boxingmaniaayalaのブログ

ボクシングマニア・悪童アヤラのページ

下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

☆「ボクシング観戦記」☆(北米テレビ・過去30年)=HBO・ESPN・SHOWTIME=☆印象深い試合☆新追加=ドナルド・カリー「堕ちた天使」+マクガート(テーラー・ウィティカー戦☆)

みなさん こんばんは、
はじめに・ボクシングと無関係:
BC州(ブリティッシュコロンビア州)バンクーバーで語学留学中の邦人女性。9日前、突如失踪したまま行方不明という悲しい事件が起こりました(まだ依然として消息つかめず)。
ーくわえて先週末連続殺人事件が起こり、2人死亡。容疑者3名逮捕。身柄拘束。調べたところ犠牲者は邦人ではありませんでした。ただ同じ国といってもわが「トロント」(在住22年・グライド・グレイ、ラドック、オサリバン、ブーシェ、一時期はルイス(ソウル五輪は「カナダ代表」など)と「バンクーバー」(オラジデ)(距離は飛行機で「五時間」バスなら「四日」沖縄県最南端石垣島・宮古島から北方領土・樺太までの二倍弱ほども離れています)。「モントリール」(五年住んだ・ヒルトン兄弟、グラント、現在のハイチ出身二人組みパスカル、スティーブンソン(前科モノからよく立ち直った)。
ーカナダは緩やかな連邦制。州政府の権限も強く各州とも独自・自治に近い(外交・軍事を取り扱うのが「連邦政府」)。遠いところで起った事件ながら拉致・誘拐・ギャングがらみの陰惨な内情らしく。しばらく尾を引きそう。そんな気持ちを振り払う気持ちでひと綴りしてから寝ることします☆ アヤラ
雑多・ボクシング観戦記:
また飽きっぽいのでちょっと趣向を変えてみました。
(1)、エディ・クック(モントリオールで見ました)・12連続KO中(14勝(12KO)無敗)
ー「こんな強い選手がいたのか」。試合後、フィリップスやマッキニーがリング上にいた。アマエリート。知らなかった。正直、びっくりしました。連続KOは相手がタフだったので逃した。とにかく無表情で沈着冷静。なによりすさまじかったのはまとまったサウスポースタイルから放つ各種「ボディーブロー」。
ーどれひとつとってもえぐるようなパンチ。アッパー、フックと上から必ず下に繋ぐ(大体ボディーが7割)。ただノックアウトできなかったので一試合でじっくり拝むことができたかもしれません。老獪そのもの。ロープに詰められても必ず迎撃して回り込む。ここでも「ボディーブロー」。「ぐえっ」て吐きそうなくらいの破壊力。10点満点。左右アッパーからワンツー。それでまた腹をえぐる。
ー小柄ながらジャブを忘れずしかも、実に多彩に力強くまたいい意味で「こじんまり」していてどのパンチも強烈無比。天晴れ☆以来
ー伏兵に思わぬ1敗。
コントレラス戦は絶好調(15勝(13KO)1敗)
ー静かな立ち上がり。5回に強打爆発。左ストレートが炸裂。ロープ際での猛連打から痛烈なノックアウト戴冠。すごかった。セコンドについていたバークレーが大喜びでかけあがる。続いていつものソウル五輪の面子たち。たいしたものでした。エスピノサとやってほしかった。
*エルエセール・フリオ戦
ー流血の痛々しい12回、まさに元アマエリート(フリオはソウル五輪銅)ならではの「死闘」でした。しかも敵地コロンビア。クックの勝ちでも文句は出なかったはず。それはさておいても、噛みあった「玄人好み」ならではの洗礼された技術合戦。いい試合でした☆
ー負けが込んでバレラに挑戦したときは往年の元気がなかった。7回KO負け。今、どうしてるでしょうね?
(2)、エンヘルス・ペドロサ(アメリカでみました)28連続KO無敗
ーデビュー5、6戦目だった。後年のフレイタスをもっと荒っぽくした感じ。スピードと切れがもうひとつの感じ。それでもそのパンチの破壊力たるや。すごかったです。さらにあの獰猛果敢な野生の表情と雰囲気。当時はまだ英語はほとんどできずの元アマエリート。コロンビアの若武者。楽しみにしてました。
ーペドロサの試合は何試合かみました(後にキャリアの分岐点となってしまった世界ランカーに判定負けした試合も見た)。
ーパワーは申し分ないにせよ。スピードがなくやや鈍重な動き。これが致命的だったのでは?そう回顧します。ジミー・モントーヤ(元ロサリオのトレーナー)に一生懸命英語を習い。インタビューでもがんばっていて励みになったものでした。
ーホーゲンに似たような白人世界ランカー(ボクシングも似ていました。派手さはないけど堅実にインサイドから打ち込む)に判定負けした試合。とりわけスピードがあるわけでもないし一発強打ならペドロサの方がはるかに上でした。ただ全然当たらない。スローモーションで打っているような感じで。さびしかった。大振り過ぎる。中堅相手なら問題なかったのが上位になればなるほど弱点と弊害がみえていた。大差の判定負け。二敗目。
ー後に葛西選手がラスベガス在住でがんばっていたとき。ペドロサもホルへ・ルイス・ゴンザレスなどと一緒にラスベガスにいた。まったく知らなかったので葛西選手とうつってる写真をみて嬉しかった☆ながらペドロサはウィキに情報が出ていません(悲しい)。BOX RECの方は「ログイン」だの面倒くさい(苦笑)。
(3), ハロルド・ザ’シャドー’ナイト:ルイスのセコンド:19連勝(15KO)無敗:
ーアメリカ当時。一番よくみて印象深かったのがこのナイト。みなさんはレノックス・ルイスのコーナーにちょっとほっぺたがふっくらした小さい男がいたのを覚えていますか?あれがシャドー・ナイトです。ルイスのデビューから最後まで変わらなかったのが嬉しかった(解雇されたぺぺ・コレア(ルイスにいわせると「チア・リーダーに過ぎない」(要するに「煽動屋」花火打ち上げ屋(笑)。コレアは次戦バトラー(日本でヤコブレフを圧倒。番狂わせの6回判定に破った後17連勝(16KO)中)のセコンドについて。ルイスに睨みを利かしてたけど。しかとされてた(笑)のあとも故スチワートに付き添うようについていた)。
ベイスモア戦:
ーベイスモアは15連勝(14KO)無敗で世界へ羽ばたく一戦。「ブラック・マンバ」そのもの。次々メキシカンの大物たちを食っていた頃のロジャー・メイウェザーに完敗(KO負け)。連戦連勝のホープナイトと生き残り戦。7回、ナイト得意の豪快な左フック一発で吹っ飛され横転。後頭部からダウンした痛烈なノックアウトとナイトが懐かしい(ロックリッジに負けたあと、負傷で再起を断念)。ベイスモアは、ずいぶん後にこちらも不幸なリング渦。セルゲイ・アルテミエフ(17勝(12KO)1敗)に7回ノックアウト負け。
ーアルテミエフはその後日常生活は問題なく。ニューヨークで同じく元アマの兄と一緒にひっそりと暮らしているはず。88年の旧ソ連、強化合宿の映像がなんとも物悲しい。団欒のひととき。大きなテーブルにみんなすわり。若きジューとユーリがひとりおいて座っていて。みんなでケーキを食べてるところ。向こうにはナザロフ、そしてこのアルテミエフ。さらに故ミロシニチェンコ(ミロシニ・アレキサンダー日本で2戦2勝(1KO)大物食いのピュリティー(ゴンザレス・ウラジミール・クリチコをノックアウト)をストップ・世界選手権金・ソウル五輪銅)。そこに奥さんといっしょにヤノフスキーが現れる(ソ連映像だから画像が悪い(苦笑))。ジューがふざけてユーリの口にケーキをぶちこんだりしている(ほっこり☆)。旧ソ連トップアマチーム、懐かしいかぎり。
イングリッシュ戦:
ナイトは故マイケル・ジャクソンの「バッド」をテーマに入場してくるのが常でした(オラジデは「スリラー」(笑))。そしてガードを高く上げ。左をつきながらとにかく大きく振る「左フック」一発の破壊力は豪快でした。しかも切れ味鋭い。この試合はクリンチに巻き込まれもみあいが続く。
ーでも9回、また「左フック」が炸裂。泳いだ相手に二三発小さく当ててまた左フック一閃。ノックアウト勝ち。ロックリッジとの世界戦に駒を進めました。
ロッグリッジ戦:
ーロックリッジの近況。非常に悲しく残念ながら「路上生活者」です。アル中、ヤク中、そして「パンチドランカー」。薄汚れた帽子をかぶってランニングシャツ一枚。ヨロヨロと荒廃した地域で路上の「空き缶」集めの姿を取材されてた。ため息しかでません(ドナルド・カリーもこれに近い。ちがうのは「アル中・ヤク中」でもないし「パンチドランカー」でもないところ=理由は複雑でさびしいこと。いずれ詳しく☆)。
ーまだIBFは15ラウンドの時代。ロックリッジは豪州でバリー・マイケルを大差の判定で破り戴冠。ゴメス戦はいわれるほど大差ではなかったにせよロックリッジの勝ちだったと思う(メイウェザーを初回、右ストレート一発でタイトル強奪とともに連勝をストップさせた試合も懐かしい)。ラポルテに右一発で倒され、ペドロサとの再戦にも破れた。一階級あげてボザ・エドワーズを判定で完封した金星に続きました。
ー前半はナイトが前にでてロックリッジが旋回。5回頃から逆。どんどんチャンピオンは圧力をかけナイトをロープからロープに追い回す展開。11回、ナイトの左フックが炸裂。かなり効いてドタバタしながらロックリッジは踏みとどまる。そのまま15回押し切り。3-0の判定防衛。文句なくナイトの連勝に終止符。まさかラストファイトになるとは考えられずでした。でもルイスがいつもインタビューで「ナイトに感謝してる」と加えていたのがなんとも嬉しかったです☆
(4)、レノックス・ルイス(ぺぺ・コレア時代):
ーソウル五輪はカナダ代表。ボウのパンチも当たっていた。ただルイスの右ストレートが破壊的。ボウはまだ経験不足の若武者に過ぎず。3回ストップ負けでルイスの金メダル獲得。銀のボウ、横には銅故ミロシニチェンコ(初回ボウにダウンを与えた。ボウは盛り返し3回ダウンを奪い返し判定勝ち)も並んでいたのがさびしく悲しい(2003年、階段から落ちて事故死・といわれながら「怪死」扱い)。
ーロンドンのイーストエンド(貧民街・むかしは「ユダヤ人」(ニューヨークに似ている)たちが多かった。その後は黒人たちのいわゆる「ゲットー」地域)出身。15歳でオンタリオ州の田舎町(私が住むところから車で一時間ぐらい)に移住。現在もわが「同胞」です(二重国籍・英連邦)。
ー本当にむかしから紳士一本やりのいいお父さん。ただブルーノ戦(これもHBO放送はおもしろかった。はじまるいなや故ダイアナ妃(ブルーノの勝ちと予想)はじめ老若男女、あらゆる人に「予想」「占い」をたずねて両者が現れおちゃらける)は圧倒的にブルーノファンが占めていた。
それとこういう「放送」などの「ユーモア」。センスとないものねだり。発想の違いもあるでしょう。ただ21世紀です。日本もそろそろ「国粋主義」(排他民族島国)から脱皮できなものか=悲しい(日本人が勝つか負けるか?そればかり。もはや北米30年。日本の放送は見る気すら起らない(さびしいです)。
ーともあれルイスはすばらしい人格だからどこでも好かれています。タイソンと対照的だったのは残念=タイソンはイギリスでサバリースをノックアウト(ストップ後の加撃は大問題)した後のインタビューで「ルイスの子どもを食い殺す」などと常軌を逸した暴言をはいた。ルイスは衝撃を受け「もちろん対戦する。ただし彼がまともな心である場合に限る。私の子どもを食い殺すなどとても正気とは思えない」同感でした。
ーその後も記者会見じのパフォーマンス以上に殺気立ってた(アリVSフレージャーよりもっと険悪)。殴り合い。タイソンはやはり歯止めが利かなくなっていたとあらためて回想します(「薬物依存」も自分で認めてた)。
ゲイリー・メイスン戦:
ーモントリオールで見ていました。メイスンも無敗しかも18連続KO無敗くらい?(ともあれビッグスに圧勝。5回KO勝ち)。ルイスは後のスチワート時代をおもえば考えられないように。バランスが悪い。下半身が頼りなくてふらふらしてる。ただ右の一発はすさまじい威力。ジャブもあまりでず。
ーメイスンのパンチも破壊力は満点だった。ルイスはヨタヨタ不安定なところから時折「ズドーン」と長い右を放つだけ。重々しいのは確かながらコンビネーションも不細工。ガードも低いし防御も甘く危なっかしい。
ーしかしルイスの右を度々受けたメイスンの左目はこぶ大にも腫れあがり完全に塞がっていた(トリニダードの左アッパーにさらされたチャムに類似)。7回、メイスンは横を向いてしまい。ちょうどレフェリーはストップのタイミングをうかがっていたところ。ルイスの圧勝。16連勝(15KO)無敗。PS:戦績は正確さを欠き。異なっていること少なからずです。アップを第イチに☆ アヤラ
ラドック戦:
ーラドックは明らかにタイソンとの二戦ダメージが蓄積していた。ペイジ、無敗のフィル・ジャクソン戦は問題なく壮絶なノックアウトでしとめていたにせよ。ちょうどハグラー戦後のムガビを思い出した(ノリス戦でそれが一面に)。打たれ脆くなっていたでしょう(特にタイソンとの再戦は12回通じてタイソンの豪打をまともに浴び続け。顔面は無残に腫れあがっていた。確か顎を痛めたはず(クエバスとの再戦で13回まで打ちまくられたアンヘル・エスパーダ(顎を割られた)にそっくりの顔)。
ールイスは相変わらずバランスが悪い。けど右の破壊力はすさまじい。一発パンチならボウもラドック(のスマッシュ(この呼び方は「悪用」されてるので好きじゃない)と比肩)も敵わなかったのでは。
ー初回は緊迫した豪打者同士の睨み合い。終了直前、ルイスの打ちおろし右ストレートが炸裂。顎に命中したラドックは踊り子のようにフラフラと崩れ落ちた(タイソン戦のダメージ)。
ー2回はもう一方的。ラドックも懸命にカウンターを狙ってたけどまたルイスのまさに「ジンクス」右ストレートを浴びKO負け。ルイス、地元ロンドンで颯爽新チャンピオンに輝く。
ジャクソン戦:
ーだんだんルイスの体が大きくなってきた。ジャクソンは強打者だけどとにかく身長もリーチも足りず。おまけにルイスの長い右ストレートに脅威され通しでまともに反撃できないままノックアウトされた感が強い。でもルイスはまだまだ危なっかしい構えで下半身がどうもヨロヨロしていて。右以外のパンチが不細工。
ー7回、右を打ち込まれたジャクソンはダウンしてそのままKO負け。ルイスのノックアウト防衛成功。
ブルーノ戦:
ーこの試合はイギリスのいわば「国民英雄同士」の一戦。ユーバンクVSベン以上だったかもしれません。70%がブルーノファン。30%がルイスといったところでしょう。ルイスはやはりカナダに移住したのと。ブルーノは長らく「英雄」まさに「英国紳士」でした。
ー28連続KO無敗のあと、ボーンクラッシャー・スミスにまさかに10回KO負け。そしてウィザスプーン戦。イギリスのグラスゴーだったと記憶してます。あの一戦はイギリスのボクシング史上最大の盛り上がり。屋外特設会場。ブルーノはまだ「ファイター」だった頃。
ー8回ぐらいまで優勢でした。11回、ややガス欠気味のところへウィザスプーン十八番大振りの右連発で倒されてしまった。ブルーノは体が固い。けど、ギクシャク、ガチガチした動きから放つ一発パンチの破壊力はすさまじかった。タイソン戦はよく研究してました。タイソンはルーニーを解雇し。ダマトスタイルから外れた一戦目。初回いきなり足が揃った状態からの大振り右フックを連発(ダマトのナンバーシステムから遺脱)。ジャブがなくなった。足が滑ったところをまた右フックを叩きつけダウンを奪った。とにかく左右力任せにぶんまわす感じ。
