boxingmaniaayalaのブログ

ボクシングマニア・悪童アヤラのページ

下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

Virgil Hill 50 Wins (23 KOs)7 Losses (2 KOs)ロス五輪銀「自ら望んだ地方英雄路線・クイック・シルバー」の軌跡+ちょこまかとまた追加

PS:せっかちなおっさんです☆Bazookaからチャム戦にのぞむティトに変換しました。いつもより表情、気合入りまくっていた。さかんにカメラにむかってしゃべりながら。BGMスペイン語の歌がほんとうに似合っていて、さらに気合入りました(もう何度戻してみたかわかりません☆)。なつかしいかぎり。やはり90年代までで「純マニア」ていどに落ちぶれてしまった(苦笑)。
Virgil Eugene Hill (born January 18, 1964) is a retired American professional boxer. He is a five-time former world champion, having held the IBF, World Boxing Association (WBA) and lineal light heavyweight titles, as well as the WBA cruiserweight title. As an amateur he won a silver medal in the middleweight division at the 1984 Olympics. In 2013, he was inducted into the International Boxing Hall of Fame.
はじめに:
みなさん、こんにちは。ヒルは若い世代も名前は聞いたことはあると思います。ただ「概要」はあまりなじみがないはず。そして私自身、ノリスなどと並んで決して「ファイター」(ボクシングのスタイル)そのものは好みではなかった。地味、堅実ながらそれは自らの性格を反映していのこと。
バージル・ヒル(クイック・シルバー):
ーロス五輪決勝で、韓国の申に判定負け(3-2でしたけど。ヒルの勝ちにみえないこともない)。申はプロ入りせず引退(*注以降、ヒルと聞けば「ああ、あの決勝で負けたやつか」とアメリカ人の間で広まってしまう。
ーほかの名だたるメダリストたちとは一線を隔す独自の路線をプロ入り後から引退まで貫いた選手といえる。
ー烈風と寒冷吹き荒れるアメリカ中西部、北のノースダコダ州出身。自ら「スーパースターになるなど望んでいない」「地元で活躍できるだけで十分」「ビッグファイトもそれほど欲しない」こういう素朴で謙虚な青年でした。
レスリー・スチワート戦:24勝(18KO)1敗・「ボブ・フォスター」の再来と期待:
ーアメリカについたばかりだった18歳当時の忘れられない試合(何度見返したから不明(笑)。ともあれ「過ぎし青春時代?」若かったですね(苦笑)。
ーいやな予感がした。大贔屓だったスチワート。故エディ・ファッチに鍛えられた「クイック・シルバー」不気味だったもの(18連勝(14KO))。不安は的中。ヒルのベストファイト。4回、見事なノックアウトで戴冠。その後のヒル(二階級制覇・通算15~16度防衛?ハーンズ戦まで無敗の29連勝(15KO))の軌跡をみれば順当勝ちだったんでしょう。
ー初回からスチワートはいつもどおり。クロスアームを緩めたようなガードからスムーズなジャブを放ちながら足の動きをとめずに圧力をかける。ヒルはまさに「異名」そのもの。旋回しながら左をずっと突き続ける。スチワートも応戦。左の突きあいとなった(こうなるとヒルのペース)。
ースチワートはだんだん焦燥感によるいらだちがみえはじめる(まさにエディ・ファッチの作戦と最適の展開)3回、スチワートは前へでてきた。ヒルをロープに詰めようとして一生懸命パンチを放つ。ロープ際で左右の打ちおろしから連打につなげようとするがヒルはすぐ回り込み、また旋回しながら速くて強いそして長い左を突きまくる。
ー4回、再三ヒルのカウンターが命中。右をテンプルに叩きこんだ。スチワートも応戦するがパンチはちっとも当たらない。終了間際。気負いこんで突進したところへ左フックのカウンターが顎を打ちぬいた。スチワートダウン。効いていた。立ち上がって迎撃(スチワートにはいい展開)。ながらゴング直前にまたヒルの大きな左フック二連打が炸裂。ダウン。そのまま10カウント。ヒル、大殊勲により王座強奪。見事だった。
(*注)韓国は「メダリスト」たちを厚遇。国家的「英雄」として毎月「年金」が支給される。また「国家公務員・教員」として「引退後」も職業は準備されている。これは今も変わらず。たとえば「金光善」(自ら「張正九も柳明佑も自分より下の選手」といっていた。さらなる名誉と栄光のため(むろん高額のファイトマネー)プロ入りを決意(3年のブランクは克服できず=アマ時代の狼のような俊敏さスピードが失われていた)。
(*注)マービン・ジョンソン(ミュンヘン五輪銅メダル・強打の荒法師サウスポー)戦(決定戦・初戦8回TKO負け(初黒星)・再戦地元トリニダードトバコの野外大スタジアムで王者を圧倒。初回に2度ダウンを奪い8回KOで雪辱戴冠)で痺れてしまった。以来楽しみにしていたんですけど・・・「ボクシング」の厳しさと魅力はつきません(笑)。
