. He lasted 2 rounds. Petchyndee later became a world champion Thai and kick-boxer and famous actor in Thailand.[8]Gómez's streak reached 32 knockouts in a row. Those 32 knockouts in a row included what is generally considered to be his biggest victory ever, a five round defeat of World Bantamweight champion Carlos Zarate, who was 55-0 with 54 knockout wins coming into their San Juan bout.[9] Also included in that streak was future world champion Leo Cruz, beaten in 13 rounds at San Juan and Derrick Holmes, knocked out in five rounds in a fight attended, among others, by Sylvester Stallone, Carl Weathers and Alexis Arguello.[10] After recording his 32nd. knockout win in a row, he moved up in weight to face the world featherweight champion Salvador Sánchez of Mexico. He lost to Salvador Sanchez by 8th round TKO.
External audio

 You may watch Wilfredo Gomez fight various boxers, among them Lupe Pintor, here
Hoping to get a rematch with Sanchez, Gómez went back to the super bantamweight division, where he got a dispense from the WBC to make 2 preparation bouts before defending his title again.[11] He did so and won 2 non title bouts in a row, both by knockout in the 2nd round, one over Jose Luis Soto, who was a stablemate of Julio César Chávez back in Culiacán, Mexico. Wins over future world champ Juan 'Kid' Meza, knocked out in six in Atlantic City, and Juan Antonio Lopez, knocked out in ten as part of the Larry Holmes vs. Gerry Cooney undercard followed.[11] But all chances of a rematch with Sanchez were dashed when Sanchez died in a car crash outside Mexico City the morning of August 12, 1982. Mexico's boxing fans and general public mourned their gone champion, and boxing fans across Latin America joined Mexico in their tragedy. Gómez, who was training to defend against Mexican Roberto Rubaldino only 5 days later, took a quick trip to Mexico to offer Sanchez flowers and then returned to Puerto Rico the same afternoon. He beat Rubaldino by knockout in 8 rounds and made 1 more title defense, against the Mexican bantamweight world champ Lupe Pintor in the Carnival of Champions in New Orleans, winning by knockout in 14 rounds.[11] The Pintor contest was the only time a Gómez fight was showcased on HBO, which at the time exclusively showcased the largest boxing fights, much like the Pay Per View system does currently.By the time he was done with the Junior Featherweights, Gómez had established a division record of 17 defenses, and a world record of most defenses in a row won by knockout, all his defenses finishing before the established distance limit.[12]

ルペ・ピントール戦:二階級制覇を目差すピントールの正念場:
ーハーンズVSベニテス(ベニテス24歳、最後の「世界戦」になってしまった)のセミ。80年代版バレラVSモラレス(1)そのもの。すごい試合でした。終始一貫してゴメスがロープに詰めてすごい強打を叩きこむ。ピントールは懸命に応戦。後半は前に出てゴメスを脅かし続けた。
ー3回が特にいいラウンド。ゴメスが前にでた。左右を炸裂させる。切れていて破壊力満点のパンチ。続けて連打を浴びせ、下から上に返しその反復。ピントールはタフ。ガードも固いしひるまず左右アッパーからジャブを放ち迎撃。ゴメスの強さに感嘆した。
ー6回頃からゴメスはひと釘りつけたよう。ただこの辺から「肘」が目立ってきた。ラウンド終了後、ピントールが肘を押さえ抗議していた。展開は似たようなものながら。徐々にピントールがプレッシャーをかけはじめる。ゴメスは顔が腫れてサンチェス戦のような有様。あとやはり「体力」(フェザー級に転向してようとしているゴメス)でピントールは及ばず。逆転ノックアウトはできなかった。
ー14回はダメージが蓄積していたんでしょう。これといったパンチではないので呆気なく倒れてしまったピントール。立ち上がってからが見事だった。ゴメスは左フックをカウンターで炸裂させ。ピントールはマウスピースを吐き出しロープに座り込む。そのままストップ。痛烈なノックアウトでゴメス17連続KO防衛。歴史に残る名ファイト。何度も見ました(笑)。
Featherweight division[edit]
He then re-tried winning the Featherweight title and this time, he achieved his dream, winning his second world title by dethroning Juan Laporte, a fellow Puerto Rican who had won the title left vacant after Sanchez died. He beat Laporte by a 12 round unanimous decision. This time, however, it didn't last that long. Ahead on all scorecards, Gómez was the victim of a rally by Azumah Nelson of Ghana who knocked him out in 11 rounds in San Juan, December 8, 1984.[13]Gómez wanted either a rematch with Nelson or a shot at Junior Lightweight world champ Rocky Lockridge of New Jersey, whichever came first. Lockridge was first to offer Gómez a try, and the 2 battled a closely scored 15 round bout in San Juan, with Gómez being given a unanimous 15 round decision, which many experts have said Lockridge deserved, but also which in the opinion of most who saw it live, was a justified decision.[11]This reign also came to an end quick, Gómez being handed his 3rd loss at the hands of young Alfredo Layne by knockout in 9 rounds. Layne lost the title in his own first defense to South Africa's Brian Mitchell, and it became obvious Gómez's best years had gone by, so he retired after this fight.
アズマー・ネルソン戦:タイトル喪失:
ーもうゴメスは峠を越えていた。ラポルテ戦も全体をみればむかしほどパンチにスピードも切れもなかったといえる。そして一発の破壊力に頼る強引なスタイルが身についていた。
ーこの試合も豪快に打ち合った。ネルソンはまだ後の「ボクサーファイター」に転じる前の野性味あふれる好戦的なスタイル。バネのように弾みながら破壊力満点の強打を振り回してくる。ゴメスもよく見切り、スウェーバックでよけならがらカウンターを叩き込んでいた。ずっと打ち合いで11回。
ーネルソンの豪腕爆発。痛烈な左右フックをあび。最後の一撃で仰向けに倒された。結論として相手が悪すぎたのかな?ちょうど脂が乗り切る全盛期に達したネルソンは晩年のゴメスでは荷が重すぎたように感じる。この試合はあんまり見返していない。ゴメスの試合はあんまり見ないんですよね(苦笑)。せいぜい贔屓のラポルテやピントール戦ぐらい。あとは廉東均戦、まだアマスタイルが濃厚だった元世界王者・アマエリート。ネルソン11回戦慄のKO劇。新チャンピオン。
Last fights and retirement[edit]
Gómez tried a comeback in 1988 and 1989, but after winning 2 more bouts by knockout, he realized boxing wasn't in his heart anymore and retired for good. He later moved to Venezuela, where he ran into drug problems, causing him trouble with the law and spending some months in jail.[14] He attended a rehabilitation center in Colombia. Gómez rebounded and is now back in Puerto Rico, where he has managed to stay off drugs. He helped Hector 'Macho' Camacho with the training of Camacho's son Héctor Camacho Jr., who is a boxer in the Jr Welterweight division. In 1998, Gòmez became a born-again Christian.[15]On May 18, 2003, Gómez returned to Panama, where he was received by Duran and Eusebio Pedroza, among others. In a message geared towards Panamanians, he expressed thanks to that country, calling it his second country and saying, among other things "I'm very motivated now that I will return to Puerto Rico, and no one should be surprised if I buy an apartment in Panama and move my family here".[16] However, he bought a house in Orlando, Florida in 2006.Gómez had a record of 44 win, 3 losses and 1 draw, with 42 knock out wins. In 1978, he was named Boxing Illustrated's fighter of the year. He is now a member of the International Boxing Hall of Fame. Gomez was voted as the Greatest Super Bantamweight Ever in 2014 by the Houston Boxing Hall Of Fame. The HBHOF is a voting body composed totally of current and former fighters. In 2003 a biographical film entitled Bazooka: The Battles of Wilfredo Gómez was produced by Cinemar Films, the documental was directed by Mario Diaz and was filmed in New York City.[17][18]
アルフレド・ライネ戦:最後の世界戦・衰え隠せず
ーライネは14勝(13KO)5敗。やや負けが込んでるけど強打者だった。それにストレートをたくさん出す。体もやわらかい。ゴメスが負けそうな気がした(ロックリッジ戦ももはやかつての「パワー」は感じられず)。ウエイトもちょっとムリだったのでは?