ーただ後半バランスが悪い。タイソンは「左フック」が出ないときは調子が悪い(ティルマンを倒したのもその「右ぶん回し」でした)。ロープ際でブルーノに食らった左フックカウンターは効いていました。さらに右フックを狙い打たれ。ダマトスタイルから離れてメチャクチャ戦法。悲しくさびしかった。
ーともあれルイス戦もブルーノはジャブ、ストレートを多様する新しいスタイル。まさにその展開でした。ただこの頃はだんだんボクサーファイター的なスタイルへの移行時期だったかもしれません。むかしのようになんというか「鎧の騎士道」みたいなヒットマッスルにものをいわせて重たい強打をガンガン放つ。から一層オーソドックス。
ールイスもいつものようバランスは良くありませんでした。5回がブルーノのKOチャンス。右のフックがルイスの顎を打ち抜いた。効いてました。すかさずフォローするパンチも強い。ルイスはなんとかクリンチで逃れた。続く7回、ルイスの右が炸裂。ヨロヨロロープに詰まったところに右アッパーの連打。さらに右フックを叩きつけまたアッパー。そこでストップ。いい試合でした。ただ私もブルーノを応援していたので残念だったのも本音。
ーしかしブルーノはマッコールからタイトルを奪取した。3度目の正直、後半はガス欠で最終ラウンドは危なかった。だからタイソンにノックアウトされ雪辱ならずだったけど。潔く引退したのはよかったでしょう。ブルーノもお疲れさまでした☆
マッコール(1):
ー地元イギリスでの試合。マッコールのトレーナーは故ペイジ。補助にスチワート。アメリカの「ジム」は日本とはまったく正反対。選手が「決める権限を持つ」。この試合後、ルイスにスチワートがつき。引退まで変わらず。
ー初回からマッコールは相打ちを狙っていた。すでに出鼻に右ストレートを叩きこむタイミングは合い始めていた。2回、ルイスが無防備に右を放ったところへカウンターが命中。ルイスはフラフラ立ち上がったけどメキシコ人レフェリーはストップしてしまう。ルイスは猛抗議。試合後のインタビューでも「ちゃんと立ち上がりファイティングポーズもとり。続行可能かときかれて「YES」と答えたじゃないか」と泣きそうな顔していた。
ーただあのまま続けてもいずれ倒された気がする。しかし続行させても問題はなかったはず。ここでルイスはぺぺ・コレアと決別。妥当な選択だったろう。マッコール、2回KOでタイトル強奪
(5)、ドナルド・カリー:Should have known better:
マッカラム戦:
ーこの試合については「恨み」と「天災」忘れられず。これはブログ開設当初「カリー」関連で書いたとおり。まだアメリカについたばかり。「スチワートVSヒル」の次がこの試合でした(その次が「ラミレスVSウィティカー」(1)パリでの初戦)。
ー各種コッパ雑用・ごみ捨て・皿洗いばっかの「仕事」にちっとも集中できず(苦笑)。ようやく終わって「さあ、カリーだ」と帰ったらその夜。メイン州ポートランドは「雷・暴風雨」に襲われていた。「電気が消え」おまけにビデオカセットに「おかしな’カス」みたいのがたまってる(あんなのは最初で最後の体験でした)。ミスりました。ニュースで「マッカラムの五回KO勝ち」と知ったときはカリーはすでにハニガンに負けて。さらに2勝がともに「反則勝ち」で勢い湿りだったのでそれほど驚かず(悲しかったですけど)。
アキノ戦:生き残り挑戦者決定戦:
ーアキノ対マクローリー。カリー戦も似たような展開となった。かつてのライバルとの力量、差が現れたと感じた。アキノは静かな立ち上がりから2回後半くらいから猛然と反撃にうつる。マクローリーはジャブでストップできない(カリー戦(大事な決戦で調子は悪かった。ジャブもスピードも鋭さもなし)よりワンツーも速くて切れてたけどアキノの突進力を止めるほどにはならず)。3回に痛烈なダウンを奪われ、終始圧倒されたまま11回にもう一度倒されワンサイドの判定負け(次戦でも無名選手にノックアウト負け。引退しました)。
ーカリーは勝ちに徹した。距離をとりジャブとストレートを多様。しかしアキノはまた2回半分過ぎぐらいから突如開眼のよう。すさまじい圧力と破壊力満点の左右を振りまわして肉薄。カリーはかなりアワ食らったようすでロープからロープに追われながらも懸命にブロックしながら足を使う(カリーの「アウトボクシング」はハニガン戦と同じく「逃げ一辺倒」で危なっかしい。これが「ハーンズ」などとの異なり)。
ーけど、マクローリーとの違いは「ガード」と防御がしっかりしていたことだったろう(クォーティーもいっしょ。決して「ブロック」だけではなく。結構スウェーバックやダッキングもよくみると交えてます)。アキノはだんだんシリすぼんだ。
ーただこの試合は「カウンター」はあまりみられず。とにかく「ガードを固めて」「距離をとった」戦術を貫徹した。7回、左右ストレートの連打をまとめたのが唯一「攻勢・積極」的にでた見せ場だった。試合後のインタビューでも「今日は大事な一戦だから勝ちに行くのは試合前から決まっていた」と笑って答え(横でアキノ(本当に「紳士」「スポーツマン」)も笑顔で聞いていた。かなり顔も腫れてるのに驚いたけど)「グレートな闘いは必要なかったんだ」みたいなこといってました。北米J・ミドル級新王者誕生。
ーアナウンサーが横でマネージャーのアブ氏(フィリップスにもついていました)に「ロッシとトーマスどっちがいい?」(7回KOでロッシが防衛=試合後「さあカリーだろうが誰だろうがやるぞ!誰とでも戦う準備はできた」といきまいてました(笑)と聞くと「やっぱりアメリカ人だからトーマスだろう」。続いてカリーにたずねるとほっと安心したような(アキノに勝って生き残れたような雰囲気と表情だった)感じから「どっちでもいい。関係ないよ」と答えていたドナルドがなつかしい(残念ながらさる「大事件」に巻き込まれてしまった不幸な引退後。後述)。カリーがフルマークに近い12回判定勝ち。ロッシ戦に挑むことになった。
ロッシ戦:
ーまず試合後のインタビューから「今日負けたらもう後がない。こんなに緊張したのははじめてだよ」と美人で背が高く。モデルみたいな黒人の奥さんを横に話してた(離婚して子どもにも会えなくなったのが悲しい)。
ー入場前リチャード・マークスのShould have known better=「知るべきだった」でカリーの経歴・背景紹介がはじまった(ESPNはHBOとはまた一味違う)。兄ブルースが発砲事件で逮捕され、直後に18歳の妹がオートバイに跳ねられ亡くなってしまったこと。マネージャーとの問題でブランク。もう一戦ウエルター級で防衛戦を強いられたこと(すでにJ・ミドル級で体は出来上がっていた=グリーンに2回終了TKO・パエスに6回ストップ勝ち)。試合に集中できなかったのはハニガン戦だけじゃなくマッカラム戦もおなじだったこと(ここはカリーの繊細で神経質な性格も大きく作用してるようにみえました=ここ一番で「勝負強さ」に欠ける。集中力を失う)。
ーロッシはいきあがる。地元イタリアでの試合。屋外特設リングは満員。ただアキノ戦(大差の判定勝ちでタイトル強奪)はとにかく「クリンチするために打つ」式展開に閉口しました(苦笑)。トーマス戦はややましだったけどやっぱり「クリンチ」して「離れ際」に打ち込む。それの繰り返しで「根勝ち」したような試合だった。結構痛烈なKO劇だったから自信を持つのも不思議ではない。
ー初回、後半またロッシのクリンチ離れ際の右フックを食らいカリーは一瞬腰を落とした。心配でした。アナウンサーや解説者もあんまりカリーを肯定的にはいってませんでした。それよりロッシの「八方破れ」戦法にカリー危うしみたいなおしゃべりばかり。
ーただ結論からいってまた「オクタビオ・メイラン」レフェリーのおかしなことばっかりの試合。今だに「史上に残る妙な試合」としてESPN・CLASSICでも出てきます(笑)。
ー2回終盤、ロッシが無防備に前進してきたところにカリーの左フックがカウンターで炸裂。ロッシダウン。ほっとして嬉しかった。以後はほぼワンサイド。4回が特に強烈だった。また力任せにクリンチと突進力にものをいわせてロープ際に押し込んだロッシに左フックが命中。顎が吹き飛ぶような破壊力。続いて右ストレートが顎をかすめ。回り込み左フックからアッパーの連打を叩きこむ。ロッシは膝をついてダウン(大騒ぎのリングサイド。イタリア人がほとんどなか。派手でケバい衣装をまとった黒人のお母さんと奥さんやおばさんたちが大喜びで立ち上がり拍手喝采。目立ちまくってた(笑)。
ーロッシはすっかり調子を狂わされてる。クリンチしようと前進するとカリーは必ず左フックをあわせてくる。八方塞がり。7回、ロッシがまた「クリンチ」しようと腕を広げてがら空きになったところ。カリーの「カウンター」冴えまくってました。右ストレートが炸裂。ロッシは膝を突く。これをメイラン氏は黙殺。解説者たちも猛烈に批判してました。
That was a knock down! the knee hit a mat! The referee he is really confused right now! that's a knock down! ダウンじゃないか!膝がキャンバスについた!あのレフリーはなにやってるんだ(という即席概要「邦訳」)。
途中でまたロッシがクリンチの離れ際に二三加撃したのも「OK!」とファイト続行。注意すらしない。
Look that he hits some during the break! Unreal this fight pretty much out of controlled this fight is pretty much out of control. the referee is not in controlled of this fight 見ろっ!離れ際に何発か打ってる!この試合はコントロールされていない。レフェリーはコントロールしていない。
この人はタイソンVSダグラスだけでなく数ある「世界戦」で似たようなおかしなことばかりやらかした。またカリーの左フックがカウンターになってロッシは膝をつく。これはダウンととった。そして終了間際勇んで突っ込んでくるロッシにまた左フックのダブルが命中。ロッシは前のめりにダウン。ダウンとはとったにせよ。ここでもまた奇怪な処置のメイラン氏 。カリーを突き飛ばす。
Look! he is pushing Curry away(笑) 見たか今の?カリーを突き飛ばしてる。なんてことだ(笑)
今思い出した。これもタイムキーパーは「3~4」なのに「1」から数えてた。本当に「レフェリーライセンス」没収くらいの「ヘボ」としかいいようないです。この人なんなんでしょうね?なんでこんなに「起用」されたのか今持ってして首を傾げざる負えない。ゴメスVSラポルテ戦もこの人(ゴメスの腿だろうが腎臓、尻、腰だろうが打つ「ローブロー」をちっとも注意せず。まあ、これはゴメスの「巧さ」でしょうね。チャチ入れようないようすぐ「上」に返して連打をまとめるので(ピントール戦の「肘」はひどかった。でも本当に「巧い」(「玄人」じゃなきゃ。わからないフォームで打つ)。
ー9回、カリーは明らかにノックアウトを狙って強打をふるいだし前に出る。ロッシはロープからロープに追われるばかり。ただまたロッシのラフで乱暴なクリンチとホールド。カリーが苦しそうな顔をして一瞬レフリーみると。ロッシに「戦え!」とせかす始末・・・まったくもってどうもなりません。アナウンサーも
Well he sais Go head!! you can hit whenever you want!! what a fight・・・(笑)やっちまえ、いつでも打ちたいときに打っていんだぞ。っていってます。なんて試合だ・・・(笑)。
ー10回がはじまるときアブ氏がthis is all or nothing Don!  All or nothing! You have to finish himと強くカリーに命じていた。ゴングが鳴るとロッシはコーナーからでられず(エリオ・ディアス戦に似ていた)。
カリーは手をあげて勝利を誇示。試合中はほとんどしゃべらずセコンド作業に勤めるばっかりのポール・レイエストレーナーもやっと笑顔。みんなほっとした感じだった。カリーの二階級制覇 10回終了KO勝ち。ただ後の「ロッシ」の勇猛果敢な防衛記録の「山」などみると。スターリングに2勝したのといっしょで。カリーはやっぱり偉大でしたね☆ しかし本当に悔やまれるのは「勝負強さ」と「集中力」それのみでしょう。アヤラ
リントン戦:かつての「弟子」との宿命・因縁の試合:
ーこの試合は37歳でのカムバック。リントンは愛弟子だった(ルー二ーとタイソンみたいな感じ)。しかもフォアマンやレナードみたいに「痛んでない」空白があるものじゃない。すべてを使い切っての引退からずいぶんたってのことです。
ーカリーの引退後は一時期ノーウッドを面倒みていてコーナーに姿がみえた。WBA殿堂のパーティーでも鬼塚と写真撮影。元気そうで何より。顎髭を伸ばして黒ぶちめがね。子どもたちとも「いいお父さん」ぶり微笑ましかった。
ーちょうど私がトロントに引っ越した95年頃だった。リング誌で知った。カリーが他二人のボクシング関係者と「麻薬売買・密輸」に加わり逮捕された記事でした。衝撃は大きかった。しかし実はいわゆる「保証人」として何もしらずに「印鑑」をついてしまったようなもの(クエバスもおなじ)。裁判は長い期日を要した。判決は「無罪」となった。でもカリーはこの裁判の弁護士費用などで全財産を失ってしまった。くわえて「名声」も「名誉」も「豪華な屋敷」や「自家用車」といっしょにすべて喪失。社会的にも一度はられたレッテルはどうにもならない。堕ちた天使そのもの。タイソンなどと違い実に真面目で物静か。問題なんか現役時代も起したことは一度もないカリー。かわいそうでなりません。
ー奥さんとも離婚して慰謝料と養育費。今もしょっちゅう「養育費不払い」で拘束され釈放。その繰り返し。悲しい限りです。最近は地域の市民センターで青少年相手のボクシング指導なども始めたようながら(チャコンも似たような境遇(パンチドランカー状態がひどい。ロックリッジにそっくり。一時は「路上生活」「空き缶集め」。しかしダニー・ロペスとある催しで再会した映像は嬉しかったです。チャコンは子どもたちにボクシングを教えて頑張ってる)相変わらず「不払い」=「72時間拘束と社会奉仕活動命令」(暴行傷害事件で逮捕されたバルガスもこの判決・あと「不法侵入・婦女暴行未遂」の故アヤラもはじめはこれですんだ。だから3戦も行えた)。
ーリントンはその一連の事件について「プライベート」な問題で暴言を吐き誹謗中傷したことにカリーが怒り。じゃあひとつリングで戦ってみよう。組まれた一戦でした(果たして「ボクシング」といえるのかどうか)。
ー結果はサウスポーの強打者。リントンのスピードと鋭さにまったく対抗できず。いいところなく5回ストップ負け。トレーナーはエディ・ムスタファがついてました。ときどき往年のしのばせるカウンターのタイミングはさすがでも。パンチの威力がない。まさに「ハエたたき」くらい。
ため息しかでないですね。現代社会の厳しさと不当さってのは。現役中は本当に研究熱心。アマエリート中のエリートながら「プロ」でのスタイルをポール・レイエストレーナー(ノリス戦まで変わらず)と一生懸命鍛錬に励み作り上げた(あの「接近戦」とカウンターもそうです。「退歩」マンガと異なり「本能」だけではあそこまで完成はできない)。「善良」な人だからは無関係に覆い被さる。その典型がカリーみたいなやや気弱な面を持ち。世間知らずの天才だったんでしょう=独語に過ぎず。
(6)、バディ・マクガート:16連勝(12KO)無敗・若き頃が懐かしい:

73勝(48KO)6敗1分け
フランキー・ウォーレン(1・2)戦:無敗対決決定戦
ーまずBuddy(Bud)とは「友だち」のくだけた俗語である。Riddick Big Daddy(Dad・オヤジ(とうちゃん)) Bowe=Samuel=(Sammy・Sam(こう呼ぶ場合は。一番親しい友人や家族ともなりましょう)・私の「英語愛称」Osamu=Sam・単なる「ゴロあわせ」に過ぎず)= Victoria(Vicky Vicki)= Robert(Bob)=Donald(Don Donny)=Thomas(Tommy Tom)こんなところを参考までに。
ーマクガートは若い世代。つまり「トレーナー」(つるっぱげの「デブおやじ」にしかみえず(笑)考えればむかし「現役時代」は懐かしい限り(当時は帽子をかぶって独特の背広と目がね=かっこいいハンサム貴公子でした)。とりわけ現役時代とほとんど変わらず。逆に「老けた」のが貫禄すらもたらした「ブリーランド」(表情に迫力が加わった・眼光もむかしより厳しい)などとは本当に対照的。その分まさにBuddy親しみが持てる(笑)。
ーこの試合はみてません。ウォーレンはフランク・フレッチャーを右にして小型。そんな感じ頑丈さとしぶとさ。そのものでした。たしか傷により引き分け。再戦はワンサイド、壮烈なノックアウト12回でしとめた戴冠戦。
ハワード・デービス戦:
ー後にマクガートはウェルター級、サイモン・ブラウンを出入り激しいアウトボクシングで翻弄。痛烈なダウンを奪った末のワンサイド判定で二階級制覇。ブラウンがあれほど打たれて。顔が腫れあがったのはノリス戦ですらみたことがない。
ーデービスはモントリオール五輪チームの中では常にトップ。レナードなどよりはるかに期待されていたホープ中のホープでした(ロスのビッグス、ブリーランドに近い)。ところがプロでは、ただ一人世界王者になれなかった。
ーこの試合はすでに全盛期を越していた代理挑戦者。ゴングが鳴るやいつものスピードあふれる。レナード、アリ式アウトボクシングでジャブは相変わらず鋭かった。しかしそこにマクガートは右をあわせ。クロスカウンターとなりあっけなく初回でノックアウトしてしまう(夏場、海岸ビーチの観光客用出店の「小型テレビ」でみました)。セミはチャべスに完敗。ロードバック初戦の故チャポも出ていた(こちらも初回、あっというまにKO勝ち)。いっしょにいた故大先輩が、「なんだよ。もう終わったのか」と驚いていたのが思い出される(笑)。
ー28勝(13KO)1敗。これがロサリオに挑戦したときのデービスの戦績。ブリーランドと似ていた。ウエートトレーニングをして階級を上げることをしなかった。試合数も少ない。敵地でライト級王者サウスポーのジム・ワットに大差の判定負け。これも分岐点だったんでしょう(ちなみに五輪中にお母さんが病死。それとデビュー後のマネージメント問題で集中できなかったそう(ロサリオ戦前のESPN紹介インタビューでそう答えていたけど。カリーに似ている。ここ「一番」の「勝負強さ」に欠けたのかも)。
ーロサリオ戦はいい試合だった(2-1・最終ラウンドに倒されなければ勝っていた試合)。アメリカだったらデービスに軍配があがってもおかしくない。ただロサリオはデービスの長いストレートをほとんどかいくぐり。当てさせなかったのは全盛期、カリブの天才パンチャーそのもの(まだ21歳でした)。後にデービスは40歳再起(これも「レナード」の悪影響なんでしょうか?)「ブルドック」のよな顔と体型で再起。ローゼンブラッドにいいところなく2回ノックアウトで敗れました(さびしかった)。
メルドリック・テーラー戦:まさに「超特急」・カマチョみたいな「クリンチ」なし:
ーひとこと。懐かしい。20歳でした。アメリカの田舎町、のどかな「天の川」の下。家で老大将と
いっしょにみました。はじめの紹介でデービスをノックアウトしたのに驚き。けれどテーラーのはある意味「玄人」にしかわからないだろう(苦笑)。
ーあのスピードと切れはすさまじい。出てきた試合は私も「見えなかった」(笑)。まさに閃光一発。左フック大振り。ボディーに叩き込んで(破壊力ありましたよ)悶絶させた。その大将も「???」(把握できず)「なあ~んだこりゃ?」でした(^_^
ーそれくらいこの試合はチャべス戦よりはるかに速かったです。マクガートがまったくついていけなかった。初回にデービス戦を彷彿。マクガートの右がカウンターで当たる。結構モロに命中してて。効いていた。でもそれだけ。あとはワンサイド。マクガートの右目は腫れてほとんどふさがっていた。フルマークでした。テーラー新王者20歳(ブリーランドの次にチャンピオン(一番はホリーフィールド)。
ーそれでも私が思うに「五輪」(17歳・フェザー級)この頃の方がスピードありました(プロ入り後は階級アップ・それでも速かったけど)。
ーマクガードもスピードあったし。一発の破壊力ならマクガードでした。
ウィティカー初戦:
ー接戦でした。マクガートのパンチも結構当たっていた。2-1でウィティカー。終始マクガートは前に出てウィティカーをロープに詰めていた。ウィティカーのカウンターはあんまり有効でなかったし。手数が少なかった。12回はもしかしたらダウンを奪えたようにもみえる。かなり追い込んでました。ウィティカーもウルタド戦(2回倒された=初回(このときはまだ笑っていた)6回(焦燥感でいっぱい。苦笑い)といっしょ。余裕がなかった。
ーモントリオールでみてました。まだ「新婚」だったっス(バツイチ)。デラホーヤとトリニダード以外では一番パンチ当てたんじゃないでしょうか。
ウィティカー再戦:
ーとくに中盤からはワンサイドでした。ウィティカーの大差判定勝ち(メイウェザーVSカスティーヨ(2)・バレラVSモラレス(2)に似ていた。初戦と異なりパンチ自体が余り打てなかった(メイウェザーは徹底的にあの「L字ガード」(手が出せなくなる・カスティーヨは打てなかった)で防ぎ圧倒。モラレスはストレート攻撃でバレラの射程外からどんどんまとめた。バレラのパンチはほとんど当たらなかった)(感想としては積極的になったのがかえってよかったようにみえる。その分、打たれる危険は増えた。でもこの試合は真っ向から対した。長い射程からどんどんアッパーやフック。ストレートをボディでまた遠距離から左アッパーボディー。完敗。よく研究もしたんでしょう。マクガートのパンチはまったく当たらず。完璧にシャットアウト。手数も少なかった(中盤から目の腫れがひどくほとんど塞がった)。

James the 'Lights Out' Toney=76W(46KO)10L3D2NC・「三冠王」+「のらりくらりの天才・決定打はついに許さず」アマ・33-2 (32 KOs)・ホリーフィールド戦新追加☆

James Nathaniel Toney (born August 24, 1968) is an American professional boxer. He is a former three-weight world champion, having held the IBF middleweight, super middleweight and cruiserweight titles; the lineal middleweight title; as well as having challenged for the WBA and WBC heavyweight titles. Toney was voted by both The Ring magazine and the Boxing Writers Association of America (BWAA) as their "Fighter of the Year" in 1991 and 2003. In 2010, Toney made a one-time appearance in mixed martial arts, losing to Randy Couture at UFC 118. Outside of sports, Toney played the role of Joe Frazier in the 2001 film Ali, alongside Will Smith.Early boxing career[edit]Before entering the ring, Toney started on the gridiron. Toney said he got scholarship offers from Western Michigan to play quarterback and from Michigan to play fullback. But Toney said, "I wasn't a team player and wasn't good at taking orders. So I went into boxing."[1]Toney had a brief but relatively successful amateur career, compiling a record of 33-2 (32 KOs).
故スチワートの評価:
クルーザー級、無敗の元アトランタ五輪金のバシリ・ジロフ(カザフスタン・31勝(27KO)・後述壮絶な打撃戦の末、トニーが最終回痛烈なダウンを奪った末3-0で二階級制覇)にトニーが挑んだときの解説が忘れられない。リング入りしてきたトニーを称してスチワートは「誰も実質的には彼を負かしていない」「一度も決定打を許していないまま」と語っていたのが忘れられない。
ー無敗対決となったジョーンズ戦がすべて。トニーは44勝(29KO)2敗、ジョーンズは27勝(24KO)無敗。高度な技術戦となったが、ト二ーは大事な決戦で減量に失敗。調子はもうひとつだったのが惜しまれる。この試合後、金髪のでしゃばりおばさんジャッキー・カレンと袂を分かつ。カレンは元ギャング・麻薬の売人だったト二ーをどういう経路か「ハーンズ」に頼んで自宅に住まわせて面倒をみてもらった女傑でした。
ナン戦:
ーナンは無敗の28連勝中?(17KO)。優勢で迎えた9回、トニーの放った左フックがカウンターになって痛烈なダウン。立ち上がった根性におどろいたにせよ。後続打でしとめられ初黒星。これでナンのキャリアもおかしな方向に進んでしまう契機になった帰来いがめず。
ートニーは初回からこちらも後に「バターの滑らかさ」と「スピード・切れ・鋭さ」対決となったマッカラムとの二戦(1勝1引き分け)の「複線」を示していたように回顧する。手数では倍以上だし、サウスポースタイルから相変わらず「手打ち」パンチ(ナックルが返っていない)ながら圧倒。ところがト二ーはのらりくらりほとんど有効に当てさせていなかった。
ー「大番狂わせ」といわれていたが「順当勝ち」だったんでしょう。ナンはバークレー戦(戦意不足の大接戦(2-1)で評価を台無しに・ここで故ダン・グーセン(トレーナー・兄ジョー・グーセン)と袂を分かち。一番避けるべき「マネージャー」なし状態に陥っていた)からおかしなリズムになっていた。
ーカリー戦(10回KO勝ち)はアンジェロ・ダンディーがトレーナーにつき。久しぶりに快勝したとはいえ。評価は上がらず(前半は再三カリーの右ストレートから左フックのカウンターを浴び。危なかった)。この試合も往年の「スピード」は鈍っていたように思う。
レジー・ジョンソン戦:トニーのキャリア最大の苦戦:
ーサウスポーのジョンソンは後にL・ヘビー級で、長身の王者をサウスポー対決(体格負けしていた)。右フック一発の逆転KO。東洋王者の宋を圧倒。8回ノックアウトで破ったのも記憶に残ってる。
ーさらに小泉氏が何かビッグ・ファイトの翌日だったので。浜田氏に薦めて1日帰国を延期。みたという微笑ましい話も覚えています。この試合はトニーが2回、ジョンソンの右フックで後ろにしりもちをつくダウン(結構効いてました)。続く3回、ダウンを奪い返して一進一退。高度な技術戦の末2-1で判定勝ち。ジョンソンは不満そうでしたけど。トニーのキャリア中、本当に「苦しそう」な表情をしていたのはこの試合だけしか頭にないです。
Toney had his first professional fight on October 26, 1988, beating Stephen Lee by a technical knockout in the second round. He was scouted and trained by Gregory Owens as a teenager, who also was his trainer through the mid-nineties. His moniker of "Lights Out" was also given by either Gregory or his son.[2] In his 7th pro fight, Toney's manager, alleged drug dealer Johnny "Ace" Smith, was killed. Afterwards, Jackie Kallen was hired as his manager. Toney also employed the services of legendary Detroit-based trainer Bill Miller. Miller, a former boxer himself who worked in Detroit's famed Kronk Gym and assisted hall-of-fame trainer Emanuel Steward at times, is credited with developing Toney's famed "old school" or "throwback" style of fighting.[3]
Middleweight career[edit]

バークレー戦:
IBFとWBC・S・ミドル級の統一戦。白人強打者バンホーン(ヒルトンを破ったハインズをバッタバッタ倒して強奪したタイトルは初防衛戦でロッシに完敗(再戦でも及ばず二連敗)。朴との4戦でやや「疲れ」がみえたリンデル・ホームズを11回ノックアウト戴冠)を2回、豪快に3度倒して二階級制覇のバークレーでした。いきあがり、その前哨戦。バークレーがセミで強打爆発。防衛を果たし、トニーも難なく防衛
ー試合後のインタビューでバークレーがパフォーマンスに興じる。「おれはぶっ殺してやるつもりだ。あいつはもうおれと戦ったら生きてはいないだろう」とマイクに調子込んでおしゃべり。トニーは冷静そのもの。「ああいのはナンセンスだ。これは「ビジネス」に過ぎない。おれは「ビジネスマン」だ」おもしろかったです(笑)。
ー今、不意にぱっとわいた(苦笑)。そういえばどの映画か存知あげませんけど。例のミッキーザ「クマちゃん・パンチ」ローク氏が映画でバークレーを「KO」してましたね(まったくもって=(~_~; 一方トニーも「アリ」(ウィル・スミス主演=みてません)で確かフレージャー?(フォアマンが「アル・コール?」覚えてません)役・・・そんなこんなでした。
ー試合はトニーの圧勝。9回TKO。バークレーは何もできず。顔は無残に痛々しく二倍ぐらいに腫れあがっていた。おそらくバークレーのパンチは一発も当たっていない。トニーはまさに「ライツ・アウト」、Whinky Wrightとやってほしかったです(笑)=冗談抜きにどういう試合展開になったか?おもしろいです。
Toney won the IBF middleweight championship by knocking out Michael Nunn in 11 rounds in May 1991. Toney - coming in as a 20-1 underdog - was down on all the judges cards, but landed a left hook that put Nunn on the canvas in the 11th round, and eventually scored the TKO victory.[4] The win also earned Toney the Ring Magazine Fighter Of The Year award.[5] Toney continued a regular fight program over the next 18 months at middleweight, before outgrowing the division, where he made several successful yet disputed defenses. The most noteworthy was Toney's split decision win over Dave Tiberi in a fight that many experts feel Toney lost. The decision was so controversial that it prompted United States Senator William Roth of Delaware to call for an investigation into possible corruption in the sport.[6] Toney also won a split decision title defense against Reggie Johnson in June 1991, retained his title with a draw against former WBA champ Mike McCallum in December 1991, and again against McCallum, this time by a majority decision, in December 1992. The McCallum fight would be Toney's last as a middleweight.[1]