At the 1984 Summer Olympics Hill represented the United States as a Middleweight then age 20, and won a silver medal in a close decision loss in the 165-lb final . His results were:
Defeated Barbados Edward Neblett RSC 2
Defeated United Kingdom Brian Schumacher 5-0
Defeated Socialist Federal Republic of Yugoslavia Damir Škaro 4-1
Defeated Algeria Mohamed Zaoui 5-0
Lost to South Korea Shin Joon-Sup 2-3

Hill was the 1984 National Golden Gloves champion at Middleweight.
Professional career[edit]
Light-heavyweight[edit]
In September 1987, after going eighteen straight fights without a loss to start his pro career, Hill aka 'Quicksilver' (his nickname) was a challenger to Leslie Stewart of Trinidad for the latter's World Boxing Association light-heavyweight tile in Atlantic City. After an even match in the early going, Hill floored the defending title holder twice in the fourth round – first with a left hook and the second time with an uppercut – to take the title on a Knockout win.[citation needed]A series of ten successful defenses followed, eight of which took place in Bismarck, North Dakota. Hill received offers to fight in Las Vegas and other cities, but chose the place of his 'roots' and 'hometown fans' to be the place of the majority of his defenses. Opponents in his first run as champion included Bobby Czyz and James Kinchen. Superstar Thomas Hearns would meet – and defeat – Hill in Las Vegas by decision in June 1991 to end Hill's first reign as champion.[citation needed]In September 1992, it was Hill pitted against 1984 Olympic teammate Frank Tate for the vacant WBA 175-lb. title. It was a 'grudge match' between the two, and Hill won the title on his home turf of Bismarck. Another string of ten defenses would follow, including a rematch with Tate, a close decision over Lou Del Valle who almost upset Hill.[citation needed]
ジャン・マリー・エメベ戦:アフリカの野生児・強打者・初防衛戦:
ーこの試合も感無量。アメリカの片田舎でみました。エメベは豪腕、破壊力満点。ただもうひと押しのスピードと切れに欠ける。パワーがある重たいパンチを振り回しながらの突進力はあるけどヒルに楽々とさばかれてしまった。地元での初防衛戦。絶対に足をとめないヒル。ひたすら左を突きときおり打ち込む右ストレートも有効だった。11回TKO勝利。忘れられない一戦だった。エメベのパンチはおそらく一発も命中していなかったのでは。ともあれヒル、回顧すれば派手さはないにせよいい選手でした。