ーしかしこの試合のゴメスは積極的だった。真正面で打ち合い3~4回はゴメスの右ストレートが炸裂し、その後の連打でノックアウトできそうなほど。ちょっと強気に出すぎた帰来。あとスタミナを失った。
ー7回、ライネのパンチが当たり始めた。ゴメスはもう余力がなく疲れている。8回、ライネの右ストレートが命中し。ロープに吹っ飛ぶ形でダウン。立ち上がってまた猛連打。ダウンしてノックアウトされる。
この試合が事実上の「ラストファイト」だと思います。3階級制覇・17連続KO防衛。ゴメスはやはり偉大なチャンピオンでした。
Personal[edit]
Gómez has three daughters Jennifer, Gina and Liz Irina and one son Wilfredo Junior.[19] He is good friends with Panamanian boxing legend Roberto Duran.[10]Gómez was once married to Carolina Gamboa.[20]On April 17, 2015, Gómez was arrested by Puerto Rican police after allegedly hitting his 59-year-old companion, a lady with whom he had been living for ten months. He was released after she refused to raise charges against him.[3]British boxer Michael Gomez adapted his last name from Armstrong to Gomez as a homage to Wilfredo, who was his childhood idol.[21]
A biographical book about Gomez, written by author Christian Giudice and named "A Fire Burns Within", is due to be released May 9, 2016.[22]

42W(39KO)7L1D=「野獣ジョン・ムガビ」(ウガンダ・英国)☆モスクワ五輪銀☆26連続ノックアウト「不運な天才豪打者」新追加☆

John Mugabi (born 4 March 1960) is a Ugandan former professional boxer who held the WBC light-middleweight title and challenged twice for world titles at middleweight. Nicknamed "The Beast", he was part of an exceptionally talented group of light-middleweights and middleweights during a 'golden era' that included Marvin Hagler, Sugar Ray Leonard, Thomas Hearns, Wilfred Benítez, Davey Moore, and Roberto Durán.
As an amateur, Mugabi won a silver medal in the welterweight division at the 1980 Olympics, and was the only medallist for Uganda at the event.

こんにちは、
ムガビについてはいろいろ断片で紹介したので。なるべく重複を避ける形を心がけますね。よろしく。
おそらく前例もないし今もいない。いわば「タイソン」などに比肩する独自の素質とスタイルを持っていた。それほどまでに「潜在力」を評価します。あの当てる巧さに加えて一撃の破壊力たるや。ブルーノのミドル級版そのもの(ただブルーノより「対戦者の質」が高かった)。どちらかといえば「タイソン」に近いとあらためて回顧します。
相手が悪かった:ハグラー
ーハグラーは強すぎた。ひとこと「運がない」。あの試合以来打たれ脆くなった(シブソンやハムショなどもおなじ)。11回ハグラーの猛打を浴びて壮烈なノックアウト負け。史上に残る名勝負のひとつ。けど「ダメージ」の観点からみればムガビは痛んでしまった(特に6回にはおよそ20発はハグラーの強打をまともに食ってました。それからもかなり打たれた)。
ー対戦者は元ホープ、まだまだ強かった頃のパーカー(初回KO)。ガイデン(ムーアに挑戦)、フレッチャー(アニマル・16勝(12KO)3敗)、ハーグローブ(25勝(24KO)1敗)、ガソ(元王者)、グリーン(岩石男)などなど・・・そうそうたる面子が軍門に下ります。
ーJ・ミドル級王者決定戦の故トーマス戦も、一試合「再起戦」を行ったらよかったと考える(ウエイトがL・ヘビー。そこから「J・ミドル」に急激に落としての末)。それでも2回、トーマスのクロンク式速くて伸びる左ストレートに大振りの右スイング一撃。あんなパンチで「クロスカウンター」を打ち炸裂させられるのはムガビぐらいでしょう(笑)。
モスクワ五輪とアマ時代:
ーモスクワ五輪(80年)は西側のボイコットにより後の「ロス五輪」(東側の不参加)以上にもりあがらなかった(旧社会主義国だけ・キューバは参加せず)。
ーこのときからムガビはいいボクシングしてました。でもやはり「不運」でしょうね。「ソウル」に出てほしかった。

フランク・フレッチャー戦:
ーフレッチャーはシピオンによもやの判定負けで脱落。続いてハンマードミンゴ・ロルダンにも6回。強烈な右を叩き込まれ深々と沈められた。勢いがなかったのも事実。
ーそこで生き残りを賭け連続KOのパンチャームガビと対する。フレッチャーはその前、ハードロック・グリーンとの肉弾戦に打ち勝った(6回ストップ勝ち)。ムガビはそのグリーンに大苦戦(3回はグリーンの連打を食い危なかった(クリンチの仕方をしらず))。
ームガビが終始圧倒。サウスポーのフレッチャーは何もできず。右ストレートから左フックまさに豪腕・戦慄の破壊力のムガビ。おまけにスピードもある。このまま「普通の王者」だったらチャンピオンになれたでしょう。ハグラーはなにしろ「相手が悪い」過ぎました。
ー2回にロープに詰めて放った連打。すさまじいものです。大振りだけど実に威力がある。4回にまた右ストレートが炸裂。そのまま一気に打ちまくり左フックから右でフレッチャーはロープに半身をだす痛烈なダウン(ストップ・ただこの試合は「ロープ」が(3本・ゆるかった))。ムガビ23連続KO無敗。ミッキー・ダフの秘蔵っ子=「育てた中で最高のパンチャー」兄貴分はボザ・エドワーズ。同僚にジョン・ムンタガもいた(17連勝(9KO)。
Boxing career[edit]
John Mugabi started as a professional on December 5, 1980 by knocking out Oemer Karadenis in round one in Kampala. Soon after that win, Mugabi moved to London where he became acquainted with boxing promoter Mickey Duff, an expert in boxer marketing who landed Mugabi various fights in England and built his reputation there. Mugabi won eight fights in Europe. Searching for more formidable foes, John moved to Florida where he became a favourite of American TV networks with his sensational knockouts of contenders such as Curtis Ramsey, Gary Guiden, former world champion Eddie Gazo, Curtis Parker, Frank The Animal Fletcher, Nino Gonzalez and Earl Hargrove through a display of tenacity and ferociousness.'The Beast’ as he would become known (for his ferocious attacks and untamable style—bashing his prey with overhand rights and wild left hooks) was able to fluctuate his weight between middleweight and junior middleweight. Some people lose effectiveness by changing weight classes, but not Mugabi. He was able to knock out every opponent he faced to that point of his career.Mugabi’s first victory of note came on May 2, 1982, when he took on veteran Curtis Ramsey. It was Mugabi’s 11th bout and he took care of the American in two rounds in Atlantic City, New Jersey. 1983 was a busy calendar year for the Beast. In that year he took on Gary Guiden, who had just come off of a Championship fight against Davey Moore; Mugabi stopped him in three. Many started speculating about Mugabi’s role in the future of the Junior Middleweight and Middleweight divisions. The fact Mugabi easily made the weight at both divisions made him more intriguing than most prospects. Nicaraguan, Eddie Gazo, a former WBA Junior Middleweight Champion provided Mugabi with his first real test. Gazo went rounds with Mugabi, but ‘The Beast’ ended things the way he always did. Mugabi was simply stronger and faster tactically overwhelming the busier Gazo. In the same year, Mugabi took on Curtis Parker a former Pennsylvania Golden Gloves amateur champion )The ‘meeting’ with Curtis Parker was on national television. Parker was an established fighter, but Mugabi’s destruction of Parker was savage. It was the first time that Parker had lost a bout by knockout.