プリンス・チャールズ・ウイリアムス戦:
ー正直、「マンガ」と異なり。「1階級」’下りて’くる選手はあまりいない(しかも「世界タイトル戦」では)。特にウイリアムスはL・ヘビー級でも体は小さくはない(チェズとの死闘=2連勝)。誰に負けたかちょっと忘れました。
ーともあれ、蓋をあければト二ーの圧勝。12回豪快に右ストレートを叩き込んで沈めた。ちょっと首をかしげたのはL・ヘビー級時代「プリンス」の異名とおり。華麗なボクサーファイターだったウイリアムスが「体力押し」戦法。なんとも不細工な蛮勇突貫スタイルに化けていたところ。
ー終始パンチより先に「体が前に」でてト二ーを力任せにロープに押し込むだけ(トリニダードに負けたあとのバルガス或いは私の大贔屓ソウル五輪金のメイナードがチェズに負けたあとに酷似)。
ージョーンズとの対決前哨戦。画面「半々」(こちらではよくある=デラホーヤVSバルガスなども)インタビューがまたおもしろかった。はじめに「一発パンチ」(私はジョーンズだとおもった)ではどうか?アナウンサーがバカ戦(初回左フック一発KO)やソーントン戦(3回また左フック一発で吹っ飛ばした)を例にだして。コンビネーションで倒すのはどちらだろう?トニーには手数で滅多打ちにしたバークレー戦、ウイリアム戦などを引き合い。ジョーンズには他多くとおなじく。ソーントン、立ち上がってきたところを暴風雨連打でしとめた。
ージョーンズは「一発はぼくのほうがあるでしょう」ト二ーは「おれは両方だ。パンチでも上回るし。連打でも倒せる」ここでトニーがバークレー戦の「冷静」さ(このときカレン女史との関係。亀裂が入り、うまくいってなかった。調整不足の裏返し?)を失い「おまえなんて相手じゃない。ドカスカぶっ倒してやるからな」みたいな乱暴発言を連発。ジョーンズはあのニヒルな笑い声をあげながら「まあ、試合まで待ってよ」。こういう裏ゴチャゴチャがなんともおもしろいのは。やっぱ「本場アメリカ」ならではしょうね(笑)。
Super middleweight career[edit]
Toney moved up to the 168 lbs Super Middleweight division.
On February 13, 1993, he challenged Iran Barkley for his IBF Super Middleweight title. After a dominating performance by Toney, the bout was stopped after 9 rounds by Barkley's trainer, Eddie Mustafa Muhammad, due to Barkley suffering severe swelling around both eyes.[7]Toney won five fights throughout 1993, then defeated Tony "The Punching Postman" Thornton in his 1st title defense in October, via a landslide points victory. In his second defense, Toney beat the 24–0 Tim Littles by a 4th-round KO. During this bout, Toney suffered a bad cut which caused the referee and ringside doctor to intervene before round 4, allowing him one more round to try to end the fight. His next defense was against former IBF Light Heavyweight champion Prince Charles Williams. Despite having a point deducted for hitting Williams after the bell in one round and having his left eye completely swollen shut, Toney knocked Williams out in the 12th and final round. This win paved the way for his fight with undefeated 1988 Olympic silver medalist Roy Jones, Jr..[8]
Jones won a landslide decision over Toney, an upset at the time, briefly flooring Toney for the first time with a flash knockdown in the 3rd round. Jones used one of his "cockfighting" feints to lure Toney in, and as Toney mocked Jones, Toney got caught with a leaping left hook.[9] After the fight Toney blamed making the weight for his flat performance and the loss of his cherished unbeaten record.[citation needed] It was his last fight at the weight.
His next fight saw him lose to Montell Griffin at light heavyweight in February 1995. After then winning a series of fights at light heavyweight, cruiserweight, and even heavyweight, he again faced Montell Griffin in December 1996 and once again lost a close decision. He beat old foe Mike McCallum in February 1997, but then lost to journeyman Drake Thadzi in his next fight.

ジョーンズ戦:スーパーファイト:
ーまず「前哨予想」のボクマガを紹介しましょう。たいしたものです。まさにそのとおりの展開になりました。ただ私はそれは望んでいませんでしたけどね(苦笑)。「ワイルドな一撃。暴風雨のような連打」ジョーンズ。しかし「気をぬけないト二ーが相手だから。パワーは八分目という・・・」。
ージョーンズの大差判定勝ち。トニーは調整失敗でもう一つ元気がなかった。3回、ジョーンズの「ガードがら空き」挑発パフォーマンスに応じてトニーもやらかした。途端にジョーンズの目にもとまらぬ左フックが命中(パンチ自体の威力はさほどなし。こちらも「目にもとまらぬ」感じでスウェーバックしていたんでしょう)。トニーは足が揃っていたのでバランスを崩し。コーナーにしりもちをつく形でダウン。これでジョーンズは調子を上げてしまう。
ージョーンズは一貫して「手数」「パワー八分目」の戦略を貫く。トニーはまた「のらりくらり」防御に努めるのが精一杯で打ち返すまでたどりつけない。ジョーンズは繰り返しコーナーにつめて5~6発まとめる。ジョーンズはサウスポーにもなれるし。この試合が分岐点でスタイルを作った気がした。「臨機応変」ジャブを鋭く突くときもあれば。この試合はジャブをほとんど出さなかった。
ー代わりに「ポイント稼ぎ」を重視した感がある。トニーが迎撃打を繰り出そうとするやさっと離れて射程外に去る。トニーは袋小路。解説者陣も「今夜のトニーはトニーではない」。まさしくでパンチをろくに打てないままジョーンズのスピードに翻弄されっぱなし。ムリしてKOは狙わず(狙ってほしかったのが本音)。勝ちに徹した。ジョーンズの圧勝。二人の明暗を分けてしまいましたね(以後ジョーンズは一気に華開き。HBO新設のアフターダーク(みんな「平服」(カジュアル)で出てくるアメリカらしい設定)の解説者になったり。大もて)。でも再戦して欲しかった(ずっとト二ーは主張してきたけど。これが「安全運転」「危険は犯さず」のジョーンズの「真髄?」だったんでしょう。クルーザー級(あるいはヘビー級でも可能だったはず)でも一切応じず)。
Cruiserweight career[edit]
After taking some time off from the ring, Toney came back in 1999, seemingly focused on reclaiming his status as an elite fighter. He defeated former title holders and title contenders Adolpho Washington, Steve Little and Saul Montana, as well as Sione Asipeli, Courtney Butler, and Michael Rush. In August 2002, Toney beat Jason Robinson in an IBF Cruiserweight title elimination fight. This set up a fight between Toney and the champion, Vassiliy Jirov. After a postponement, the fight happened on April 26, 2003. Going into the 12th and final round, with the scores fairly even and the fight in the balance, Toney knocked the undefeated Jirov down in the 12th. The Kazakh rose from the canvas to go to the distance, but Toney got the judges verdict and was now a three-weight World Champion.For Toney's performance he was awarded comeback of the year and named fighter of the year. The fight itself was named "Fight Of The Year" by The Ring magazine. Immediately afterward, Toney moved up to heavyweight.On November 4, 2011, Toney stepped into the ring at 199 lbs, the lowest he has been since 2003 against Russian star Denis Lebedev in Russia for the interim WBA World cruiserweight title. Toney was never competitive throughout the bout after encountering problems with his left knee during round two, and the judges all had it 108 – 120. A week after the fight it was revealed Toney needed surgery to repair his knee.[10]
グリフィン戦:
ーバルセロナ五輪代表のアマエリート無敗のグリフィンはエディ・ファッチがついていた(ヒルに似ている)。爆発的に魅せるものはなかったけど堅実でよくまとまったスタイルだった。試合は接戦。ながらこの試合もトニーは絶好調ではなかったはず。相変わらず「のらりくらり」バターの滑らかさでパンチは当てさせなかったけど。グリフィンはよく前に出て打ち込んでいた。その差でしょうね。
ーこの試合もまた「明暗」を分けたかもしれない。2-1でグリフィンと判定が上がるやトニーはびっくりして呆然自失の表情。でも負けてもおかしくはなかったでしょう。
ーなお、グリフィンはジョーンズ(1)にはエディ・ファッチがついていた。けど、もうロック・ニューマン(ボウ、マッカラーが傘下だった)のど素人マッチメーキングに愛想をつかして引退してしまう。だからジョーンズとの再戦ではあっというま。「戦う男」で気合入り打ち合いに応じてきたジョーンズに初回で粉砕されてしまった。ボウもあそこでWBCのベルトをゴミ箱なんかに捨てないでルイスとやっていたらまた違ったキャリアになってたと惜しい(結局主要団体からWBOといって剃れてしまいました)。
Heavyweight career[edit]
Even when Toney was a middleweight, he insisted that he would one day be the heavyweight champion of the world. His October 4, 2003, victory over aging former heavyweight champion Evander Holyfield was Toney's entry into the heavyweight division. After a shaky first round, Toney picked the Atlanta legend apart with shots to the body and head before stopping him in the 9th round. After the fight Toney declared he was "undestructable", that he "got milk baby" and didn't want any "bad ass questions" from announcer Jim Gray.[11]On September 23, 2004, Toney faced off with Rydell Booker. Although Toney injured his left arm, he was still able to defeat the clearly outmatched Booker, getting a 12-round unanimous decision for the fringe IBA World Heavyweight title.[12]On April 30, 2005, he defeated John Ruiz by a unanimous decision in a 12-round match for the World Boxing Association (WBA) heavyweight Championship. Toney joined Bob Fitzsimmons and Roy Jones Jr. as the only former world middleweight champs to go on & win a legit heavyweight title. However, Toney failed his post-fight drug test, testing positive for the anabolic steroid stanozolol. This led to the New York Athletic Commission changing the bout's official outcome to a "no-contest", deducting the win from Toney's career record and banning him from boxing for 90 days. The WBA ordered that Ruiz be reinstated as its champion and that Toney be ineligible for another WBA Heavyweight title shot for two years. Toney defended himself by claiming that the steroids were given to him by a doctor to treat the arm injury he suffered during the Rydell Booker fight.[13]In his bout after the Ruiz fight, Toney won a unanimous decision victory over former heavyweight contender Dominic Guinn. Toney next fought against Hasim Rahman on March 18, 2006, for the WBC Heavyweight title. The result was a twelve-round majority draw.Toney's next two outings were losses to Samuel Peter. The first fight was held in Los Angeles, California on September 2, 2006. Toney lost by split decision. The return bout was held in Hollywood, Florida, on January 6, 2007, and Toney once again lost to Peter, this time by unanimous decision. Both fights were WBC eliminator bouts for the belt held by Oleg Maskaev.
Toney's next bout came on December 13, 2008, against Fres Oquendo. Oquendo was penalized one point in round eight for a rabbit punch, which would prove to be the deciding factor in the fight. Toney won a close, controversial split decision. On September 12, 2009, James fought heavyweight fighter Matthew Greer (12–5–0 11KO) at the Pechanga Resort & Casino.[14] James won via TKO victory in round two.
On February 24, 2011, Toney made his return to boxing and won a ten-round unanimous decision against Damon Reed. All three judges scored the bout 100–90. For this bout Toney weighed in at a career high of 257 lbs.[15]
On April 7, 2012 Toney fought Bobby Gunn and won by a fifth round stoppage due to a hand injury sustained by Gunn.[citation needed] More than one year later on April 28, 2013 James Toney returned to take on Lucas Browne in Australia, for the WBF heavyweight title and lost by wide unanimous decision.[citation needed]It was announced that James Toney would compete in Matchroom Sport's Prizefighter Series at Heavyweight, it will be the 3rd Prizefighter in which International Heavyweights will compete. It will also be a 1st in a special UK v US tournament, the event took Place on November 14, 2013, at Bethnal Green's York Hall on its usual channel of Sky Sports HD. Toney won his first bout in the Prizefighter tournament against British heavyweight Matthew Legg. He won by a TKO in the 3rd round and advanced to the semi finals. He was defeated in the semi final bout by fellow American Jason Gavern by majority decision.
After a year and a half out of the ring, Toney decided to make another comeback in the heavyweight division at the age of 46. He fought journeyman Charles Ellis, and lost by ten round unanimous decision on August 8, 2015. Toney is scheduled to face (11-5, 7 KOs) Canadian journeyman Eric Martel Bahoeli in Ottawa, Canada on January 30, 2016.

ラモン・ガルベイ戦:
ートニーは確か2~3戦取りこぼしたはず。ながらずっとこちらも「のらりくらり」キャリアを続行してました。ガルベイはカサマヨールといっしょにメキシコの選手村から国境ティファナ(モラレスの出身・荒廃した街です・アメリカの「ゴミ捨て場」といわれている)を越え亡命成功。
ー14連勝(11KO)の後、ガーナのナポレオン・タゴー(アマ時代に勝っている・またこの一戦後、ゴメス(アマ時代ガルベイは2勝)挑戦=8回KO負け)に判定負け(ガルベイの勝ちでもおかしくなかったけど)。-トニーはずっと勝ってました。クルーザー級がすっかり板についていた。ガルベイは終始ロープに詰めていました。しかしトニーはほとんど当てさせない。かわりにカウンターを放ちまた的中率がいい。ガルベイを応援してたんですが。大差の判定負け。その後またガルベイは取りこぼし一気に3連敗(起死回生、背水の陣で望んだサウスポーの強打者セラーズを初回で沈めたときは嬉しかった。カサマヨールも大喜び☆)。
ー防御的、ほんとうにまとまった元アマエリートのガルベイもトニーにかかると「ライツ・アウト」になってしまう(苦笑)。つかみどころがない。また「クルーザー級」でも「減量苦」というのが信じられなかった。
Mixed martial arts career[edit]
Toney was spotted in attendance at UFC 108 on January 2, 2010, which led to talks between him and UFC President Dana White regarding fighting in the organization. On March 3, it was confirmed by White that the two had agreed and signed a multi-fight deal with the company, at the age of 42.[16]To attempt to help his transition into MMA, Toney was coached by trainer Juanito Ibarra.[17][18] Toney was later coached by Trevor Sherman.[19]