ーただ、「一般受け」という意味では物足りなかったかもしれません。ちょうど、私の恩人である亡き先輩は近辺にむかし住んでいた方だった(ヒル自身、その後防衛戦を行ったこともあるモンタナ州ビリングス)。
ーブーブー文句ばかり(日系人ながらすでに「祖国」は遠いアメリカ人です)。「なんだこいつは。全然倒せねえじゃねえか」そればっかり(苦笑)。けれどヒルはやはり実力派の名王者でした。これからそれをジャカスカ展開していきますのでよろしく☆
Unification matches[edit]
In November 1996 at the Olympiahalle, Munich, Hill won over the undefeated IBF champion Henry Maske to unify the WBA/IBF belts and win the vacant Lineal championship.[citation needed] in June 1997 WBO champion Dariusz Michalczewski scored a unanimous decision over Hill to unify the Lineal/WBA/WBO/IBF titles at Arena Oberhausen, Oberhausen, Germany.[citation needed]Hill boxed against Roy Jones Jr. the following year, and was stopped in round four with a body shot.[citation needed]
キンチェン戦:元ミドル級1位・常連ランカー(34連勝(29KO)無敗2分け):
ーキンチェンは「運」がなかった。それより他ならぬ「ハグラー」時代の話である。L・ヘビー級では「体負け」しかも「峠を越えて」からのことだ。初回、はじまってしばらくしてヒルが命中させた左ジャブから返しの左フック。ガダガタになったところへ右ストレート。これで決まってしまう。立ち上がれず初回KO負け。ヒル改心の防衛。
ーL・ヘビー級あるいはクルーザー級ともならん名王者には「水増し」ウエートでは問題にならなかった証拠となりましょう。
ーキンチェンがアレックス・ラモス(11回ノックアウト勝ち)を破り「挑戦者決定戦」となった故シュラー戦の無敗対決(シュラー21連勝(16KO)・この試合はほとんど90%サウスポー)。それなりに充実していた上位ランカーたちのしのぎを削る。対決そして攻防も懐かしい(シュラー(モスクワ五輪代表)はその前の二戦相次いで元五輪代表のホープを破っていた・シールズ(ミュンヘン五輪・サウスポー対決でスイッチヒッターシュラーは80%は右で戦った)・ジャクソン(モントリオール五輪銅・同じくサウスポー・この試合も右が70%)。まさに「生き残り戦」の様相だったミドル級。そのシュラーも出会いかしらハーンズに初回仕留められてしまった。次にあげるハーンズはL・ヘビーでも遜色ない189センチの身長・すでに「ヘラクレス」のように体を作っての挑戦だった(ただ「全盛期」だったアンドリュース戦より「年齢」(31歳=当時は若くない・しかもトップ強豪との連戦後)によるボタつきはいがめない)。
ともあれヒルは「クイック・シルバー」そのもの。ムリして「ノックアウト」を狙わない「ローカル主義」(地元の方々にほんとうに好かれていた)。
タイロン・フレージャー戦:故ジョーの親籍:
ー大分記憶が混乱していた様子(苦笑)。アメリカの懐かしいオンボロアパート。週最低でも2回の放送あり。フレージャーの試合もよくみた。初回KO負けしたように錯覚していました(ウィキで確認)。12回判定負け。
ーヒルより一回り小さくてあまりパワーもない。外見はハーリー・スニードに似ているけど。どうもギクシャクした構えで不器用な選手だった。その頃はたくましい上半身で豪腕だった「Fighting Post Man」トニー・ソーントン(ジョーンズに3回で吹き飛ばされた試合はびっくり・すっかり筋肉もなくなったひ弱いおっさん化)にも打ちまくられながらタフなんでしょうね。倒れなかった。
ー小さいやせっぽっちにみえ。ヒルが圧倒していた。左をジャンジャン突いてよく倒れないなあ~と思うほど食っていました。しかしアメリカ時代はなつかしい。当時とりわけ脳裏に刻まれているのはエンヘルス・ペドロサ(28連続KO無敗)。おもわぬ1敗(KO負け)ながら。コロンビアのジャングルからそのままあらわれたような。精悍な「野獣」みたいな輝き。だったから惜しい(ホーゲンみたいな感じの世界ランカーに判定負けした以降はどんどん低落)。ラバグレア(ハーンズに初回KO負け)やたらよくやっていた(苦笑)KO率の割にはいつも判定勝負。
マイク・ピーク戦:
ーモントリオール。ルームメイト(ハンガリー系カナダ人・留学中のニューヨーク黒人アメリカ人)といっしょにみた。ピークはいい選手だったけど、なにかの切っ掛けで調べたら。ヒル戦以降、ほぼ全敗。負け越していたのにびっくり(悲しかったです)。
ー長身の黒人選手。ストレートパンチャーで1~3回くらいまではストレートの突きあいでややピークが押しているくらいだった。だんだん「資質」の根本的相違が現れだす。ヒルの左ジャブがよく当たり。ピークはほとんど手が出なくなってしまう。