ムガビの試合全般:
ームガビの兄弟子はエドワーズ。エリートアマで少年のとき。おなじく「難民」としてイギリスの保護された選手(高校時代に「ロックリッジ」といっしょ。アマチームの写真がなつかしい)。エドワーズも意外に柔らかさに欠けるながら。非常にサウスポーの正統派スタイル。強打の野生児そのものだった。
ーエドワーズの方がもっとコンパクト、インサイドからよく破壊力満点の左右アッパーと右フック。左ストレート大贔屓でした。エドワーズも「運」がなかったとしかいえないでしょう。アルゲリョ、カマチョ、ナバレッテ、ラミレス・・・「長期」はおそらくムリだったでしょう(層が厚すぎた)。ムガビも似たようなもの(カリーですらすぐ負けてしまった)。
ーなお、ミッキー・ダフ傘下にはジャマイカ系移民ハニガンもいました。ムガビとちと同僚。イギリスの「ツワモノ」たちだった。この三選手は明らかに「イギリスの枠」を越え「アメリカ」を主戦場=「世界の戦う王者」でした。
ーはじめてみた試合はバンパイア・ジョンソン(18勝(10KO)1敗1分け)。ベネズエラのマラカイゴ、カジノホテル特設会場での遠征試合。2回豪快な左フック一発で後ろに吹き飛ばしてしまった。びっくり驚き。以来ずっと「贔屓選手」になりました。さらに18~19と連続KO記録を更新。突っ走っていた頃は本当に魅力抜群でした(後は後なりにすばらしい)。
ー左右とにかくどのパンチでも強い(一打必倒の戦慄パワー)。スピードと切れがあるから大振りでもよけられない。こんなに一発に破壊力があった選手はやはり「タイソン」「フォアマン」などに肩を並べるはず。
ーハグラー、トーマスと連敗した後11連続ノックアウト。ジャコを初回ストップ。捻挫と試合放棄ながらWBCのチャンピオンベルト。嬉しかった。ミッキー・ダフやトレーナーも大喜び。ノリスは相性悪かったですね。
In February 1984 Mugabi’s ability to take adversity was tested by James ‘Hard Rock’ Green. Mugabi slowly took control of the fight until it was stopped in the 10th round, with Mugabi declared the winner by technical knockout. The bout between ‘The Beast’ and Frank ‘The Animal’ Fletcher marked a quiet maturity that marked Mugabi’s transformation from being what had been dubbed a ‘banger’ with raw power to a refined tactical boxer. The Beast hurt his prey, gently testing with his jabs and then in the 4th round a couple of round house punches and a haymaker travelling all the way from his waist caught Fletcher asleep—the fight ended with Fletcher’s body between the ropes.
カーチス・パーカー戦:
ー「フィラディルフィアの殺人パンチャー」17連勝(14KO)1分け。懐かしの「立ち読み」「ゴング」の「新人紹介欄」でみました(「アリ2世ペイジ」「フィラディルフィアの揺さぶり屋」(ジェフ・チャンドラー)さらに「クリント・ジャクソン」と続いた)。
ーやはりミドル級の「層の厚さ」で実力としては「下位ランカー」くらいだったんでしょう(ダビソンに判定負け・ハムショにも二連敗・シピオンにも負けた(全部判定負け)そしてムガビとの一戦。
ー試合前は自信満々だった。けどムガビがゴングと同時に振り回し。パーカーは圧倒されながらもカウンターを打ち込んでいた(当たってましたよ=ムガビはタフ)。中ごろムガビの豪快な右スイングからの連打が炸裂。パーカーは操り人形みたいにしゃがみ込んだ。立ち上がったとこにまた右を叩き込みロープ外に吹っ飛ばす。ひとこと「豪快」。強かったですねムガビ。初回KO勝ちで連続KO18。
アール・ハーグローブ戦:両者の績50勝(49KO)1敗
ーハーグローブは23連続KO勝ちのあとマーク・メダルに負けた(5回ノックアウト負け)。確かに一発パンチはありそうだ。けどスピードが足りない。それに防御ももうひとつ。しぶとい実力派メダルにストップされたのがわかる。
ーそれでも強打戦だった。ムガビはスタートからまたスイングの嵐。スピードがあってあまり振りの大きさは感じられなかった。ハーグローブも一生懸命右ストレートからフックと迎撃。ただ「強打合戦」に巻き込まれる(実力不相応の「振り回し」で対抗)。ムガビのラドックばりの左アッパーが天につきぬけ空振り。続いた右フックから返した左フック一閃。カウンターとなりハーグローブはダウン。
ーヨロヨロしている。再開後、ムガビのオーバーハンドライトがすごい。3~4発と続けて命中させもうハーグローブはグロッキー。そこへまたロープ際で左フックが顎を打ちぬく。棒立ちになったところへ右ストレートがダメ押し。痛烈なダウン。しばらく立ち上がれず。これ以降ハーグローブは単なる「中堅」選手になってしまう(倒し倒され)。この試合も何度も何度も繰り返しみて。また見たくなった(笑)。24連続KO勝ち。ハーンズと戦いたいとインタビューで言ってました(むろんDr・フレディー・パチェコ氏)。ミッキー・ダフも「勝ったほうとやる。もうジョンもランキングは1位だ。逃げようがない」みんな自信満々だった。あんがいハーンズの方が相性が良かったのかな?当たれば倒れる可能性もありましたので。その面でもハグラーは頑丈そのもの。タフでした。
On his way to becoming the number one contender for the middleweight title of each of the three major sanctioning bodies (WBA, WBC, and IBF),[1] Mugabi ran roughshod over the division and finished each of his opponents inside the distance. Mugabi's ferocity was captured by Phil Berger. Writing in the New York Times in 1986, Berger, commenting on Mugabi’s preparation for the Hagler fight noted the intensity of preparation that left his sparring partners in a 'woebegone condition' and further that some did not last long enough to draw their second paycheck and left Mugabi’s training camp ‘looking like extras from 'Night of the Living Dead'.
ジェームス・グリーン戦:’岩石男’に大苦戦=10回TKO勝ち:一段アップした試合:
ーグリーン戦はおもしろい白熱した一戦でした。2回早くもムガビは自信満々、豪打をふりまわす。どれもスピードがあって切れ味鋭い。しかしグリーンはうまく体を揺らして避けながら。待機戦法。
ー3回、ムガビが打ち気にはやりすぎた。そこにグリーンの右フックカウンターが炸裂。グラッと無防備になったところへ連打を浴びせる。ロープに詰まったムガビは「クリンチ」の仕方をしらない。一方的に強打を食らうばかり。解説者も「打ち返さないとストップされるぞ」といっていました。
ーその後も一進一退ながらだんだんと「勢いの差」と一発の破壊力がものをいってくる。グリーンの左目はムガビの右に襲われつづけたので塞がり。出血と鼻血で真っ赤。10回、ムガビが最後のノックアウトチャンスを狙って勝負に出た。スイングの連発でグリーンは目がみえない。40秒残したところでレフリーがストップ。グリーンは猛烈に抗議。惨状がゆえ冷静なデュバはじめセコンドになだめられていた。
ー強敵との苦しい一戦。これを積んで「天才」も育つものでしょう。10回TKO勝ちで連勝を22(全KO)に伸ばした。
Because of his ability to fight both at junior middleweight and middleweight, fans began to talk of the possibility of him challenging either world light middleweight champion Hearns or world middleweight champion Hagler. Despite Mugabi being a mandatory contender for some time, a Hearns - Mugabi title match never materialised, as Hearns elected to move to Middleweight to challenge Marvelous Marvin Hagler.Considering his streak and Hagler's tough battle with Hearns on April 15, 1985, some felt Mugabi had a shot at doing what eleven men before him could not: wresting Hagler's undisputed world middleweight title from him. On March 10, 1986 Marvin ‘Marvelous’ Hagler rose to a very stiff challenge. A young, undefeated power house was destroying every opponent in his path. John ‘The Beast’ Mugabi had won all of his contests by knockout—many spectacular; many in the first few rounds of the fight. He possessed incredible knockout power and provided the boxing world with an epic encounter.