ジロフ戦:
ーHBOの年間最優秀試合となりました。故スチワートやアナウンサーみんなはり叫ぶように興奮していたのが懐かしい。「なんて試合だっ!!」「みてみろこの二人をっ!!」という感じで、ジロフが幾ら打たれてもとにかく前へ前へでるのを評価してました。トミー・ブルックストレーナー(ベントンとともにロス五輪チームを支えた。一時期タイソンにもついた)「バシリの防御は攻撃」まさに攻撃こそ最大の防御、ジロフのボクシングです、「頑強さ」と「根性・度胸」の塊。無表情でとにかくボディーブローを叩きこむ。
ージロフはアトランタ五輪決勝で韓国の選手をやぶり金メダル。おなじくS・ヘビー級金メダルのウラジミール・クリチコと並んでいわば「最後の旧ソ連世代」といえた。ただ出身はカザフ共和国(ゴロフキンは「ロシア系」です。おなじ境遇としては故ミロシニチェンコ、それをデビュー戦でKOしたマスカエフ。そしてアナトリー・アレサンドロフ(故ヘナロ戦は勝ちでもおかしくなかったのでは?フレイタスに初回轟沈させられた)はみんな「カザフ族」です)で特殊な「強化鍛錬」を実施されていた(大きな湖のど真ん中にヘリコプターで落とされる。生きるため泳いで岸まで。すさまじい)。
ーただト二ーだから嫌な予感はしていました。ジロフはよく打たれる。サウスポーだけどあまり特性を生かすスタイルではない。とにかく打ちつ打たれつで60~70%はボディ打ち。右フックで引っかけたら。すかさず強烈な左フックで肝臓をえぐる。パンチ力はすごい。
ーしかし「的中率」では断然ト二ーでロープに詰まっても三、四発当てるパンチは破壊力ありました。ジロフはタフ。一進一退ながらジロフの攻勢点と手数をとるか。トニーの有効打をとるか。とりわけ10回から最終回までがすごかった。ジロフはトニーのカウンターをもろに食らい再三ぐらつきながらもロープに詰めて連打をやめない。最終回も、はじめト二ーの豪腕が火を吹き3~4発と左右フック、アッパーと浴びせられた。その後、逆襲に転じ左ストレートを命中させる。すごい打ち合いになったところでまたト二ーのパンチがカウンターとなった。
ーすかさず3~4連打叩き込み、前にでてるのはジロフなのにとうとう強打が顎に炸裂。ジロフがしりもちをついた。効いていました。立ち上がったところでゴング。3-0でト二ーの勝ち。何回も見た。また見たくなりました。
ー追記としてはジロフは「カザフスタン・ドリーム」(アメリカの夢)として本国でもうらやましがられた英雄。ゴロフキンの先駆者的存在。アリゾナ州という辺鄙なところに移住しほとんど地元で戦った(現地に親しみ。非常に好かれた旧ソ連トップアマヒーローの大成功)。アメリカ人の奥さんと結婚。ビッグ・ファイトをそれほど求めないこれまた「地方主義路線」だったともいえる。
ーこつこつとクルーザー級を防衛(ほとんどノックアウト)。ヘビー級に上がった(ちょっと体格不足。だから余計にトニーは信じられない(苦笑))。モーラーに9回、豪快に倒されてしまう。モーラーはパンチありました。トニーに敗れたあとはタイトルとは縁がなくなる。ただ今も「アリゾナ州」で子どもたちに囲まれいいお父さんであることは間違いないでしょう(これがすべてなのでは?「ロペス」しかり「ルイス」しかりです。方やタイソンは8人も子どもがいて(バツ3)一人の娘さんが残念ながら5年前に首吊り自殺という不幸に見舞われた(タイソンが発見して懸命に人工呼吸。蘇生はできなかった)。オヤジの責任以外のなにものでもないでしょう)。ボクシングもおなじく人間としても「21歳」で成長がとまってしまった(度重なる不幸、故ダマトはともあれ。ジェイカブスが続いて死んでしまったのはほんとうに大きかった。悔しいです)。
ホリーフィールド戦:
ーThe Real Deal Holyfieldを振り返ってみましょう。まずロス五輪準決勝でダウンを奪った後。ブレーク時での加撃でノックアウト。不幸な失格負けで銅メダル。デビュー2戦目でエリック・ウィンブッシュ(故マシュー・サアドを番狂わせKOに葬った)を沈め。他のメダリストよりプロでは一番早く世界チャンピオンになった(岩石男カウィを15回判定で破る)。新設のJ・ヘビー級初防衛戦ではたくましくなった。自信満々でカウィを4回、文句ない痛烈なKOで返り討ち(カウィを完全に沈めたのははじめて。カウィは「パンチを受けたらむかしのように回復しなくなった」として引退宣言(これが「反故」にされるのはお決まり(笑)
ークルーザー級ももっと活躍してもおかしくなかったデレオン(レオン・スピンクスを6回ストップ)を問題にせず打ちまくり8回KO。続いてパーキー(ロス五輪代表のリーロイ・ヘーリーからKOでタイトル強奪)を3回、痛烈なノックアウトで破る(パーキーはこの後一度も勝てず負け越した)。
ーヘビー級転向。ティリス(9回ストップ)・ドークス(10回TKO)・無敗の24連続KO中スチワートも最終回にストップ。順調に勝っていたにせよ、パワー不足が指摘されていた(でもドークスもスチワートも最後は倒した)。
ー方やト二ーは元はS・ミドル級の選手。暴飲暴食を続けたいわゆる「デュラン」体型。クルーザー級でも減量苦に悩まされたとか(信じられない)。ホリーフィールドが入念なウエートトレーニング(靴の紐が結べないほど)と時間をかけてヘビー級に仕上げたのと対照的に。ボテボテまるまるした「水増し」ながら元気溌剌。選手によるんでしょうね(苦笑)。
ーホリーフィールドは何もできず「ライツ・アウト」。とまった標的になりひたすら打ちまくられた挙句の9回ストップ負け。しかしホリーフィールドはタイソンに勝ったので一時的に活力がよみがえったように「見えた?」(気力の充実もあったんでしょう。次戦でモーラーに雪辱(8回KO)したのが最後のベストファイト)だけですでにボウとの3戦で峠は越えていた選手。
ーそれにしてもホリーフィールドは賞賛に値するだろう。トニーはまだ「ヘビー級」とは必ずしもいえず。ホリーは晩年ほど一発パンチがついた。ボウとの3戦目、6回に左フックを決め先制のダウンを奪った破壊力は一戦目にはなかったもの。たいしたものだ。
ーしかしながらトニーは基本的に「受身」「カウンター」狙いで「的中率」に賭けたジロフ戦とちがってホリーフィールドをまさに翻弄していた。これまたすごい。痛烈なダウンを与えてのストップ勝ち(試合後、トニーはあまりいきまかず。ひたすら「辛い試合だった。偉大なホリーフィルドを打つのは苦痛だった」と大先輩に敬意を表していた記憶があたらしい)。
最後に、トニーにしろジョーンズにしろ。「タイソン」とやってほしかった。ルイスやボウは大きすぎてあまり魅力がある一戦には感じられなかった(私個人では)。ジョーンズはともあれ、ト二ーをタイソンはいかに料理しただろう?またタイソンの調子いかんでは「ライツ・アウト」も可能だったのでは?(あるいはまた「ゴング後」の「一発」そんな悲しい晩年のタイソンが浮かび上がってくるのもさびしですね(苦笑)。
アヤラ

The Atlantic City Express・40 Wins (36 KO)8 Losses ・ブルース・セルドン・「やや根性不足☆打たれ弱さ☆でもいい選手だった」ボウの近況豆知識追加☆

みなさん こんばんは、
はじめに:
ーこのウィキ英文にまじえた感じが受けがよさそうなので。しばらく続けてみますね☆
Bruce Samuel Seldon (born January 30, 1967) is a one-time world heavyweight champion, having won the World Boxing Association title in 1995. In forty-eight career fights, Seldon won forty with thirty-six knockouts.Seldon fought from 1988 until 1996, and again from 2004 until 2009.
セルドンの思い出:
ーセルドンはもっぱらモントリオール時代にみました。タイソンの「小型版」そのもの(でも身長はタイソンより10センチ以上も大きい)。
ー今、開いたら。元気にしている様子で何より。最近本当に増えている「2世・息子」がデビューしている横でやや老けたけど久しぶりに見た。
デビッド・ベイ戦:
ーとにかくタイソン以上に速くて伸びのある左をジャンジャン放つのにびっくり。ただ当時からなんか「ムラ」があり「おかしな?」選手だな。はじめの印象でした。15連勝中(14KO)。
ー振り返れば「ベイ」も結構頑丈でいい選手でしたね。無敗でウィザスプーンとの決定戦に敗れ。生き残りを賭けたペイジと対戦。凡戦ながら3-0で破った(ペイジは大むくれ。すべて関係が悪くなってたドン・キングの差し金のせいにしてました=真偽不明・というより「太り過ぎ」「練習不足」)。当時はまだペイジも「アリ二世」世界ランカーで元王者だった。アマ時代から好きだった(99勝10敗・キューバの故ステベンソンに完敗)。
ーゴングが鳴るとセルドンは全然打たない(苦笑)。ベイはむかしのいわゆる「ヘビー級体型」(ホームズやウィザスプーン、タッブスそしてペイジ=「腹が出た」「ゆるやか体型」)ながらなかなかテクニックもありクロスアームから打つパンチも強い(ビッグス戦も6回まで打ちまくっていた。ビッグスは瞼を切り出血が激しくストップ寸前。そこで起死回生の右打ちおろしを炸裂させ。一気にフィニッシュ。猛連打でストップ(タイソンVSスミスのセミ)。ビッグス全盛期最後の勝利)。
ーところがしばらくすると柔軟性に飛び。ゴムがはねるようなフットワークから左を連発し始める。「なんだこの選手は?」って驚いた(苦笑)。タイソンをもうひと回り大きくしたような「鋼鉄」みたいなヒットマッスル(しかし「やわらかい」それがパンチの伸びにつながる)。
ー以降、途中でノックアウトは諦めた様子でただただ左を突きまくり。飛び跳ねるようなフットワークから時々スピード、切れ申し分ない連打を矢継ぎ早に打ち込む。でも観衆からは「ブー」だった(笑)。10回ストップ勝ち。「へんな選手だな」けどおもしろい。興味深いセルドンとの出会い。
リバルタ戦:起き上がりこぼしの本領初見参:
ーまた偶然友人の家にいてみた。リバルタはキューバの選手。なかなかしぶとくてパンチのある選手。タイソンとの試合が印象的だった(この試合の「ダマト・タイソン」ぶりは大の贔屓=10回KO勝ち)。
ーゴングが鳴った。はじめの一発。リバルタが放った右フックがクロスカウンターになりセルドンはうつ伏せにダウン。ピクリとも動かない(後年おきまりの「起き上がりこぼし」(小泉氏)戦法)。解説者も啞然としてて。コーナーのリバルタも勝利を確信してた。ところがいきなり、ゴムが弾むように飛びはねてピョンピョンはねてる。「なんだこりゃ?」って今まで見たこともない。
ー再開後、また長くてまさに「エクスプレス」ビュンビュン突き刺すように伸びる左を連発する。リバルタも拍子ぬけした感じて戸惑うだけ。
ーこの試合は積極的だった。ガンガン前へ出て左右フックを猛烈に叩き込んでいた。3回、コーナーに詰まったリバルタが一瞬横向きに無防備になったところへ破壊力満点の右ストレートが炸裂。一気に連打で畳み込みノックアウトしてしまった。セルドンの快勝。ただあの「へんなダウン」が気になったものだ。また再開☆アヤラ
Amateur career[edit]
Seldon compiled an amateur record of 20–4 and won the New Jersey Golden Gloves Super Heavyweight Championship.
Professional career[edit]
Known as "The Atlantic City Express", Seldon began his career on October 4, 1988 with a first-round knockout of Joel McGraw and won his first 18 fights without a blemish. During his winning streak he defeated some notable boxers: Ezra Sellers (future world cruiserweight title challenger), Ossie Ocasio (former cruiserweight champion and heavyweight title challenger), David Bey (former world rated contender), and Jose Ribalta (former world title contender).On April 18, 1991 future WBC heavyweight champion Oliver McCall handed Bruce his first defeat. Seldon was ahead on the scorecards but tired and was knocked down by McCall three times in the ninth. In his next fight Seldon was matched with future undisputed world heavyweight champion Riddick Bowe who defeated him.Seldon returned in 1992 with a victory over Jesse Ferguson whom he stopped on an eye injury, but was knocked down and outpointed the same year by ex-champion Tony Tubbs. Seldon signed with promoter Don King in 1993 and boxed on a series of his undercards, most notably in August 1993 when he stopped ex-champion Greg Page in nine rounds.
マッコール戦:初黒星・9回KO負け:
ーこの試合はなんかはじめから元気がなかった(というより「びびって」いた)。そして後のマッコールをかんげれば「順当勝ち」だったのかもしれません。
ー相変わらず初回からジャブを出し足を使うのはおなじにせよ。あんまりいつのもように。ウエートが乗っていない「手打ち」のような感じだった。それだけマッコールの圧力は強かったかもしれないが、この選手はやはりやや「気弱」なところがあるのかもしれない(元アトランティック・シティ=「トランププラザ」全盛期に行きましたけど。「カジノ」「ホテル」周辺はほぼ95%黒人だけ。しかも「ギャングの巣窟」(セルドンもむろん「元ギャング」です)。夜、街中(カジノは一種の「租界地」みたいなもの。ダウンタウンにはほとんど人はいない)バスに乗ったらおれ一人だけ。周りはみんな男女、貧しい黒人たち。さびれた「イタリア料理店」で一人飯を食いました(笑)。
ーセルドンのパンチは全然威力がなく。当たってもあんまり効いていなかった(はじめから「勝利への意欲」が見えなかった)。一方、マッコールはタイソンのスパーリングパートナー時代。頑強でした。連打は出ないけど一発振るパンチは迫力があった。でもセルドンも「真面目に」打てば決して遜色ないはず。
ー淡々とだんだん追いつめられる展開。9回は、いよいよ勝つ気力がみえず。マッコールの右スイングを顎の先端に食らうや。またうつ伏せにあっさりダウン。今回はそのまま立ち上がらず。初黒星。この傾向は後の「タッカー戦」(いい試合でした☆勝ったけど、試合前は例の「ニコニコ」だった=「びびってる」ほかの試合ではタイソン戦以外「笑って」出てきたことはない)。また再開 アヤラ
WBA heavyweight title[edit]
In 1995, world heavyweight champion George Foreman was stripped of the WBA title for declining to defend it against Tony Tucker. As Seldon was the second-ranked contender, a fight between him and Tucker was arranged for the vacant belt on April 8, 1995 in Las Vegas. Seldon, the underdog, used his jab to great effect and swelled Tucker's eye shut, to the point where the fight was stopped by the ringside doctor after seven rounds.[1]On August 18, 1995, Seldon fought on the undercard of the Mike Tyson-Peter McNeeley fight that marked Tyson's return to boxing. In the first defense of his title, Seldon again used his jab to control Joe Hipp and stop him in the tenth round.[2]
ボウ戦:
ー無敗の連勝街道突っ走るボウ(ソウル五輪銀)。20勝(17KO)。この試合は「連勝同士」でみたかった。初回ゴング同時に「カミカゼラッシュ」を目論んだセルドンが果敢に前進。豪快な左右フックを振り回したところにボウの右ストレートから左フックが炸裂。あっさりとうつ伏せに倒れるセルドン(いつも「うつ伏せ」しかみたことない=タイソン戦もいっしょ)。
ーまた「カウント8」で「おきあがりこぼし」は猛然とジャンプにして飛び上がり。ゴムのようにやらかすのはお決まり。再び「カミカゼ」左ジャブから、右フック。左フックと返したところにボウの左がカウンターで命中。またうつ伏せに倒れ今度は立ちあがらなかった(あがれなかった?)。
ーもうセルドンもダメだな。がっかりしてさびしかったです。
PS:ボウはこの間具志堅氏と「マンシーニ」(こちらもすっかり髪が薄くなってた。でもむかしとおんなじでいいおっさん(引退後のアルフォンソ・サモラを思い出した)=おかしな組み合わせ(苦笑))といっしょに「殿堂入り」。久しぶりにみました。老けて太ったけど元気そうでなにより(すべてあの「パラグライダー男」に人生を狂わされた不幸なBig Daddy)。あれが降りてこなければスロースターター。やっとエンジンがかかってホリーフィールドを圧倒し始めていた矢先。
ーおまけに奥さんがショックで産気づいて大混乱(そのまま退場、病院で出産)。20分以上の中断で体が冷えてしまった。判定負け(初黒星)。確かに自信過剰と傲慢態度だったにせよ。その後離婚。刺青で掘ってある5人の子どもたちに会いに学校で待ち伏せ。「誘拐・拉致未遂」で逮捕。やっぱりあの「パラグライダー男」(英語でああいう「目立ちたがり屋・自己顕示欲狂」は=Daredevil(豆知識)といいます)。どこでどうしているやら・・・。罪は比類なく重い。
タッブス戦:
ータッブスはボウとジャブの付き合いで10回判定負けしたばかり。セルドンはまた初回から果敢に攻めた。しかしタッブスに距離をとられ。あんまり覚えてないけど。ともあれ判定負け。一気に三連敗。ボクシングの世界は厳しい。それだけ・
ポポフ戦:元アマ・ロシア人11勝(8KO)1分け:
ーこの試合はいい試合だった。何度も見返した。アメリカの「図体でかい」だけ白人と異なり。旧ソ連式のジャブとストレートを多用するユーリのヘビー級版みたいなスタイル。解説者たちも注目。感心して「いい左を打つ。しかもスピードがある」と高い評価。
ー方やこちらは「角番」。もう取りこぼしは許せない。ボウのキャンプに合流。エディ・ファッチの指導を受ける。この試合は「ニコニコ」してなかった(苦笑)。
ーガードも構え方も「クロスアーム」に変わった。ともあれ「左ジャブ・ストレート」は健在。初回はジャブの打ち合いだった。セルドンのジャブの方が三倍速ぐらいのスピードと伸びは倍以上ぐらいにみえる。ポポフははやくも目の下に痣ができ鼻柱から出血。痛々しい。
ー2回に入ると実力差歴然。ポポフの手は止まり。セルドンはどんどん攻勢を強める。右フックが炸裂。ポポフはロープ際でダウン。立ち上がったけどセルドンが振り回した閃光のような右フックが命中。前のめり手をついてはいつくばった。ここでストップ。セルドンの快勝。この調子を維持できればまだ大丈夫かな。結構期待しました。
Seldon vs Tyson[edit]
Main article: Bruce Seldon vs. Mike Tyson
Seldon's next defense was scheduled against Tyson, who in early 1996 won the WBC title for a second time by knocking out Frank Bruno. The bout was originally to be a title unification fight, with both Seldon's WBA belt and Tyson's WBC belt at stake. However, the WBC mandated that Tyson defend his belt against former champion Lennox Lewis first. Since the fight with Seldon was already signed, Tyson vacated his belt and only Seldon's was on the line when the two fought on September 7, 1996.The fight was marred by controversy as Seldon lost by knockout in the first round. His performance in the fight was vastly criticized, as he was knocked down twice on what appeared to be light or "phantom" punches from Tyson. Rumors started that Seldon had been paid to take a dive against Tyson, with the fans chanting "fix" following the decision. Although Seldon claimed in a post fight interview with Jim Gray that he did not take a dive, the criticism of his performance (including accusations that he took a dive) did not stop and Seldon elected to retire following the fight. The late rapper Tupac Shakur attended the fight on that night, and was shot on the journey home, leading to his death 5 days later