ーともあれたいしたもんです。ほぼ「左一本」で大差の判定勝ち。たしかに一般受けはしないスタイルだと思う。ただ「マニア」にはもってこいのいいスタイルだった。特に「ストレート」「長距離」でのまっすぐのパンチが基幹になるのを好む(私もそう)人にはもってこい。それがヒルのボクシングでした。
Cruiserweight[edit]
The aging Hill won the WBA cruiserweight title at age 36 by knocking down Fabrice Tiozzo three times in Villeurbanne, France by TKO in the first.[citation needed] He made his first defense, also in France, against Jean-Marc Mormeck, but would lose both match and title on cuts after nine rounds. In July 2003 he decisioned Donny Lalonde in a North Dakota-Manitoba 'border fight'. He lost a disputed decision to Mormeck in a title rematch in South Africa in May 2004.[citation needed]On January 27, 2006 Virgil Hill won over previously undefeated Russian cruiserweight Valery Brudov by unanimous decision to win the 'regular' WBA cruiserweight title, as the WBA had now created a WBA "Super" title beside the standard WBA title. Despite being cut on the face in the sixth round, Hill was able to out hustle and out work his much younger opponent to capture his fifth world title at the age of 42.[citation needed]He had his next to last fight in Germany on March 31, 2007, facing Henry Maske, whom he had beaten in 1996. Maske had announced his retirement prior to that fight and was frustrated to end his career with a split-decision loss, the only loss in his professional career. When he heard about Hill capturing the world title again at the age of 42, he decided to challenge him for a rematch. Hill lost the Maske rematch by decision in a non-title bout, then lost to Firat Arslan by decision to lose his WBA cruiserweight title.[citation needed]
ハーンズ戦:初黒星:「勝ったと思った。でも相手が伝説ではしょうがない」(ヒルの試合後の言葉):
ーハーンズは屈辱が続いていた。引退状態長年のレナードが突如割って入った立派な「かっぱらい」行為に過ぎない。失意のうちバークレーにKO負け。つづくキンチェン戦はまたダウンを奪われ2-1判定(キンチェンはおおむくれ)。腫れあがったヒットマンの顔がすでに「峠を越えた」英雄を物語っていたように思う。
ースチワートとはじめて袂を分かった。再びL・ヘビー級(アンドリュースを都合6度倒して11回ノックアウトで制覇したのもむかしこと)しかも無敗の安定王者ヒルに挑む。
ークロンクを離れたときのハーンズはどちらかというと「ヒットマン」スタイルではなくガードを上げ左を突く(あの「趣味の悪い」水色に黄色まじりのガウンとトランクスは似合わない(苦笑)。いわば「慎重派」になる(バークレーとの再戦ではロープに詰まり「カウンター戦法」に徹していた)。
ー結論からいえば「左ジャブの勝負」となればそれ一本しかないヒルは決め手にかけた。ハーンズは左だけではなく、時に右ストレート。そしてデトロイトスタイルの真髄「ボディーブロー」あり。私はこの試合もよく見返す一戦(「玄人好み」長距離でのストレート合戦。クロンクスタイルは大好きである)。