エディ・ガソ戦:「安全運転」で4回にノックアウト:
ーガソをふりかえってみよう。それなりに強い王者だったのかもしれません。あくまで「日本選手」にとっては「高きハードル」。サウスポーの強打者柴田賢治に大差判定勝ち。前王者輪島をストップ(輪島のラストファイト・力を使い果たしていた晩年)さらに今度は「相手」が悪かった、
ー工藤政志は元「アマレス」王者だった選手。ガソの「クリンチ・もみあい」戦法は逆にもってこい。工藤が「体力勝ち」してチャンピオンになった。
ーその後、連戦連勝戦慄強打のホープだった若きハーンズは「ヒットマンスタイル」。初回ゴングと同時にガソがクリンチに来たところへ右ストレートのカウンター一閃。ガソは吹き飛ばされそのままカウントアウト。一発KOでした。
ームガビは距離をとってあまり手をださなかった(「調整」の試合だったんでしょう)。4回、ようやく豪打をまとめコーナーでしゃがみこませるダウン。レフリーはストップ。妥当だった。20連続KO勝利。
The fight was the first televised by Showtime. Mugabi landed his share of blows to Hagler's head during the early rounds. The turning point came in the sixth round, when Hagler landed many heavy blows and staggered Mugabi. Mugabi fought back gamely but his early knockout wins left him ill-prepared for a long, tough fight. In the end it was Hagler who came out the victor, with a knockout in the eleventh round. Many boxing fans consider this to have been the toughest contest of Hagler's career. Sugar Ray Leonard's decision to come out of retirement and challenge Hagler for the Middleweight Championship was heavily influenced by Hagler's performance in the Mugabi fight.

デュアン・トーマス戦:不運な王座決定戦での敗北:
ーこの試合は朝日新聞の朝刊。スポーツ欄の隅で知った。3回TKOでトーマスが新王者。鮮明に覚えている。16歳のとき。最後に「センタースポーツ」に行った日だった(当時は「リングジャパン」の「ビデオ」すら「センタースポーツ」でしか買えず)。
ーまず、何か不手際なり不都合があったんだろう。そう予想したらやはり「ムガビ、不運のTKO負け」(ワールド巻頭カラーの題名)。残念だったけどある種ほっとしたのも本音(レコードの「黒星」はどうにもならないにせよ。「負けて」はいない)。
ーみてみると。ムガビはウエートがきつかったんだろう。J・ミドル級へ「体重だけ落とした」ような印象を受けた(筋肉がもうひとつ足りなかったような)。ともあれ「試合」そのものはムガビが圧倒していた。トーマスはいつもの「デトロイト」ガードを上げ、ムガビの右を警戒。その位置からまっすぐ伸びるストレートを放つ。
ームガビは的中率が悪かった(ブランクが大きかったんでしょう)。けどトーマスの左はことごとくかわされムガビは豪快に振り回した(ミスが少なからず)。続く2回、しばらくすると豪腕一撃。ムガビのスイングがクロスカウンターになりトーマスのテンプルに炸裂。思わず後ろに下がるトーマス。効いていた。ムガビはここぞと前でてまたスイング。左右フックをぶんまわしたけどほとんど当たらず。ロープに詰め、ようやく左アッパーをトーマスの顎にかすめた。KOは逃す。
ー3回もムガビのペースだった。突然ムガビは苦しそうに横に向き。後ろを向いてロープに上半身をもたげる。目を押さえていた。スローでみると故意ではないにせよトーマスの左フックで親指が目に直撃。あれでは痛いだろう。けど「後ろに向いて」しまったのではどうにもならない(あのパンチが効いたように見えてしまった)。これも「不運」そのもの。3回TKOでトーマスが颯爽新王者に。リング上に祝福にあがってきた背広に蝶ネクタイのハーンズに「トミー!世界チャンピオンになったよ!」と喜びをわかちあい抱擁☆トーマスはデトロイトの路上で強盗に射殺される不幸な最後。享年36歳でした。
ノックス・ブラウン戦:連敗からの再起2戦目=「ダウンしたことがないタフガイ相手」:
ーアメリカでみました。トーマスとの決定戦で不幸な3回TKO負け(2回、右一発でぐらつかせ圧倒していた矢先の「サミング」後ろを向いてしまった)。ウガンダに休暇で帰り。すっかり太ってようやく始動した一年後の再起戦。かなり太めだったけど2回難なくしとめ豪腕健在を示した。
ーノックスは小柄な中堅白人選手だったけど。ダグ・デウィットに似ていた。とにかく打たれ強い。けどムガビにかかればわけなく沈められてしまう。一発一発の破壊力は以前より増したようにすらみえた。恐ろしく強烈。しかもじっくりちゃんと当てていました。2回にはじめのダウン(ノックスのキャリア初経験)、一気にスイングを振るいまた倒す。レフリーがストップ。圧勝で再起2連勝。
After his first loss, Mugabi retired to Uganda and ballooned in weight to 190 lbs. In September 1986 he contacted Mickey Duff, stating that he was ready to fight again. Mugabi went down in weight and was given an opportunity by the WBC to win their world light middleweight title, vacated by Hearns. Once again many fans favored him, this time against Duane Thomas, on December 5 of '86. However, Mugabi suffered a broken eye socket, the consequence of a punch in round three and the fight had to be stopped. Mugabi underwent optical surgery the next day to repair his injury.
ケ二ー・スノー戦:25勝(17KO)3敗の黒人ヒッター強豪:
ーアメリカで接続が悪く。歪んだ画面でみました。ムガビは頭をつるっぱげに剃って貫禄がついていた。スノーはムラがある選手で。前の試合で負けが込んでいるサウスポーの伏兵に判定負け(凡戦)。みました。パンチはありそう。
ーしかしムガビは初回から圧倒。スノーも勇敢に打ち返してましたが。ロープに詰められて豪快な連打を浴びっぱなし。やはりスピードと切れは以前より少し落ちたように感じたムガビ。かわりに「一発パンチ」は一層パワフルになった。
-5回、滅多打ち。スノーはダウン。抗戦続行を示したけどストップ。これまた妥当でした。この後、ムガビは再び連続KOを重ねることになり。楽しみでした。カリー、または「ロッシ」とやってほしかった(カリーとは違う「豪腕」でロッシを粉砕するのが見たかった(笑)。
Discouraged by two consecutive losses, Mugabi gained weight and did not fight for nearly fourteen months. In January 1988, he came back to fight Bryan Grant on the undercard of Mike Tyson's title defence against Larry Holmes. Mugabi won by quick knockout and set off on another knockout winning streak. He became number one contender for the WBC 154 lb title in August 1988 but could not land a fight with then champion Donald Curry. After Curry lost his title in an upset in early 1989, Mugabi was given another opportunity to become world champion by the WBC. On July 8 of that year, Mugabi finally made his dream come true, knocking out Curry's successor Rene Jacquot in round one in Grenoble to become the WBC light middleweight champion.After two first round knockout wins against Ricky Stackhouse and Carlos Antunes, Mugabi, who by this time was having difficulty making the weight limit of 154 lbs, put his title on the line against Terry Norris. When Norris downed the champion for the count with a right to the jaw, Mugabi received the dubious distinction as the second fighter, after Al Singer, to both win and lose a world title by first round knockout when he was defeated by Norris.Showing resilience, Mugabi resurfaced with two more wins and once again found himself fighting for a world title, facing Gerald McClellan on November 20, 1991 in London for the vacant WBO middleweight championship. Mugabi looked a shadow of his former self by this time, and once again came out on the losing end, again by a first round knockout.

ルネ・ジャコ戦:念願のタイトル獲得・遅すぎた春?