タッカー戦:タイソン戦まで30連勝(25KO)無敗1NC:
ー元クロンク生え抜きのアマエリート、タッカーはむかしから注目していた選手だ。クロンクから離れたせいもあるのか。なかなか挑戦の機会に恵まれず。タイソンの台頭以前に挑戦していてもまったく遜色ない。
ーダグラスとの決定戦は大好きな試合。みんな凡戦だの「TNT」爆薬は湿りがち。どうこう言われていたけど。私はあの「ジャブ」の付き合い、長距離からストレート合戦タイプの試合が贔屓なので何度もみた。
ー10回、タッカーの連打が爆発。一気にロープに詰めて連打。見事に戴冠した。以来、タイソン戦以降もたまにみていた(マッコール、リバルタに10回判定勝ち)。ルイスへの挑戦(セミがジャクソンVSマクラレン(1))も忘れられない。8回、右ストレートからの連打でルイスを窮地追い込む(当時のルイスは右一本やり、ぺぺ・コレア時代)。しかし巻き返され10回にはダウンを奪われる完敗だった)。
ーともあれ、セルドンとの試合は楽しみだった。セルドンはタッブス戦以降8連続KO勝ち。しかし評価は分かれていた。セルドンの「ニコニコ」入場とリング入りには参ったけど。この試合は初回からすさまじい強打戦でびっくりした。タッカー(ちょっと太めだったのに)もタイソン戦のように逃げず真っ向から打ち合った。ジャブ、ストレートの付き合い。両者のスピードと切れに驚かされた記憶も新しい。2回、セルドンの豪快な右フックが命中。タッカーは物怖じせず打ち返す。ただ全体としてセルドンが押しており、タッカーの右目上もセルドンのジャブのせいで腫れてきた。
ータッカーのパンチも結構炸裂していた。ただセルドンは、普通だったら倒れるような食い方なのにがまんしていた。これをみると「打たれ弱さ」より「気力」の問題なのでは?ともあれ8回、タッカーの目が完全に塞がりストップ。タッカーは猛抗議していたけど。私は嬉しかった。セルドンの初タイトル奪取。8回TKO勝ち。
Comeback[edit]
Seldon attempted a comeback at age 37 in 2004.[3] He defeated two journeymen before gaining a high-profile fight on HBO with Gerald Nobles. Abandoning his jab and boxing style for a punch out, Seldon decked Nobles in the second and was ahead on points but ended up throwing in the towel due to an eye injury in the ninth. In his next bout, an overweight Seldon was stopped in two rounds by Tye Fields.Seldon launched a second comeback in 2007, now into his 40s, and knocked out a series of journeymen before being knocked out himself by ranked contenders Kevin Johnson and Fres Oquendo. He was also KO'd in four during an exhibition with Alexander Povetkin.Seldon is currently training his super middleweight son Isiah Seldon. While not officially 'retired', Seldon is more involved with his son's career at this time. Bruce Seldon's career record stands at 40 Wins and 8 losses, with 36 knockouts.
ヒップ戦:
ー結論からいえばセルドンの圧勝。11回TKOで初防衛成功。しかし物足りなさが残ったのも事実でしょう。タイソンVSマク二ーリーのセミ、その前座ではゴンザレス・マーフィー戦(これもWOWOW放送で見たのと正反対。ゴンザレスの度重なるローブローは別として。解説はゴンザレスが優勢のようにいっていて判定後も「ゴンザレスが勝ったのは間違いない」などといっていた)。
ーヒップはアメリカ原住民である(むろん「混血」なんはアー二ー&ダニー・ロペスなどといっしょ)。原住民たちの土地を収奪し、不毛な居住地などと称されるところへ押し込まれた末裔である(これもロペス兄弟と同じ)。
ー彼の成功(世界ランカー)は喜ばれ英雄となっていた。確かに肥満でボテボテしているのは確かながら闘志があった。反対にセルドンはファイターとしても王者としてももうひとつ。役不足だったのだろう。サウスポーのヒップを左ジャブで翻弄したのは見事だった。ヒップは鼻血をだしセルドンの鋭く威力のあるジャブを食いつづけたため右目は塞がり痣も痛々しい。しかし繰り返し前へでてワンツーを放つ。
ーセルドンは中盤以降は「逃げ切り」態勢に入ったように思えた。集中力も失ったかなにみえおかしな「パフォーマンス」をやらかしてはブーイング。そういう心になればとかくセルドンのような選手は危ない。
ーそれを証明するかのよう。8回、ヒップの左ストレートが炸裂。セルドンはヨロヨロとロープに下がる。効いていた。ただヒップも攻撃に幅なくまた。ダメージとスタミナ切れで後続打につなげられず。
ー相変わらずセルドンの左は快調にヒップの出鼻を叩き続け。腫れがひどくなったところでストップとなった。試合後、セルドンは左肩力こぶを誇示し、胸を叩いて勝利をアピールしたが。観客からはブーイング。それがそのままタイソン戦の無様、不可解な失態負けへの予兆だったように思える。
タイソン戦:
ーまず「ニコニコ」で危惧した。ただタイソンはむかしの追い足はまだよみがえらず。また、ステップインも鋭さに欠け、また上体がおかしな「突っ立ち」気味になり。まだまだ「4年」のブランクは克服できず。
ーセルドンの左ジャブと速いフットワークを追いきれなければおもしろい試合になると楽しみにしていた。終わってみれば。タイソン(219ポンド・ホリーフィールド(1)222(2)217))はおろらくカムバック戦後一番調子がよかったのではないか。セルドンにとっては不幸だった。
ータイソンは全盛期(ダマト時代に一番近づいた)を彷彿させる踏み込みの鋭さ。セルドンはどうやら「勝とう」という気はなかったのではないか(故スチワートも「セルドンは臆病者」と試合後、嘲笑っていた)。「ニコニコ」にそれは反映されていたのがいざゴングが鳴るやタイソンの絶好調ぶりに余計に戦意が萎えたようにみえる。
ーあのパンチで倒れるのはおかしい(ダッキングでよけたときに後頭部をかすったようなもの。タッカー戦ではもっと強烈なパンチを何発も食らいながら踏みとどまっていたのに)。二度目のダウンは左フックが及び腰、セルドンの顎をきれいに打ち抜いた。また両方「うつぶせ」ダウン。
ー観客は激怒しブーイングの嵐。「八百長」の野次まで飛ぶ有様。おかげでTVKOはホリーフィールド戦に「初回で終わったらタダ」「6回までに終わったら50%」という特別の設定を儲けたほど(これが杞憂に終わったのは周知のとおりです)。セルドンはその後、酒気帯び・薬物(大麻)を吸いながら車を運転。一時停止を無視してとっ捕まる。しかも同席させた「未成年の少女」に大麻を吸わせていたのも判明し逮捕。がっかりだった。けど何戦かやっているところをみると、うまく逃れたのかな?こんなところでした☆アヤラ また次の選手考えておきますね。いつもありがとうございます☆「拳闘こそ我命」

Julian 'The Hawk'Jackson・「荒鷹」戦慄の豪打者・29連勝(27KO)無敗=55勝(49KO)6敗・St. Thomas・US・Virgin Islands+ネグロン及びベイビー・ジョーンズ(ラストファイト)戦追加

Julian Jackson (born September 12, 1960) is a former professional boxer from Saint Thomas, U.S. Virgin Islands who held the WBA light middleweight title, and the WBC middleweight title twice. Known as "The Hawk", Jackson is regarded by many as one of the hardest punchers in boxing history, pound for pound, and was ranked number 25 by The Ring magazine in a 2003 list of "100 Greatest Punchers".[1]
みなさん こんばんは、
ベンとマクラレンの記事がトップというのは本当にうれしい☆私の部屋は(副職は自己流ながら「画家」「グラフィックデザイナー」であります)各種専門他、「体の一部」=「拳闘」関連一色(なのは「おっさん」化してもいっしょ(笑)。毎日クォーティーからマクラレン、チャポなどを独自編集した「大版ポスター」に囲まれてるかび臭い地下室(苦笑)。
今回は題名、衝撃の初お目見えの一戦からはじめます↓
マッカラム戦:無敗対決26勝(23KO):
ーまず「文句じじい」から。「トランクス」は「対照色」であるべき。この一戦も「金・黄色」でみずらい。おまけに差別・偏見ではなく純粋に「ボクシング」の観点から。二人とも黒人ボクサーだからよけに不手際。せっかくの「スーパーファイト」が台無しになる。どうでしょう?
ーともあれ、ジャクソンははじめてみた。ゴングと同時に突進。そこへマッカラムの左フックがカウンターとなる。ほんとうに天晴れとしかいいようがない。マッカラムのナポレスを彷彿させる「柔軟性」(バターのように滑らか)。
ージャクソンはお構えなしにどんどん攻めまくる。豪快な左右フックをまとめ打ち。マッカラムはほとんど当てさせず。しきりに気負いこむジャクソンの出鼻に左フックのカウンターを浴びせ。ロープに詰めたら左右ボディーを叩き上にかえす。すばらしい。元アマ世界選手権制覇のジャマイカ人(後にアメリカに移住)マッカラムはすでにカルレ、マニオンなどを破りクロンクに一時期属していた。この当時は故ダン・デュバ傘下、ルー・デュバがコーナーにいた。
ージャクソンの迫力と豪腕に呆気にとられながら。二回、また左フックが炸裂。ジャクソンはガクガクと崩れ、しりもちをつくようにダウン。効いていた。立ち上がったらすぐロープに詰めてつるべ打ち。ジャクソンは防御勘はとぼしいにせよ。ガードは結構固い選手。空いているところ盲点、盲点を突くマッカラム。派手さはないけど、とりわけ「Body Snatcher」の異名そのもの。必ずあらゆる角度からのボディーブローを多用してから上にかえす。
ージャクソンまたダウン。立ち上がったところ滅多打ち。左右フックが顎を打ち抜き無防備。手が出なくなったところでストップ。マッカラムの快勝。2回KO防衛。ジャクソン初黒星。猛烈に抗議していたけど。あのまま続けても危険なだけだったろう。ただジャクソンが振り回すパンチの破壊力に痺れてしまった。
Pro career[edit]
Jackson turned professional in February 1981 and had many of his early fights in Puerto Rico, where he lived for a short period of time, and gained a shot at WBA light middleweight champion Mike McCallum in August 1986. Jackson hurt the champion on a couple occasions in the first round, but McCallum came storming back with a barrage that forced the referee to stop matters in the second round. After McCallum moved up to middleweight,
白仁鉄戦:
ー小泉師匠の「ボクシングにとりつかれた男」(氏直筆の「魂」(2)は「闘」というサインが私の実名といっしょに刻まれてます)によれば。この試合は一度流れた。白は「一升酒」らしい無類の酒好き。もともとJ・ミドルはきつくなっていた。キャンプ中に姿をくらまし。すごい体重で帰ってくることも珍しからずだったそう。「すみません。どうしても酒が飲みたくて」というところ。白はアメリカでのショーン・マニオン戦(マッカラムとの決定戦で負けた選手)で連勝ストップ(30連続KO・10回判定負け=往年のUHF「謎の」ボクシングチャンネルでみた)。ただテクニックに優れなにより「当てる巧さ」(的中率)に驚かされた記憶も新しい。
ージャクソンとの決定戦は、紆余曲折し結局当初の日程どおりラスベガスで行われる決定となる。延期の報以来、一気に体重が増えていた白は大急ぎで減量。なんとか軽量はパスしたものの。それで力尽きていたらしい。
ーアメリカでみました。むろん白を応援していた。ゴングが鳴る。ジャクソンが後ろに下がったり足を使ったりはこの一戦が最初で最後だったのでは?しかもサウスポーにスイッチしたりして慎重な立ち上がり。プレッシャーをかけてくる白を旋回しながら「捨てパンチ」で様子をみる(こんなジャクソンは今さらながらみたことない)。
ー試合後(3回KO勝ち・初戴冠)ジャクソンは「きつい試合だった」といっていた。それにしても残念。いつもの白、お得意の「当てる巧さ」や強弱をつけた強打の乱舞もみられず。いいところなかった。2回にジャクソンの豪腕が火をふいた。痛烈な左フックを浴びせ白は吹っ飛ぶようにダウン。立ち上がったところにいつものジャクソン「荒鷹」よろしい重々しいパンチが猛威をふるう。
ーまたロープ際で横倒しに倒される。ストップ。ジャクソン、見事な3回ノックアウトで初の王座に。複雑な気持ちながら。健闘を讃えあう両者。二人とも紳士。ジャクソンはインタビューでも笑顔で謙虚に語る選手。欲をいえば、後にハッチングス(9回、ものすごいKO劇)やオベル(11回こちらも白の当てる巧さ、強弱の連打が圧巻のノックアウト)戦ぐらいの調子でジャクソンとアメリカで再戦してほしかった。また再開しますね☆アヤラ
Jackson got his second shot at the now-vacant WBA title in November 1987 against Korean In-Chul Baek, winning in three rounds. Baek would go on to win the WBA super-middleweight title a year later. Jackson made three defenses of his crown, against former IBF title-holder Buster Drayton (TKO 3), Francisco DeJesus (KO 8), and future three-time champion Terry Norris (TKO 2). All these defenses were won with a single knockout punch.
Jackson then vacated his crown, moved up to 160 lb (73 kg), and was matched against Herol 'Bomber' Graham for the vacant WBC middleweight title. Due to Jackon's retina damage which had required surgery, the British Boxing Board of Control didn't allow him to box in the UK, so the bout was held at Torrequebrada Hotel & Casino, Benalmádena, Andalucía, Spain on 24 November 1990.Graham was putting on his typical savvy performance against Jackson: countering, slipping, and dancing out of the way. After being consistently beaten to the punch for three and a half rounds, Jackson unleashed one of the great right hands of boxing. Unconscious before he hit the canvas, Graham was revived only after five alarming minutes.Defenses against Dennis Milton (KO 1), Ismael Negron (KO 1), and Ron Collins (TKO 5) ended quickly, but Thomas Tate would make Jackson work longer and harder in their August 1992 encounter – Julian had to go to the scorecards for the first time in a title bout in winning a 12-round unanimous decision, scoring a knockdown along the way. At this point Jackson was in the middle of the pound-for-pound rankings.