ーヒルは全力を出したと今さらながら感じる。ただもっぱら焦点はハーンズが「安全運転」に徹したところにあったようだ(アメリカの解説でもそれらをぶったたいていた)。ヒル、12度目の防衛ならず。初黒星。ハーンズ再び四階級制覇(6つ目のタイトル)。それにしても「携帯フリッカージャブ奪取」どうこうで「島国日本」の勝手な’ムラ社会’「マンガ」「アニメ」・・・妹の「お化け屋敷遊園地」騒動にハーンズが悪用されている(しかも「パンチドランカー」の傾向いかんともしがたくの老英雄・・・申し訳ない限りである)。ちょっと気分が萎えたのでまた後で。「森川云々」さんよお~。おっさん!なんとかいうてみいやコラッ!!としかいいようないっス(-_-;
ティオーゾ(1):
ーいろいろ記憶をたどりウィキで確認。これはみていないけど12回判定勝ち。
ミハイルゾウスキー戦:
一言、ドイツでWBO王座ながら19度防衛した選手でくりかえし「ジョーンズ」とやりたいといっていた。だから受けてほしかった(「ヘビー級」より同階級に「ライバル」がいるじゃないか。文句ばっかりみながらいってた)。ジョーンズの「地方路線」はヒルみたいに’徹底’していないなんとも中途半端(だから余計にいらだった)。バスケットをやってみたり、自分の「メインイベント」の試合前にゲイナー(ノーウッド戦)にへっついてリングサイドにチョロついてみたりと(案の定試合は「大凡戦」の判定勝ち)
ーヒルはもう峠は越えていた。ただハーンズ戦以降13連勝中。「試合」としてはまた「玄人受け」。いわゆる「クリンチの少ない」欧州受けする「元アマ」同士のきれいな展開だった。ミハイルゾウスキーはポーランド出身。33連勝(26KO)無敗。ドイツを主戦場にしていた元アマスター(シュトルムとおなじ背景。ただボクシングは違う)。
ー案外単調で山場がない展開だったかもしれない。しかし私はヒルが勝ったようにみえた(3-0判定負け)。ヒルにしてはどういう経路をたどったか存知あげないけど「ドイツ」に遠征しての試合。まったく偶然、テレビをつけたらちょうと試合前だったのでびっくりしてそのまま観戦に励んだのを思い出した。
ジョーンズ戦:
ーこちらももう少し早く実現してほしかったのが本音。ジョーンズはグリフィンに反則負け(実際は二度のダウンを奪っての9回KO勝ちだったはず。グリフィンは明らかに「わざと」立たなかっただけ。試合後のインタビューでのその辺をつかれ。しどろもどろ(苦笑)。エディ・ファッチ引退後の再戦では初回見事なKOで雪辱)。
-試合前、HBO放送おなじみの「経歴」「背景」紹介。その「試合」にいたるまでのことがほんとうによくわかる。ヒルがいかに地元にこだわるのか。また愛されているか(出身の高校を訪問し。子どもたちとも「やさしいおじさん」として接している。ノースダコダは烈風吹き荒れる寒冷の冬。厳しい気候の州。まさに「地元の英雄」ぶり。いまさらながら感動する(ちなみにYoutubeではまず「試合」しか出てきません(苦笑)すべて「記憶」に立脚(再び苦笑)。そのヒルが「ラスベガス」に現れた。坊主頭でいい表情をしていた。新旧五輪対決。ふたりとも「銀」(ジョーンズのは歴史上に汚点を残したひどい判定(バツが悪くなってしまった韓国の選手がかわいそうだった)=インチキ韓国人ジャッジは永久追放された)。
ーむかしから考えていたけど。日本の放送ももう少しHBOやSHOWTIMEに見習えないものか?ないものねだりなんでしょう。アメリカにも2年住んでいた。カナダももう27年になる帰化元日本人ながら。「スポーツ」というより「排他民族主義」のにおいばっかり(WOWOWは別)。「日本選手」が「勝つか?負けるか?」そればっかり。
ー「試合」はあらためてジョーンズの強さと潜在力に驚かされた。ヒルがまったくスピードについていけないで翻弄されっぱなし。四回、ジョーンズの目にもとまらぬ。ながら痛烈な右フックがヒルの横っ腹を打ちぬく。すごいパンチだった。一発KOでジョーンズ。ヒルは苦悶の表情でリング上で丸くなったまま立てず。
ティオーゾ(2)戦:敵地フランスで初回KO・タイトル奪回:
ーティオーゾは強敵。元ミドル級王者の兄(クリストファー・白仁鉄をストレート攻撃で寄せ付けず6回KO戴冠)より頑丈なファイタータイプ。私はこの弟のフランス人らしからぬ威風が好きだった。ニコリともせず動じない固い表情。
ー試合はまた往年のヒルを思わせる初回、あっというまノックアウト勝利。びっくりしてしまった。ヒルも晩年は結構遠征するようになったものだ。
He retired with a record of 50 wins (23 KOs) and 7 losses.[citation needed]
On July 16, 2011 Hill worked with his wife, Carla Hill, for their first ever boxing card and promotion at Resorts Casino Hotel in Atlantic City, New Jersey, [2]
Hall of Fame[edit]
On November 12, 2012 he was officially inducted into the International Boxing Hall of Fame, Class of 2013.[3]