ージャコはまとまった正統派スタイル。いい選手でした。カリー戦はいわれているほど大差ではなかった。ただジャコの勝ちは間違いない。距離をとってよく左を出し続けた。カリーは中だるみからそのまま覇気もなく。後半スタミナも失い試合後「相手をなめていたのが敗因」。加えて「体力」ジャコは一回り大きかった。
ーただムガビ戦はいいところがなかった。あきらかに「警戒」というより「ビビってる」感じで体も温まらず。旋回していた。そこへ左ストレートにあわせてムガビは豪快なスイングで右フックを合わせる。ジャコの肩に引っかかる形でバランスを崩し倒れた(ムガビの右が、ジャコの左の肘に被さるようになり勢いですべってしまった)。
ーその際右足をしたたかに捻挫。痛そうでした。結局試合開始後、動けずすぐストップとなる。整理と決断にしばらく要した。けど結局、マーカンテレフェリーはムガビの手をあげ勝利を宣告。ムガビ陣営もやっと安心して笑顔に変わった。しかし「遅すぎた春」だったのはいがめない。
ー久しぶりにフランスに現れた世界王者。地元の屋外スタジアム会場は超満員。その中でこの結末。ジャコがかわいそうだったのも正直なところ(おまけにベンのように。振り回してバランスを崩しての自滅ではなかった)。あらためて「大場政夫」の根性と精神力に感服します。たいしたものですよ・・・☆ムガビ、初回TKO勝ちで念願のタイトル奪取。
ジェラルド・マクラレン戦:衰えた野獣・37勝(37KO)3敗・初回KO負け:
ーマクラレンはかつて「飛行機」が大の苦手だったそうだ。だからプロ入り後も実力にもかかわらず「行動」が限定されていたため出遅れた。
ーこの試合が初の海外遠征。将来悲劇の場となるロンドンである。相手は往年の「野獣」。ノリスに1敗地にまみれ再び頭を剃り上げてでてきた。
ー開始と同時にマクラレンは鋭い左を放つ。ムガビはゆっくりとした構えから軽く左右を打ち返す。重みはまだ十分ありそう。ここでマクラレンの必殺、右ストレートがカウンターとなってムガビは一気に崩れる。左右の猛連打を浴びダウン。効いていた(あきらかにノリス戦のダメージ。そして全体として「ハグラー戦」での蓄積)。あっというまにロープに詰められまたスピードのある左右ストレートを食らい。ダウン。立ち上がったとこにまたワンツー。ロープにもたれたところからがっくりうつ伏せに倒され。フィニッシュ。若きマクラレンの出世試合。WBOタイトル獲得。26勝(24KO)2敗(8回戦時代)。もともとJ・ミドル級がベストウエイトだったムガビには大き過ぎた。
ー試合後、まだ駆け出しの雰囲気で若いマクラレン。スチワートが肩を叩きながらインタビューに答えていた。これでマクラレンは「飛行機恐怖症」を克服。しかしロンドンは・・・なんともいえないですね(苦笑)。
Mugabi took a five-year layoff in which he moved to Australia.In 1996, he came back for the first of an eight fight comeback. He went on to claim the Australian middleweight championship by way of a 12th round decision over Jamie Wallace. It only took John two fights before he was in line for a world title again. In his third fight back from the loss to Norris, Mugabi would challenge Glen Kelly. That November night in 1999, marked the decline of Mugabi’s illustrious boxing career as he was again knocked out in the eighth round. Mugabi resides in Australia where among other functions he trains fighters.When Mugabi finally retired, he had a record of 42 wins, 7 losses and 1 draw, 39 wins by knockout.His 26 fight knockout win streak stands as one of the longest knockout streaks ever in boxing.
Life after boxing[edit]
Currently, Mugabi is working on his biography as well as a documentary. The themes of the project revolve around three spectrums: his journey, his glory and his determination to advocate the welfare of elite boxers. His biggest single concern is the need for emerging boxing talent to have a training program that goes beyond the gym to encompass learning a trade/profession as they pursue their dreams of boxing glory. After all a boxer at any time can lose their livelihood through a single punch or training accident with no fall back—no pension, no savings, no nothing. He has started his advocacy with himself. Mugabi is currently a student determined to gain what he may have lost in an illustrious boxing career-fulfilment outside the ring.
Mugabi has a 20-year-old daughter, Mildred Prudence Mugabi who lives in Tampa, Florida and he has another daughter who still resides in Kampala, Uganda named Mourine Kabasemera Mugabi.

ボクシング観戦記☆北米チャンネル☆ESPN ・HBO・ SHOWITIME☆(雑多名試合・本日新追加☆)

こんな感じで「第二弾」はじめてみますね☆


デラホーヤVSカマウ:
ーデラホーヤはスチワートを雇った。ジャブとストレートを多用した即席「クロンク」スタイル(28連勝(23KO)。この一戦は見事に完成。息が合ってました。一方カマウはソウル五輪ケニア代表。アルバート・ダビラの秘蔵っ子(戦績後で載せますね☆確か20勝(16KO)1敗)。
ーHBO放送で解説はフォアマンでした。カマウはチャべス戦(判定負け)は惜しかった。いい試合でした。どこのどれにも似てない「ケニア」のスタイル(体型としては故モデスト(友伸)・ナプニ(今井房男に6回判定勝ち)に近い・ボクシングもイコニ(デビュー戦「後楽園ホール」観戦(山本兼当を初回KO)。
ーゴングが鳴ると。ストレート対決。カマウはリーチが長くてよく上体を小刻みに振る。デラホーヤもジャブがよく伸びてました。カマウはワンツーを放つとからなず左右フック、アッパーに繋ぐ。2回まで一進一退。好戦的なスタイルになったデラホーヤの強打が爆発。ストレートから手打ちの左右フックをまとめてダウンを奪う。立ち上がったところでまた連打で倒した。見事なノックアウト防衛。でもカマウもよかったです。