ドレイトン戦:
ードレイトンはフレディ・ペンデルトン(元ライト級王者)とタイプは異なるにせよ、似たような背景の選手。負けが込んだ中堅選手からクリント・ジャクソン(モントリオール五輪銅・サウスポーの強打者・36勝33KO3敗?)を3回ノックアウトして突如開眼(この試合も往年の「UHF」’謎の’チャンネルでみた)。
ーとにかくパワーヒッター同士の強打戦。一歩も引かない破壊力の総決算。3回ジャクソンの左右フック(一発一発力をこめて叩きこむ「重々しい」パンチ)からの左フックが炸裂。ドレイトンは一瞬おいてちょうどベンがワトソンにKOされたとき。よろしくフワッと浮かぶように無重力になり後頭部から横転。立ち上がれなかった。ジャクソン改心の3回見事なノックアウト防衛。
ードレイトンはプエルトリコのサウスポー巧打者カルロス・サントスに15回判定勝ちでIBF王座についた。ヒルトンに15回判定負けで王座喪失。たしかにもう下り坂だったにせよ。豪打は健在。しかもスイッチヒッター(故デュアン・トーマス(傷のTKOとはいえ強豪を破った)、故デビー・ムーア(11回、すさまじいノックアウト防衛・いい試合でした)。
ージャクソンとは本当に一発一発交互に放ち当てあう。まさしく「パンチ力」の対決の様相。2回ぐらいからだんだんジャクソンの方が優勢になる(一発パンチはジャクソンの方がはるかに勝っていた)。ジャクソンのパンチは切れ、スピードというよりとにかく力強さは圧巻。あらためて当時のミドル級、層の厚さを痛感した試合でした。
This would lead to his showdown in May 1993 with another big hitter, Gerald McClellan. This time the challenger prevailed, flooring Jackson twice in the fifth round. The second knockdown prompted the referee to stop the fight, after Jackson made it to his feet yet remained unsteady. Jackson had another shot at the title in May 1994 in a rematch with McClellan. Jackson was hurt and put under heavy pressure by McClellan very early into the first round, and was dropped by a left hook to the body after 65 seconds. The referee counted Jackson out as he rose to his feet. After McClellan vacated the title to move up to super-middleweight, Jackson would have a second but brief reign as WBC middleweight champion, beating the previously undefeated European champion Agostino Cardamone in March 1995. Jackon had a shaky end to the first round, during which he was hurt and put under pressure until the bell by Cardamone, who wasn't considered a hard puncher. In round two however, Jackson again showed his punching power by suddenly dropping Cardamone heavily with a short right hand. Cardamone managed to make it to his feet but remained badly shaken, forcing the referee to stop the fight. Jackson lost the title in his first defense against Quincy Taylor in August of that year by a sixth-round stoppage in a fight where Jackson looked a shadow of his former self. Jackson would have four more low-key victories, before ending his career with losses to Verno Phillips and Anthony Jones, both in nine rounds, in 1998
グラハム戦:ミドル級王者決定戦・二階級制覇:
ーちょうど私がアメリカについたばかりの頃。往年の「リング誌」予想されるタイトル戦の論評コーナーがあった。とりわけミドル級は「戦国時代」の様相を示していた。レナードが統一タイトルを手にしたのに呆気なく返上。
ーそこでは「オラジデVSロルダン」(2-1でオラジデ=もし本当にやっていたらロルダンがノックアウトしていただろう)そして「グラハムVSバークレー」(3-1でグラハム=これはどうだったか。バークレーが変幻自在に空振りさせられたと思えないこともない)。グラハム(29連勝(15KO)無敗・ハメドの先駆者)はカランベイにまさかの10回判定負けで退いた。終わってみれば「一番」期待されてた選手はことごとく脱落。ボクシングの「仮想対決」はむずかしい。
ージャマイカ系イギリス人のサウスポーグラハムは一発の破壊力はない。しかしよくおもしろい姿勢でおもしろい角度からいろんなパンチを繰り出してくる(ハメドより、ふつうのボクシングだったけど)。
ー4回までジャクソンはいいように打ちまくられていた。手数もだしようがない。そこへ起死回生の豪腕右フック一発。カウンターとなってグラハムは仰向けに横転。そのまま10カウント。見事な二階級制覇。新たなジャクソン時代の到来。
ミルトン戦:
ー私はカナダ人です。それはおいてもアメリカ当時から「リングのマイケル・ジャクソン」と呼ばれたオラジデ(連勝中23勝(17KO)無敗)が大好きだった。ハンサムな貴公子(ナイジェリア二世・バンクーバー育ち・今「邦人女性行方不明」で有名になったところ)でニューヨークを拠点に一時はタイソンといっしょ。ヒルトン兄弟やハムショ(スパーはすごかった)とともにカス・ダマトのキャットスキルジムで練習していた。
ーテート(2-1でオラジデ有利の賭け率・蓋をあけてみればテートのワンサイド。2度ダウンを奪われ大差の15回判定負け)そしてバークレー(ダウン応酬の生き残り戦。5回TKOで敗れた)戦以降、もう峠は越えていた。ミルトンとのノンタイトル戦。10回までリードされていながら終了直前にオラジデ得意の左フックがカウンターとなってゴング後にノックアウト(勝ちは認められず・10回判定負け)。
ーミルトンは若きマクラレンにも10回判定勝ち。しかしジャクソンにかかれば初回でぶっ倒されてしまう。ゴング後、しばらくしてからジャクソンの叩きつけるような右フックがテンプルに炸裂。一気にふらついたところにまた右フックが顎をぶちぬき。仰向けに横転したミルトン。10カウント。ジャクソンの快勝。初回ノックアウト防衛。全盛期でした。ジャクソンの出身地バージン諸島は独特の「宗教」を持つ(ブランブルは同僚)。往年の「ルービック・キューブ」色みたな帽子をかぶり蛇を首に巻いていたりと興味信心である。
ーあの、ノックアウト勝利のあと。膝をつき腕を天にあげ神に祝福と感謝の祈りをささげる(タイソンも一時期やっていたがあれは「黒人回教団」(イスラム教の分派)。根底にあるものは異なる。
ネグロン戦:WOWOW城戸真亜子女史ゲスト:
ーこの試合は両方でみた。特に芸術家の城戸女史がすばらしいデザインの作品をスタジオにプレゼントしてゲスト。だからジャクソン、本領発揮して欲しいな。願っていたらそれに答えてくれた(笑)。
ー一番わかりやすいのが「ノックアウト」それも「初回」で倒すほど一般の人に印象と衝撃を与えるのもないだろう。
ー初回ゴング、いつもとおりガンガン重たいパンチを振り回す。左フック、顎に一閃。グシャッと潰れるようにダウン。そのまま10カウント。城戸女史が呆気にとられていたのが微笑ましかったものだ。
ー浜田氏がいう「全部倒そうとするパンチ」まさしく。↑の白戦はその面でも貴重な一戦だったとあらためて思う(しかも東洋の選手)。
Life after boxing[edit]
Julian Jackson joined the ministry, living in St. Thomas, Virgin Islands. He continued his involvement in the local boxing field as a trainer and coach. He has two sons who are also top-ranked boxers. Julius Jackson, a former Olympian, is currently professionally fighting at super middleweight with a record of 19–1 (14 KOs) as of 8 March 2016. Julius previously held the WBC–USNBC Title and the WBA Fedebol title. John Jackson, also a former Olympian, fights professionally at light middleweight with a record of 20–2–0 (15 KOs) as of 8 March 2016, and was ranked 2nd by the WBC at light middleweight (8 March 2016).
トーマス・テート戦:倒せず・連続KO15でストップ:
ーテートの兄はフランクだ。それにしても本当に「兄弟ボクサー」の多さに今さらながら驚いてしまう(これは世界中どこでもおなじ)。
ー兄ほどの才能もなければ、パワーとスピードもない。ただジャクソンにとっては一番苦手とするタイプ。ストレートパンチャーで足も速い。あと、やはりジャクソンはミドル級では小さいのかもしれない。パンチは当たっているけど追いきれなかった。あと、この試合辺りからやや衰えが出たのかな?この試合の後、負傷のため一年のブランク。そしてマクラレンとの二戦を迎える。
ー全然スタイルはちがうにせよ。ちょうど連続KO防衛を9でストップされたクエバスを思いだした(ランディー・シールズを終始ロープに詰めながらも回り込まれ。応戦されKOを逃した)。
カダモーン戦:最後のタイトル奪回:無敗のイタリア人をノックアウト:
ーこの試合がジャクソンのキャリア、最後の輝きとなった。マクラレンに完敗。再戦でも初回KOで負けたジャクソン。試合後のインタビューでは「ミドル級では小さすぎる。3回食事をきちんととり、量を増やしてもまだ足りない。だからJ・ミドル級に戻ることにする」こう公言していた。
ー試合は、ジャクソンはもう峠を越えていた。初回からサウスポーの挑戦者に射程外からストレートを放たれ追いきれない。翻弄されていた2回、ジャクソンが一瞬の隙をついて軽く振った右フックがもろに顎に当たり。ダウン。そのまま立てず。呆気ない終わり方でふたたびチャンピオンへ。ただ次のテーラー戦はいわゆる浜田氏がいうところの「ドスン」パンチに過ぎず。ドスンドスン当たっても全然効かない。
ーそれが最後の三連敗。バーノ・フィリップス戦と、元J・ウェルター級のベイビー・ジョーンズ戦(ラストファイト)まで繋がるさびしい最後だった。
クインシー・テーラー戦:
ー忘れもしないタイソンの復帰戦のセミ(マクニーリー戦)。試合前の記者会見で元ライバルマクラレンのことを盛んに訴えていたのが嬉しかった「彼のことを忘れないでください」。これこそ「拳友」の手本といえるだろう。
ーただ、もうジャクソンのパンチは威力がなかった。サウスポーのテーラーは実力派。うまいしパワーもある。いいところなく打たれ。もともとよくない防御に加え。「ドスン」パンチそのもの。派手な音はでるけどむかしの破壊力はなく。当たってもあんまり効果がなかった。
ーテーラーは案外長期王者になるかな。思いつつ初防衛戦で自分より手足が長くて背が高いホームズにいいところなく完敗。KOで王座陥落はこれまた。ボクシングの厳しさなんでしょう。テーラー6回TKOで戴冠。
フィリップス戦:
ーロッシ(この選手は「打たれて」クリンチというより「打つために」クリンチ)に負けて王座転落後。長らくブランク。再起を目差した元J・ミドル級王者ルペ・アキノのロードバックに起用された若きフィリップス。アキノの強打は健在だった。前の試合では衰えたりとはいえ故デビー・ムーアを9回ノックアウトで破っている。
ー中盤まで一発の破壊力で勝るアキノの力強さばかり目立っていた。ただフィリップスは見かけより頑丈。それにしぶとく打ち返し形勢逆転。ノックアウトでアキノを破る金星。
ージャクソンはもう引退間近の元王者。面影はなかった。テーラー戦と感じはいっしょ。激しい打ち合いでパンチも当たっているのに威力がない。一方、フィリップスの強打はがら空き防御のジャクソンにしこたま命中。むかしのジャクソンだったらあれだけ打ち込めば倒せたはず。
ーむかしカリーのときも書いたけど。晩年の元スターたちは(レナードもにたようなもの)「パンチ」が効かなくなる。そんなところでしょうか。
ベイビー・ジョーンズ(ラスト・ファイト):
ージョーンズというのもしぶとく息が長かった選手。スイッチ・ヒッター、J・ウェルター級のクロンク時代は遠い昔。決定戦はロサリオ相手に優勢で試合を進めながら、6回一発の右クロスカウンターで引っくり返された試一戦も懐かしい。その後、ウィティカーに判定で敗れた(クロンクを離れる)。
ーJ・ミドル級ではカンパスにいいところなく2回で倒された。ジャクソン戦はみたような覚えもあるけど。あまり覚えていないのが本当のところ。ただ、ジャクソンに昔日の面影なし。ちょうどレナード対カマチョを彷彿させた余計な一戦だっただろう。
ーファイターは常にくすぶりよくこうした一戦を加える傾向いかんともしがたく。まさかむかしのKOパンチャーだとは信じられないくらいパンチが効かない。ジョーンズはがら空きの防御を突いて変幻自在にスイッチして打ちまくっていた記憶がある。
ーフィリップス戦につづいて6回。倒されそのままストップされてしまう。お疲れ様でした。ひとこといいたかった。

Virgil Hill 50 Wins (23 KOs)7 Losses (2 KOs)ロス五輪銀「自ら望んだ地方英雄路線・クイック・シルバー」の軌跡+ちょこまかとまた追加

PS:せっかちなおっさんです☆Bazookaからチャム戦にのぞむティトに変換しました。いつもより表情、気合入りまくっていた。さかんにカメラにむかってしゃべりながら。BGMスペイン語の歌がほんとうに似合っていて、さらに気合入りました(もう何度戻してみたかわかりません☆)。なつかしいかぎり。やはり90年代までで「純マニア」ていどに落ちぶれてしまった(苦笑)。
Virgil Eugene Hill (born January 18, 1964) is a retired American professional boxer. He is a five-time former world champion, having held the IBF, World Boxing Association (WBA) and lineal light heavyweight titles, as well as the WBA cruiserweight title. As an amateur he won a silver medal in the middleweight division at the 1984 Olympics. In 2013, he was inducted into the International Boxing Hall of Fame.
はじめに:
みなさん、こんにちは。ヒルは若い世代も名前は聞いたことはあると思います。ただ「概要」はあまりなじみがないはず。そして私自身、ノリスなどと並んで決して「ファイター」(ボクシングのスタイル)そのものは好みではなかった。地味、堅実ながらそれは自らの性格を反映していのこと。
バージル・ヒル(クイック・シルバー):
ーロス五輪決勝で、韓国の申に判定負け(3-2でしたけど。ヒルの勝ちにみえないこともない)。申はプロ入りせず引退(*注以降、ヒルと聞けば「ああ、あの決勝で負けたやつか」とアメリカ人の間で広まってしまう。
ーほかの名だたるメダリストたちとは一線を隔す独自の路線をプロ入り後から引退まで貫いた選手といえる。
ー烈風と寒冷吹き荒れるアメリカ中西部、北のノースダコダ州出身。自ら「スーパースターになるなど望んでいない」「地元で活躍できるだけで十分」「ビッグファイトもそれほど欲しない」こういう素朴で謙虚な青年でした。
レスリー・スチワート戦:24勝(18KO)1敗・「ボブ・フォスター」の再来と期待:
ーアメリカについたばかりだった18歳当時の忘れられない試合(何度見返したから不明(笑)。ともあれ「過ぎし青春時代?」若かったですね(苦笑)。
ーいやな予感がした。大贔屓だったスチワート。故エディ・ファッチに鍛えられた「クイック・シルバー」不気味だったもの(18連勝(14KO))。不安は的中。ヒルのベストファイト。4回、見事なノックアウトで戴冠。その後のヒル(二階級制覇・通算15~16度防衛?ハーンズ戦まで無敗の29連勝(15KO))の軌跡をみれば順当勝ちだったんでしょう。
ー初回からスチワートはいつもどおり。クロスアームを緩めたようなガードからスムーズなジャブを放ちながら足の動きをとめずに圧力をかける。ヒルはまさに「異名」そのもの。旋回しながら左をずっと突き続ける。スチワートも応戦。左の突きあいとなった(こうなるとヒルのペース)。
ースチワートはだんだん焦燥感によるいらだちがみえはじめる(まさにエディ・ファッチの作戦と最適の展開)3回、スチワートは前へでてきた。ヒルをロープに詰めようとして一生懸命パンチを放つ。ロープ際で左右の打ちおろしから連打につなげようとするがヒルはすぐ回り込み、また旋回しながら速くて強いそして長い左を突きまくる。
ー4回、再三ヒルのカウンターが命中。右をテンプルに叩きこんだ。スチワートも応戦するがパンチはちっとも当たらない。終了間際。気負いこんで突進したところへ左フックのカウンターが顎を打ちぬいた。スチワートダウン。効いていた。立ち上がって迎撃(スチワートにはいい展開)。ながらゴング直前にまたヒルの大きな左フック二連打が炸裂。ダウン。そのまま10カウント。ヒル、大殊勲により王座強奪。見事だった。
(*注)韓国は「メダリスト」たちを厚遇。国家的「英雄」として毎月「年金」が支給される。また「国家公務員・教員」として「引退後」も職業は準備されている。これは今も変わらず。たとえば「金光善」(自ら「張正九も柳明佑も自分より下の選手」といっていた。さらなる名誉と栄光のため(むろん高額のファイトマネー)プロ入りを決意(3年のブランクは克服できず=アマ時代の狼のような俊敏さスピードが失われていた)。
(*注)マービン・ジョンソン(ミュンヘン五輪銅メダル・強打の荒法師サウスポー)戦(決定戦・初戦8回TKO負け(初黒星)・再戦地元トリニダードトバコの野外大スタジアムで王者を圧倒。初回に2度ダウンを奪い8回KOで雪辱戴冠)で痺れてしまった。以来楽しみにしていたんですけど・・・「ボクシング」の厳しさと魅力はつきません(笑)。
At the 1984 Summer Olympics Hill represented the United States as a Middleweight then age 20, and won a silver medal in a close decision loss in the 165-lb final . His results were:
Defeated Barbados Edward Neblett RSC 2
Defeated United Kingdom Brian Schumacher 5-0
Defeated Socialist Federal Republic of Yugoslavia Damir Škaro 4-1
Defeated Algeria Mohamed Zaoui 5-0
Lost to South Korea Shin Joon-Sup 2-3