ホリーフィールドVSモーラー(2):
SHOWTIME放送。この試合はモーラーも真正面から積極的に打ち合った。すばらしい一戦。前半は、モーラーがよく左右ストレートをついて連打につなげてた。
ーホリーフィールドが絶好調。サウスポー対策もばっちり。右から左フックを返す。モーラーは打たれもろい。けど一発パンチだったらモーラーもすっかりヘビー級の破壊力。もともと豪打者です。結構前半は当たってた。6回からつど、3度倒され8回に強烈なノックアウトでホリーフィールドのベストファイトのひとつ(峠を越えたけど。タイソン戦で一瞬最後の「輝き」みたいでした)。
ロバート・ワンギラVSバック・スミス(2):
ーESPNでした。初戦(レナードVSハーンズ(2)の前座・大スクリーンでみた)はスミスがダウンを奪いながら6回判定負け(スミス25勝(19KO)1敗・ワンギラ3勝(1KO)無敗)。
ーケニアだけどかまうとは全然異なるスタイル。まさに「野生」そのもの。パワー一本やり。ワンギラはアメリカ生活にも慣れてから強打が復活(ソウル五輪は全部ノックアウトで金メダル)。へっぴり腰みたいなスタイルから繰り出すパンチはウエイトがよくのりまた体が柔らかい。
ー17勝(12KO)1敗(伏兵にストップ負け)。スミスは150勝(120KO)1敗。地方路線ながら実力はホンモノでした。
ーワンギラは防御が甘い。そこをスミスに2回、突かれて強打炸裂。ロープに腰掛ける感じになりモロに2,3発食らった。リング外に転げ落ちる形でダウン。ストップされました。20勝(15KO)2敗。ワンギラもこのときすでに解説者は「現役続行」はむずかしいのでは。といっていました。
ー世界ランカー相手に連続KO負け。そのまま亡くなってしまった。終身戦績21勝(16KO)6敗 享年30歳。
メルドリック・テーラーVSジョン・ミーキンス:
ーこの試合はテーラーはかなり「たくましく」なってました。パンチに重みがついてきた(その分、デビュー当時ほどは速くなくなった気がする)。ESPNでした。ミーキンスはソウル・マンビー戦をみました。マンビーはほんとうにある意味「ライツアウト」式。タフだししぶとい。また「決定打」は結構許さない(倒した相手はいなかったんでは?)。10回大差判定でミーキンスの勝ち。
ーミーキンスは強打者のホープ。世界ランカーを次々破り20連勝(16KO)無敗。ただ「アマ歴」がなかった。終始テーラーがロープに詰め打ちまくる。ミーキンスのパンチはあまり当たらず(またどんどんやせ細った)。7回KO勝ちでテーラーの防衛。この2戦目がチャべスとの決戦。
ーテーラーはいつもとおり「ロス五輪」チームがいっしょ(各選手ごとに「試合」(笑顔などなし)のときと「応援」(リラックスしてる)はちがうのでおもしろかった)。
24勝(14KO)1分け(ハワード・デービス戦)。
ジョージ・フォアマンVSジェリー・クーニー:
ーまず、クーニーと「ラドック」の違うところ。「右」でしょうね(「白人」なのはまた別として)。左フック一発ならモリソンと比肩(勝るとも劣らず)。またフォアマンにひけをとらない。ただ「右」が有効じゃないし少ない(だからスピンクス戦は3回まで左フックの強打でスピンクスに圧力。「へっぴり腰戦法」に追い込みながら読まれてしまった5回に猛連打でしとめられた)。
ーこの試合も初回終盤、左フックの三連打が炸裂。フォアマンは大きくバランスを崩し効いていました。でも2回のフィニッシュは凄惨なKO劇。フォアマン得意の「左アッパー」が命中。続いて右のオーバーハンド。左右アッパーで棒が折れるようにクーニーは崩れた。立ち上がってきたところおどりこんで放つ切れ味重さすさまじい「左アッパー」一撃(ノートンを倒したのもこれ)。無重力状態になったクーニーめがけて右ストレートまっすぐ。豪快に倒れた。しばらく起き上がれないほどのダメージ。クーニーはもろい(モリソンもおなじく)。
ーけどクーニーの全盛期はそれなりにすごかった。ジミー・ヤング(4回KO)・ロン・ライル(初回KO・わずか40秒・痛烈な大勝)・ノートン(初回KO・すごいノックアウト。左右がでた。左フックとアッパーの豪腕ぶりはおそろしい)。「打たれ脆さ」と「根性」でしょうかね(スタローン氏(リング誌の表紙なぞに出ないでほしい(苦笑)とも仲良かった(~_~;
コンスタンチン・ジューVSザブ・ジュダー:
ーSHOWTIMEで解説はボビー・チェズ。ジュダーは27勝(21KO)1NC無敗。ジュリーは28勝(23KO)1敗1NC。ジュダーは一番ジューが苦手とするタイプ(射程外からまっすぐを打つ)。長い距離から左アッパーも繰り出す。
ージュダーはよくダウンしてました(ベルグマンにも初回倒された(6回逆転KO勝ち))。2回のダウンはジェイ・ネイディー氏(スチールより「不可解」に早いストップ)の「勢い」みたいなもの(すぐ立ち上がったジュダーの大きくよろめいて倒れたから過剰に反応(いっつも「止めよう」とばっかりやってるレフェリーの傾向なんじゃないでしょうか?
=あと気がついたのはあの「ゲイナーVSノーウッド」戦のおかしなレフェリーにしろこのネイディ氏にしろ「ボックス」(アマ式)。とかいう(偶然かもしれませんが=「ろくに知らない」(苦笑))人がすくなくない(-_-;
ー初回中盤にジュダーが炸裂させた右アッパーは強烈でした。ジューはスピードに圧倒される。ジュダーは続けて左右ストレートから豪快に振りまわす。速さがすごい。ただ初回の終わり頃ジューがまっすぐ打つストレートがかすめ以来、慎重になった。。
ー二回はジューがプレッシャーをかける。最後は呆気なかったけど。ネイディー氏を締め上げるなどジュダーらしい(苦笑)。地元の先輩「タイソン」がなだめていた。
モズリーVSムンディン:
ーこれは私にとっては「最新」の試合かもしれない。モズリーもさすがにおいた。体が大きくなったけどスピードはもうひとつ。後体の締まりもよる年波と疲れがみえる。ムンディンは「押すような」パンチであんまり器用な選手にはみえなかった。ただ圧力とストレートをたくさん放つのがいい。一発の破壊力もそれほどではない。モズリーの方がありました。
ーでもとにかく「頑丈」です。「先駆者」豪州原住民の故ライオネル・ローズと比べれば。スタイルは似ている。けどローズよりもっと「ぎこちない」動き。
ーこの試合でモズリーは背筋を痛め。「限界」として「引退」したけど。また「再起」して戦ってますよね(苦笑)。たいしたものです。
ーオーストラリアの原住民史課目を大学で受けました。悲しい歴史を持つのは「アメリカ大陸」と同じ(このカナダも含めて)。みんな「まじめ」で「口数も少ない」「あまり笑わない」共通してます。しかし「根性」がある。
ー個人的にはうれしいです☆往年の「白豪」主義が衰退した証。
エリック・ルーカスVSステファン・ウウレ(ライブ観戦・モントリオール):
ー時代と年代あっちこっちです(苦笑)。ルーカスはジョーンズにも倒されなかったタフガイ。一方ウウレも同じフランス系。けど「レベル」は一段下にみえた(正統派のいいボクサーです)。それにデーブ・ヒルトン(長兄)にも2度倒された(1勝2連続KO負け)。打たれもろい。
ー終始ルーカスが圧倒していた。ルーカスは一発のパワーにかけるけど。なかなかまとまったボクシングをします。ルーカスが9回ストップ勝ち。ただモントリオールの興行は奇妙(アマの公式戦が「前座」(それもアメリカと違ってあんまり「打ち合わない」)。
ーセミにヒルトン兄弟次兄アレックス・ヒルトンが再起中(27勝(20KO)2敗・晩年はウウレに「3連敗」)。ガス欠気味ながらサウスポーの黒人(テキサス出身)に8回判定勝ち。凡戦(それに「素行」(ホテルで泥酔・拳銃発砲で逮捕)は兄弟共通=悪い(苦笑)もあり。地元ファンにはもう「過去の人」扱い(あまり観客もわいていませんでした=さびしい)。マシューもみえた(右目を負傷して引退・デーブとともに「コンビニ強盗」で逮捕)。
ロイ・ジョーンズVSオーティス・グラント:
ーオーティス・グラントは上の試合にも出てました。派手さはないけどいいフォームで打つ基本とおりのサウスポーです。けどジョーンズとはボクシングの幅が違いすぎた。ジョーンズは本当に「オールマイティ」。どんどんいろんなパンチを力強く。また速く叩き込んでくるので萎縮してしまっている。
ー特に左右のアッパーが強烈でした。グラントはずっと前に出ているけどジョーンズはあらゆるフォームで自由自在に豪打を放ってくる。太刀打ちできず。8回、大きな左右アッパーが炸裂。ロープ際に吹っ飛ばされる痛烈ダウン。ノックアウト負け。
ジョーンズVSルーカス:
ーこの試合は大好きです。何度もみた。HBO放送、解説はフォアマンです。ジョーンズはこの試合は「ジャブ」を多用。ルーカスもよく左を出す正統派スタイル。だからストレートの打ち合いがなんとも小気味がいい、。
ージョーンズは相手によって戦法もどのような形でも「臨機応変」。力を抜いてやわらかい体からなんでもできる(サウスポーでも大丈夫)。応用力に恵まれるオールラウンド。まさに天才でした。パチエンザ戦も鋭いジャブでパチエンザを完封。豪快に強い左から豪快に左右アッパーを突き上げもんどりうって後ろ向きにダウン。戦慄のKO劇。強かったですねジョーンズ☆
マイケル・カルバハルVSウンベルト・ゴンザレス(1):
ーゴンザレスはパスクワに負けてからボクシングがかわった。むかしみたいに左右スイッチしながらガンガン強いパンチをふりまわす迫力が失せ。慎重に「力八分目」でサウスポーで戦う。金光善にもカウンターで応酬。バランスを失わず絶対にムリに前へ出ない。それで後半、コンパクトに打つパンチを炸裂させ逆転KO。
ーこの試合はその前にナパ(ビラモアにも2回KO負けしたダメージが残っていた)を久しぶりに豪快にしとめた。1回から都合4度倒して2回ノックアウト。だんだん様子をみながらピッチをあげていたように思える。メルチョール・コブ・カストロ戦(再起戦・12回判定勝ち・90%サウスポー迎撃戦法)からナパ戦。ようやくむかしの圧力と強打がよみがえった。
ーカルバハルは一発一発しっかり角度をつけて打ち込む選手。意外にKO率は高くない(手数が少ない)。軽量級のすばやい動きをされると結構立ち往生する。
ーゴンザレスは初回から「右構え」ファイタースタイルでどんどん出てきた。2回、サウスポーにスイッチしたワンツーが深々と炸裂。後ろに倒れこんだ。カルバハルはかなりダメージがある。4回またロープ際でゴンザレスの左右連打。右がカウンターになってまたダウン。ゴンザレスは強気になり過ぎた。こうなるとカルバハルも打ち返せる。乱戦模様。
ー徐々にカルバハルの一発破壊力が目立ってくる。七回、左フックを豪快に命中させ浮き上がるようになったゴンザレス。一瞬おいて仰向けにダウン。すごい。そのままカウントアウト。世紀の一戦でした。カルバハル29連勝(15KO)。ゴンザレスは31勝(24KO)2敗。でも再戦・ラバーマッチとも「サウスポー」で足を使い絶対真正面で打ち合わず完封の二連勝で雪辱。このあたりもおもしろかったですね☆
アユブ・カルレVSスンブ・カランベイ:
ーカルレの全盛期でした。カランベイはイタリアに移住したスーダン人。カルレはウガンダ。両方事実上の「難民」(亡命)で保護された少年だった。カルレの地元デンマークのコペンハーゲンで行われた試合。
ー二人とも若い。そして後年よりもっと「野性味」がみえる。特にカルレはのきなみ元世界王者をなで斬りにし連勝していた元世界アマ王者です(羽草勉(2回)・オベド(2回)・カンパニーニョ(2回)・ガソ(3回)などなどすごい)。一方カランベイもアマキャリアが重宝されイタリアが引き取ったようなもの。
ーこの試合の頃のカルレはもっと強かった。迫力とプレーッシャーが格段に上だったようにおもえる。もっとパンチも多彩で手数も多かった。カランベイは当時から巧い。両者ほとんど打たせずながら。カルレの3-0判定勝ち。カルレ好きだったです。私は「アフリカ」出身の選手はみんな贔屓。ガーナ=ネルソン、コナデウ、クォーティーウガンダー=エドワーズ、ムガビ、そしてこのカルレ(ムガビとやってほしかった)ケニア=イコ二、ナプニ、カマウ、ワンギラ・・・。
ーレナードとやったころはもう「勢い」が失せていた。だから三原(10連勝(9KO無敗)も十分チャンスはあったはず(挑戦の時期を逃がした感が強い。亀田昭雄もあのままマンビーに挑戦していれば(15連勝(14KO)無敗・この後「串木野」(1=7回KOながら打たれ負傷した・2=ダウンを奪われ判定勝ち)「松尾」(判定勝ち)。
ウイルフレド・ゴメスVSデリック・ホームズ:(アマ時代に初回KO負けした相手):
ーホームズは14連勝(11KO)1分け。ミュンヘン五輪でゴメスを破っていた。ESPNでレナードが解説。レナードはホームズのストレート攻撃を評価しゴメスは苦戦すると予想。
ーはじまるとホームズは長くて速いジャブをバンバン打った。ゴメスはほとんど「ノーガード」目でよけるタイプ。スウェーバックしたところへ鋭いワンツーが飛んでくる。この頃は往年の「カウンター」ではなく剛直一本で乱雑になっていたかもしれない。いいパンチをドンドン食って危なかった。かなり効いてました。
2回もおなじ展開。時折ホームズの長い右ストレートが顎に炸裂しグラッとしていた。けどだんだんとゴメスは見切る。終盤にははじめのダウンを奪う。相変わらず強い。しかし「ローブロー」が多かったです。
ー都合8度倒した圧勝。ゴメスの雪辱なる5回KO防衛。ながらゴメスは巧妙に「反則」を取り混ぜる選手。この試合も倒れた後に加撃するなどラフな態度も気になった。サンチェスに完膚なきまで叩きのめされる伏線。なんかホームズを応援していたので悲しかった。あの廉や小林と戦った頃の「カウンター」戦法。出入り激しいスタイルの方が好みでした。
メイウェザーVSエンジェル・マンフレディ(ガッティを破り勢い盛ん=15勝(10KO)1分け):
ーこの試合の頃のメイウェザーはまだ「プリティ・ボーイ」そのもの。オヤジのフロイドがトレーナーについたばかり。フロイドシニアはメイウェザーがデビューしたとき麻薬売買で「む所」の中にいた。ロジャーがずっと面倒をみていた。ただフロイドシニアはコラレス戦の前に解雇。ジュニアによれば「ロジャーの方がトレーニングに自主性を重んじてくれます。父がトレーナーのときは常にオーバーワークでした」ということ。
ーマンフレディはこれといってぬきんでたところがない分。非常にまとまっていて技術的にもハイレベル(ノンタイトルながら現役王者だった故ガッティはほとんど「空転」させられダウンを奪われた7回TKOで完敗)。パンチも切れがありスピードも申し分なし。
ー事実きびきびとしたいい試合でした。非常に噛みあっていた。けどこれは「相手が悪かった」でしょうね。2回、メイウェザーのスピードあふれるストレート攻撃からの猛連打でストップされる(かなり打たれました)。
考えてみれば「スーパー・ライト級」だったんですね。一時期ちょっとおかしな感じかな?と案じていたのが故ヘナロ戦ではしばらく影をひそめていた「ジャブ」をガンガン突きスピードで圧倒。ジョーンズの「臨機応変」オールマイティーに似ていた。
故ディエゴ・コラレスVSデリック・ゲイナー戦:磐石見事なノックアウト防衛+ネイディ氏の問題:
ーこの試合個人的にはすごく楽しみしていました。HBO解説はスチワート。敗者ゲイナーはじめマネージャーのロイ・ジョーンズなどみんなストップに不満を唱えていた(WOWOW放送でも小泉氏が提起していました)。2回最初のダウン。3回に2度倒したコラレス(余裕綽々自信満々で笑みを浮かべながら圧倒)の強さはさておき。
ーそれほど深刻なダメージではなく。ゲイナーはファイティングポーズをとり継続可能の意思表示。そのままカウントを続け「10」。WHY?ゲイナーは憤慨。もう少し浅慮は慎むべきとイチファンとして感じた。
ーゲイナーはコラレスのプレッシャーで足もスピードも封じられほとんど手を出せず。完敗。とはいえ試合後ブーブー文句に明け暮れる。ジョーンズも「これは世界タイトルマッチだ。判断にはもっと深慮を払うべき」としていて同感です。身長は同じぐらい。でもコラレスの度胸と迫力はすごい。ゲイナーがまったく歯が立たず。
ーコラレスも「家庭内暴力」(奥さんをさんざん殴打して負傷させる)で逮捕。服役「1年」そしてメイウェザー戦に臨む(まさに「完敗」。なにもできなかった9回KO負け)。ある種「恐怖・スリルマニア」であり。事故のときも「コカイン」の反応。および街道を「250キロ」の猛スピードで単車を疾駆。激突死。さびしい限りでした。享年32歳。カサマヨールとのラバーマッチで判定負け(1勝2敗)がラストファイトになってしまいました。
ファン・ディアスVSフレイタス:
ーそのコラレスに完璧に沈められ初黒星、連勝ストップのフレイタスは38勝(32KO)1敗。ディアスは畑山を滅多打ちにしてKOしたラクバ・シンをスピードと切れで翻弄。シンはまったくついて行けず12回大差の判定負けで王座陥落。30連勝(16KO)無敗。
ーフレイタスは気合入ってました。ただ「体格負け」(コラレスのも似たようなもの)はいがめず。フレイタスのベストパンチが何発も炸裂したけどディアスはビクともしなかった。J・ライト級時代の豪腕一本やりの荒武者KOキングから左右の小回り。体重移動をする技巧派に転じていてKO率は下がり判定勝負が多くなっていた。
ーたしかにこの試合も初回からロープを背にしカウンターで迎撃する戦術。ディアスの鋭い連打を浴びながらも。よく打ち返し有効打もかなりありました。けど相対的な体力で及ばず。だんだんディアスの迫力に圧倒される。6回、滅多打ちにされ完膚亡きまで打ちまくられた。ここで試合放棄(コラレス戦もおなじく)。引退を表明(最近久しぶりに再起してKO勝ちしました)。
ー巧くなった分、「角を折られる」形になった(ハメドのトレーナーがついたせいもあるんでしょう。いい面と悪い面が出て。フレイタスに関してはむずかしい。あの手ごわいウズベク人のWBO15度防衛のサウスポーゴレゴリアンを4度倒しながら仕留め損ねて二階級制覇・・・でもフレイタスは魅力ありました)。
見たかった試合メイウェザーVSカサマヨール:仮想対決
ーこの試合、ライト級で実現してくれないかな?ずっと楽しみ待ちこがれていた(実現せず)。メイウェザーはアトランタ五輪(キューバの に3回判定勝ち)準々決勝。カサマヨールはバルセロナ金(バンタム級、決勝でマッカラーを破る)。アトランタ五輪チームの選手村からガルベイといっしょに脱走。亡命に成功したつわものでした。
ーメイウェザーと戦ったらどうなったか?カサマヨールはスピードはそれほど抜群というわけではない。ただ「ウィティカー」に似ている感じで「的中率」がいい(またウィティカーより好戦的で一発パンチは上だった)。メイウェザーはジュダーを仕留めた(12回判定勝ち・ながら乱闘騒ぎまでボディーブローを多用しジュダーをジリ貧に追い込んでいる)形でカサマヨールをとらえられたか?カサマヨールはアマ300戦(メイは150戦)巧妙な「反則」(頭を抱え込んで打つ)にも優れていた。
ーメイウェザーに前にでさせる展開になったらおもしろかったはず(軸にカサマヨールは旋回し強いパンチを浴びせる)。そんなこんな私はこういう「アマエリート」同士の試合大好きなんですよね。
ーカサマヨールはエルナンデス(ジューコとの決定戦・最終回に逆転KOで戴冠・50勝(35KO)23敗・頑丈さが売り物(一発パンチはあった)とやったころの「アマ」スタイルが心地よかった。ジャブを打っては右アッパー。足を使って左ストレート非常に「機械的」な動きだった。体がやや固いのが目に付いたけど。
フランチェスコ・ダミアニVSタイレル・ビッグス戦:
ーアマ時代(ソウル五輪準決勝・ビッグスの判定勝ち)の雪辱戦。イタリアのミラノ。すでにビッグスはタイソンに負けた後。再起戦ながらまだ強かった。
ーこれみたとき思ったこと。ダミアニは「イタリア人」だしいっちょう「スタロー氏」と’スパー対決’でもやったらどうか?(ルックスも似てるしただ「本質」(アマエリート・プロ入り後25連勝(21KO)無敗)だったけど・・・)。
ーダミアニはうまかったしパンチもありました。メチャクチャな「ロッシ」などより「ステッカ兄弟」に似ていてきれいな「欧州風」スタイルだった。勘がよくて距離をとるのも当てるのも巧い(初黒星マーサー戦も9回、その瞬間までリードしていた(マーサーは完封されてた)。マーサーの鼻をこすり上げるような左アッパーでダウン。そのまま鼻血だくだく。「鼻が折れた」(真偽不明)とゼスチャーで試合放棄。マーサーのKO勝ち)。
ーこの試合はビッグスの左がまったく通じなかった。ダミアニはかいくぐって連打を浴びせてくる。ダミアニペースのまま5回、ビッグスの傷がひどくなった。古傷である。流血はとまらず6回ストップ。ダミアニの雪辱なる。見事なTKO勝ちでした。ビッグスは15勝(11KO)2連敗(この後メイスンにもストップ負けで3連敗・・・そしてまた「ルイス」に3回豪快に倒されてしまった)。
ドニー・ラロンVSレスリー・スチワート戦:「地元」で夢よもう一度
ーラロンは我カナダ中部、強風と殺伐とした「平原」マニトバ州ウィニペグ出身の元ホッケー選手(少年時代に左肩を負傷しそれがずっと響いていた)。苗字から推察すればおそらく「仏系」でしょう。「ゴールデンボーイ」として「モデル」も兼任(デラホーヤより「白人」だし髪も「金」。真っ白な「タキシード」で「ボクシンググローブ」そんな写真も出回ってた)。
ー20勝(16KO)2敗1分け。右の豪腕大振り一本やり。ハムショに引導を渡した(12回判定勝ち・ハムショのラストファイト)。つづく決定戦はスピンクスに挑戦。善戦したこともあるデービスとの一戦。まったく相手にならずラロンが痛烈なノックアウト劇。2回にまず右を叩きこみ轟沈させる。立ち上がったところへまた右、右と炸裂させ仰向けにぶっ倒してしまった。すごいKO。颯爽新チャンピオンに輝く。
ー初防衛戦。相手は元王者24勝(18KO)2敗のスチワート。スチワートの地元。ジョンソンを初回から圧倒。雪辱と戴冠を果たした屋外特設会場のスタジアム。地元の英雄に観衆は声援をおくった。
ー初回、ジャブを出し合いながらにらみ合いのかたち。ラロンはたくましくて大きい。そしていかにも頑丈そう。パンチも重々しい。2回、ラロンが打って出た。スチワートは下がりながら得意の「迎撃連打」(ジョンソン戦もこれでことごとく打ち返していた)を命中させる。ラロンは一瞬棒立ちになった。臆せずコーナーに詰めたラロンに今度は右ストレートのカウンターがきれいに炸裂。ラロンはタフ。ビクともしなかった。
ーずっとラロンが攻勢に出る。時折タイミングのいい強打を打ち返し応戦していたスチワートながら徐々に圧倒された。5回、ラロンの右、オーバーハンドライトでダウン。つづいてまた右、右と大振りで殴り飛ばす連打で無防備になったとこでストップ。完敗でした。ラロンは防衛に成功。レナード戦へ。一方スチワートはこの後チェズに判定負け。そして若武者モーラーにも8回ノックアウト負け。どんどん「噛ませ」的に落ちぶれたのは残念でたまりません(ひとこと「運」がなかった。それでしょうね☆)。
ダニー・ロメロVSウイリー・サラサール戦:ロメロ伏兵に初黒星(連勝20(18KO)でストップ
ーロメロは一発の破壊力ならライバルのタピア(判定負け)より上であり。また「豪打者」の魅力満載だった。とりわけ川島に挑戦したソーサを初回右の強打炸裂。すごい破壊力であっとい間に仕留めた試合は強烈だった。
ーこの試合。なんとなく不気味な雰囲気もなきにしにあらず(ボテボテ、寄る年波のロートルサラサールはかつてイシドロ・ペレス(張正九に僅差の2-1判定負け=「勝ったのはおれ」といっていた)を食い張に挑戦(6回ストップ負け)。一応大物食い。
ー蓋を開ければロメロは空転させられた挙句。目の腫れがひどく7回TKO負け。完敗だった。サラサールは巧妙にロメロの豪打を受け流し。着実にカウンターを叩きこむ。老練さで上回った。それにしてもロメロの苦手とするタイプだったでしょうね。後でもいつも負けるのはこういう選手とこの手の展開だったはず。タピアとの決戦はいい試合でした。けどサラサールは確かこの後。誰かにあっけなくKO負けしてました。
アヤラ また明日☆ おやすみなさい