Hill was the 1984 National Golden Gloves champion at Middleweight.
Professional career[edit]
Light-heavyweight[edit]
In September 1987, after going eighteen straight fights without a loss to start his pro career, Hill aka 'Quicksilver' (his nickname) was a challenger to Leslie Stewart of Trinidad for the latter's World Boxing Association light-heavyweight tile in Atlantic City. After an even match in the early going, Hill floored the defending title holder twice in the fourth round – first with a left hook and the second time with an uppercut – to take the title on a Knockout win.[citation needed]A series of ten successful defenses followed, eight of which took place in Bismarck, North Dakota. Hill received offers to fight in Las Vegas and other cities, but chose the place of his 'roots' and 'hometown fans' to be the place of the majority of his defenses. Opponents in his first run as champion included Bobby Czyz and James Kinchen. Superstar Thomas Hearns would meet – and defeat – Hill in Las Vegas by decision in June 1991 to end Hill's first reign as champion.[citation needed]In September 1992, it was Hill pitted against 1984 Olympic teammate Frank Tate for the vacant WBA 175-lb. title. It was a 'grudge match' between the two, and Hill won the title on his home turf of Bismarck. Another string of ten defenses would follow, including a rematch with Tate, a close decision over Lou Del Valle who almost upset Hill.[citation needed]
ジャン・マリー・エメベ戦:アフリカの野生児・強打者・初防衛戦:
ーこの試合も感無量。アメリカの片田舎でみました。エメベは豪腕、破壊力満点。ただもうひと押しのスピードと切れに欠ける。パワーがある重たいパンチを振り回しながらの突進力はあるけどヒルに楽々とさばかれてしまった。地元での初防衛戦。絶対に足をとめないヒル。ひたすら左を突きときおり打ち込む右ストレートも有効だった。11回TKO勝利。忘れられない一戦だった。エメベのパンチはおそらく一発も命中していなかったのでは。ともあれヒル、回顧すれば派手さはないにせよいい選手でした。
ーただ、「一般受け」という意味では物足りなかったかもしれません。ちょうど、私の恩人である亡き先輩は近辺にむかし住んでいた方だった(ヒル自身、その後防衛戦を行ったこともあるモンタナ州ビリングス)。
ーブーブー文句ばかり(日系人ながらすでに「祖国」は遠いアメリカ人です)。「なんだこいつは。全然倒せねえじゃねえか」そればっかり(苦笑)。けれどヒルはやはり実力派の名王者でした。これからそれをジャカスカ展開していきますのでよろしく☆
Unification matches[edit]
In November 1996 at the Olympiahalle, Munich, Hill won over the undefeated IBF champion Henry Maske to unify the WBA/IBF belts and win the vacant Lineal championship.[citation needed] in June 1997 WBO champion Dariusz Michalczewski scored a unanimous decision over Hill to unify the Lineal/WBA/WBO/IBF titles at Arena Oberhausen, Oberhausen, Germany.[citation needed]Hill boxed against Roy Jones Jr. the following year, and was stopped in round four with a body shot.[citation needed]
キンチェン戦:元ミドル級1位・常連ランカー(34連勝(29KO)無敗2分け):
ーキンチェンは「運」がなかった。それより他ならぬ「ハグラー」時代の話である。L・ヘビー級では「体負け」しかも「峠を越えて」からのことだ。初回、はじまってしばらくしてヒルが命中させた左ジャブから返しの左フック。ガダガタになったところへ右ストレート。これで決まってしまう。立ち上がれず初回KO負け。ヒル改心の防衛。
ーL・ヘビー級あるいはクルーザー級ともならん名王者には「水増し」ウエートでは問題にならなかった証拠となりましょう。
ーキンチェンがアレックス・ラモス(11回ノックアウト勝ち)を破り「挑戦者決定戦」となった故シュラー戦の無敗対決(シュラー21連勝(16KO)・この試合はほとんど90%サウスポー)。それなりに充実していた上位ランカーたちのしのぎを削る。対決そして攻防も懐かしい(シュラー(モスクワ五輪代表)はその前の二戦相次いで元五輪代表のホープを破っていた・シールズ(ミュンヘン五輪・サウスポー対決でスイッチヒッターシュラーは80%は右で戦った)・ジャクソン(モントリオール五輪銅・同じくサウスポー・この試合も右が70%)。まさに「生き残り戦」の様相だったミドル級。そのシュラーも出会いかしらハーンズに初回仕留められてしまった。次にあげるハーンズはL・ヘビーでも遜色ない189センチの身長・すでに「ヘラクレス」のように体を作っての挑戦だった(ただ「全盛期」だったアンドリュース戦より「年齢」(31歳=当時は若くない・しかもトップ強豪との連戦後)によるボタつきはいがめない)。
ともあれヒルは「クイック・シルバー」そのもの。ムリして「ノックアウト」を狙わない「ローカル主義」(地元の方々にほんとうに好かれていた)。
タイロン・フレージャー戦:故ジョーの親籍:
ー大分記憶が混乱していた様子(苦笑)。アメリカの懐かしいオンボロアパート。週最低でも2回の放送あり。フレージャーの試合もよくみた。初回KO負けしたように錯覚していました(ウィキで確認)。12回判定負け。
ーヒルより一回り小さくてあまりパワーもない。外見はハーリー・スニードに似ているけど。どうもギクシャクした構えで不器用な選手だった。その頃はたくましい上半身で豪腕だった「Fighting Post Man」トニー・ソーントン(ジョーンズに3回で吹き飛ばされた試合はびっくり・すっかり筋肉もなくなったひ弱いおっさん化)にも打ちまくられながらタフなんでしょうね。倒れなかった。
ー小さいやせっぽっちにみえ。ヒルが圧倒していた。左をジャンジャン突いてよく倒れないなあ~と思うほど食っていました。しかしアメリカ時代はなつかしい。当時とりわけ脳裏に刻まれているのはエンヘルス・ペドロサ(28連続KO無敗)。おもわぬ1敗(KO負け)ながら。コロンビアのジャングルからそのままあらわれたような。精悍な「野獣」みたいな輝き。だったから惜しい(ホーゲンみたいな感じの世界ランカーに判定負けした以降はどんどん低落)。ラバグレア(ハーンズに初回KO負け)やたらよくやっていた(苦笑)KO率の割にはいつも判定勝負。
マイク・ピーク戦:
ーモントリオール。ルームメイト(ハンガリー系カナダ人・留学中のニューヨーク黒人アメリカ人)といっしょにみた。ピークはいい選手だったけど、なにかの切っ掛けで調べたら。ヒル戦以降、ほぼ全敗。負け越していたのにびっくり(悲しかったです)。
ー長身の黒人選手。ストレートパンチャーで1~3回くらいまではストレートの突きあいでややピークが押しているくらいだった。だんだん「資質」の根本的相違が現れだす。ヒルの左ジャブがよく当たり。ピークはほとんど手が出なくなってしまう。
ーともあれたいしたもんです。ほぼ「左一本」で大差の判定勝ち。たしかに一般受けはしないスタイルだと思う。ただ「マニア」にはもってこいのいいスタイルだった。特に「ストレート」「長距離」でのまっすぐのパンチが基幹になるのを好む(私もそう)人にはもってこい。それがヒルのボクシングでした。
Cruiserweight[edit]
The aging Hill won the WBA cruiserweight title at age 36 by knocking down Fabrice Tiozzo three times in Villeurbanne, France by TKO in the first.[citation needed] He made his first defense, also in France, against Jean-Marc Mormeck, but would lose both match and title on cuts after nine rounds. In July 2003 he decisioned Donny Lalonde in a North Dakota-Manitoba 'border fight'. He lost a disputed decision to Mormeck in a title rematch in South Africa in May 2004.[citation needed]On January 27, 2006 Virgil Hill won over previously undefeated Russian cruiserweight Valery Brudov by unanimous decision to win the 'regular' WBA cruiserweight title, as the WBA had now created a WBA "Super" title beside the standard WBA title. Despite being cut on the face in the sixth round, Hill was able to out hustle and out work his much younger opponent to capture his fifth world title at the age of 42.[citation needed]He had his next to last fight in Germany on March 31, 2007, facing Henry Maske, whom he had beaten in 1996. Maske had announced his retirement prior to that fight and was frustrated to end his career with a split-decision loss, the only loss in his professional career. When he heard about Hill capturing the world title again at the age of 42, he decided to challenge him for a rematch. Hill lost the Maske rematch by decision in a non-title bout, then lost to Firat Arslan by decision to lose his WBA cruiserweight title.[citation needed]
ハーンズ戦:初黒星:「勝ったと思った。でも相手が伝説ではしょうがない」(ヒルの試合後の言葉):
ーハーンズは屈辱が続いていた。引退状態長年のレナードが突如割って入った立派な「かっぱらい」行為に過ぎない。失意のうちバークレーにKO負け。つづくキンチェン戦はまたダウンを奪われ2-1判定(キンチェンはおおむくれ)。腫れあがったヒットマンの顔がすでに「峠を越えた」英雄を物語っていたように思う。
ースチワートとはじめて袂を分かった。再びL・ヘビー級(アンドリュースを都合6度倒して11回ノックアウトで制覇したのもむかしこと)しかも無敗の安定王者ヒルに挑む。
ークロンクを離れたときのハーンズはどちらかというと「ヒットマン」スタイルではなくガードを上げ左を突く(あの「趣味の悪い」水色に黄色まじりのガウンとトランクスは似合わない(苦笑)。いわば「慎重派」になる(バークレーとの再戦ではロープに詰まり「カウンター戦法」に徹していた)。
ー結論からいえば「左ジャブの勝負」となればそれ一本しかないヒルは決め手にかけた。ハーンズは左だけではなく、時に右ストレート。そしてデトロイトスタイルの真髄「ボディーブロー」あり。私はこの試合もよく見返す一戦(「玄人好み」長距離でのストレート合戦。クロンクスタイルは大好きである)。
ーヒルは全力を出したと今さらながら感じる。ただもっぱら焦点はハーンズが「安全運転」に徹したところにあったようだ(アメリカの解説でもそれらをぶったたいていた)。ヒル、12度目の防衛ならず。初黒星。ハーンズ再び四階級制覇(6つ目のタイトル)。それにしても「携帯フリッカージャブ奪取」どうこうで「島国日本」の勝手な’ムラ社会’「マンガ」「アニメ」・・・妹の「お化け屋敷遊園地」騒動にハーンズが悪用されている(しかも「パンチドランカー」の傾向いかんともしがたくの老英雄・・・申し訳ない限りである)。ちょっと気分が萎えたのでまた後で。「森川云々」さんよお~。おっさん!なんとかいうてみいやコラッ!!としかいいようないっス(-_-;
ティオーゾ(1):
ーいろいろ記憶をたどりウィキで確認。これはみていないけど12回判定勝ち。
ミハイルゾウスキー戦:
一言、ドイツでWBO王座ながら19度防衛した選手でくりかえし「ジョーンズ」とやりたいといっていた。だから受けてほしかった(「ヘビー級」より同階級に「ライバル」がいるじゃないか。文句ばっかりみながらいってた)。ジョーンズの「地方路線」はヒルみたいに’徹底’していないなんとも中途半端(だから余計にいらだった)。バスケットをやってみたり、自分の「メインイベント」の試合前にゲイナー(ノーウッド戦)にへっついてリングサイドにチョロついてみたりと(案の定試合は「大凡戦」の判定勝ち)
ーヒルはもう峠は越えていた。ただハーンズ戦以降13連勝中。「試合」としてはまた「玄人受け」。いわゆる「クリンチの少ない」欧州受けする「元アマ」同士のきれいな展開だった。ミハイルゾウスキーはポーランド出身。33連勝(26KO)無敗。ドイツを主戦場にしていた元アマスター(シュトルムとおなじ背景。ただボクシングは違う)。
ー案外単調で山場がない展開だったかもしれない。しかし私はヒルが勝ったようにみえた(3-0判定負け)。ヒルにしてはどういう経路をたどったか存知あげないけど「ドイツ」に遠征しての試合。まったく偶然、テレビをつけたらちょうと試合前だったのでびっくりしてそのまま観戦に励んだのを思い出した。
ジョーンズ戦:
ーこちらももう少し早く実現してほしかったのが本音。ジョーンズはグリフィンに反則負け(実際は二度のダウンを奪っての9回KO勝ちだったはず。グリフィンは明らかに「わざと」立たなかっただけ。試合後のインタビューでのその辺をつかれ。しどろもどろ(苦笑)。エディ・ファッチ引退後の再戦では初回見事なKOで雪辱)。
-試合前、HBO放送おなじみの「経歴」「背景」紹介。その「試合」にいたるまでのことがほんとうによくわかる。ヒルがいかに地元にこだわるのか。また愛されているか(出身の高校を訪問し。子どもたちとも「やさしいおじさん」として接している。ノースダコダは烈風吹き荒れる寒冷の冬。厳しい気候の州。まさに「地元の英雄」ぶり。いまさらながら感動する(ちなみにYoutubeではまず「試合」しか出てきません(苦笑)すべて「記憶」に立脚(再び苦笑)。そのヒルが「ラスベガス」に現れた。坊主頭でいい表情をしていた。新旧五輪対決。ふたりとも「銀」(ジョーンズのは歴史上に汚点を残したひどい判定(バツが悪くなってしまった韓国の選手がかわいそうだった)=インチキ韓国人ジャッジは永久追放された)。
ーむかしから考えていたけど。日本の放送ももう少しHBOやSHOWTIMEに見習えないものか?ないものねだりなんでしょう。アメリカにも2年住んでいた。カナダももう27年になる帰化元日本人ながら。「スポーツ」というより「排他民族主義」のにおいばっかり(WOWOWは別)。「日本選手」が「勝つか?負けるか?」そればっかり。
ー「試合」はあらためてジョーンズの強さと潜在力に驚かされた。ヒルがまったくスピードについていけないで翻弄されっぱなし。四回、ジョーンズの目にもとまらぬ。ながら痛烈な右フックがヒルの横っ腹を打ちぬく。すごいパンチだった。一発KOでジョーンズ。ヒルは苦悶の表情でリング上で丸くなったまま立てず。
ティオーゾ(2)戦:敵地フランスで初回KO・タイトル奪回:
ーティオーゾは強敵。元ミドル級王者の兄(クリストファー・白仁鉄をストレート攻撃で寄せ付けず6回KO戴冠)より頑丈なファイタータイプ。私はこの弟のフランス人らしからぬ威風が好きだった。ニコリともせず動じない固い表情。
ー試合はまた往年のヒルを思わせる初回、あっというまノックアウト勝利。びっくりしてしまった。ヒルも晩年は結構遠征するようになったものだ。
He retired with a record of 50 wins (23 KOs) and 7 losses.[citation needed]
On July 16, 2011 Hill worked with his wife, Carla Hill, for their first ever boxing card and promotion at Resorts Casino Hotel in Atlantic City, New Jersey, [2]
Hall of Fame[edit]
On November 12, 2012 he was officially inducted into the International Boxing Hall of Fame, Class of 2013.[3]