boxingmaniaayalaのブログ

ボクシングマニア・悪童アヤラのページ

下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

後楽園ホール・懐かしの観戦記・80年代

こんにちは。カナダはすっかり雪化粧。長い冬の到来です。
思い出の試合:
(1)、石戸唯男(7勝(6KO))VS山本兼当(7勝(7KO))
ー強打者同士の一戦。結構な注目を浴びていた。石戸ははじめてみた。もっと振り回す強打者だと想像していたら意外に、インサイドからまとめる選手だった。一方山本は、豪快に豪快なパンチを放ちながら肉薄。初回、山本の大きな右スイングが命中して石戸はロープに吹っ飛ばされた。会場は一気に盛り上がったけど、山本の見せ場はそれだけ。
ー石戸は山本の強打をかわしながら着実に小さいパンチをこつこつ当てている。迎えた3回、似たような展開で次第にジリ貧になってきた山本。何発かショートのアッパーから上に返す連打を食らい、がっくりと横に寝ころぶようにダウン。立ち上がれず石戸のKO勝ち。やや地味ながら実力差で勝った石戸、あまり好みの選手ではなかったけど。いい試合でした。
(2)、ヨネクラ・イコ二VS山本兼当
ーイコ二はアマのキングスカップ覇者として鳴り物入りだった。アマ時代1勝1敗だというアズマー・ネルソンとやりたいとキャリア中、ずっといっていた(アマとプロは違うのでおそらく勝てなかったでしょう)。
ーこの試合、単なる偶然だった。ちょうどパリーグの日本ハムVSロッテ、ダブルヘッダー(当時のパリーグはろくに客など入っていない)を見終わった帰り。確か日本ランカーの西川浩二(風来ゆうとを9回KOで破った後)がやるはずだったな。なんて思ってたらまったく知らなかったケニアの元アマエリート輸入選手がデビューとあった。
ーそのまま入って観戦。イコ二はゴングと同時にひたすら右の打ちおろしスイングで荒っぽかった。それが立て続けに炸裂。山本はがっくり沈みあっけない初回ノックアウト勝利でデビューを飾った。野性味があってすばらしかったです。及ばなかったのは打たれ脆さ、それだけだった気がする(友成戦(ダウンを奪われ初黒星)、安里戦(初戦は3回倒されて判定負け。2勝1敗で雪辱)大隅戦(ダウン応酬で初回KO勝ち)などが思い出される。
(3)、友伸ナプ二VS今井房男
ー今井は派手さはないけど実力者。浜田に4回戦時代、判定で土をつけた。世界挑戦などと騒がれていた五戸博を9回、番狂わせのKOで破り世界ランク入り。それだけだったが、なつかしいまで。
ーナプ二は、ふざけたパフォーマンスでひんしゅくを買っていた。デビュー戦からこんなことやってていいのか。確かに元アマホープらしくきれいなボクシングをしていた(こちらもネルソンとアマ時代1勝1敗だという)。イライラしながらも6回判定勝ち。5回頃、あまりにしぶとい「アリシャッフル」に今井がお返し、どうっと会場が笑いに包まれたのもよみがえる。
ーナプ二はスパイダー・根本を破り日本タイトルを強奪。一気に世界ランク入りして、おもしろいな。と思ったら再戦で完敗。そのまま日本でのラストファイトになってしまったのは残念だった。
(4)、小林光二VSジャッカル・丸山
ー世界ランカー対決。連続KO中の小林は派手に入場し、応援団がすごかった。丸山は世界戦経験は二度(バリャス(渡辺二郎に9回TKO負け)との決定戦で11回ストップ負け・日本人キラー金に7回TKO負け)。
ーサウスポーの小林が初回から、スピードのあるパンチで圧倒。切れ味鋭い連打を浴びせるけど、意外に命中打は少ない。だんだん丸山が前に出て来た。「判官贔屓」、丸山への応援が徐々に高まる。9回、丸山の右フックがカウンターとなって小林がダウン。会場が大きくどよめく。その後は丸山への声援一色になっていった。
ー判定は小林。かなり汚い野次も飛んでいたけど、丸山の勝ちでもおかしくない熱戦でした。
こんな感じでまた思い出したら書きますね☆ありがとうございました。
(5)、Exhibition(試合とメインは忘れました)
1、磯上秀一、
ーアマの若者相手。2人ぐらいづつ1~2R。まじめに対処していた。ほんとうに物静かで一本気な業界きっての「硬骨」辰東ジムならではの選手。黄色のグローブ(14オンスだと思う)が印象的だった。
2、スパイダー・根元、
ー磯上よりは笑ったりちょっと、おどけた打ち方。そのぐらいで磯上同様、間近でみると「威容」「圧力」がすごかったです。
3、ガッツ氏、
ーまずひとりだけ「現役」じゃない元チャンピオンでした=最低(ボテボテの腹が気持ち悪かった)・・・ふざけてばっかり「ドッキリカメラ」そのもの。一生懸命やってる若者が(ひとりは中学生)かわいそうだった。この人、ほんとうに嫌い(ボクサーとしても人格・人間としても)。
(6)、松島幸一VS金龍大
ー松島はロイヤル・小林の東洋タイトルに挑戦した強打者(8回KO負け=小林最後の「KO」勝ち)。金は一時期、日本に移籍。たびたびリングに上がっていた。長身のストレートボクサー対左右フックの1発パンチャー。
ー松島がひたすら前に出て(中島俊一をぎこちなくした感じ)金が迎え撃つ。そんな展開であんまりわかなかった(お客さんもあんまり入っておらず)。「初観戦」の従兄弟といっしょ(前座も「判定」ばっかり。ちょっと残念でした)。8回、松島はコーナーから出ず(出血がひどかった)。TKO負け(直後に引退発表のアナウンス)。でも帰り道、仲のよかった従兄弟と今はなき後楽園球場・遊園地を横目に水道橋駅に向ったのもなつかしい。
(7)、北野武(ビートたけし)VSサブロー(ホセ・メンドクサー)
ーたけしは漫才ブーム時代から苦手な面がおおく。あんまりみてませんでした。だからたけしがボクサーだったのは知ってましたが。「たけちゃんまん」とかってはまるで知らず。
ーなんか客層が若干ちがうような雰囲気ははじめからしてました。ど素人相手だったから余計に「差」が目立った。しっかりしたフォームで打ち方もまずまず(岩城氏よりよっぽどよかった)。
(8)、大橋秀行VSフィリピン選手
ー大橋の小ささに驚いた。ピンクがよく似合うガウンとトランクスがかっこよかった。一発の破壊力は会場中、響き渡るぐらいすごい。2回、張正九との死闘から学んだ「ボディーブロー」を強烈に叩きこむ。豪快に倒して見事に再起。すばらしかったです。
(9)、坂本孝雄VSミドル級日本ランカー
ーメインは上山VS野本(上山の5回KO勝ち)赤城の再起戦(判定勝ち)その前だった。私は坂本がみたくて赴いたんです。テレビでもみたことなかった。評判とおりのいいジャブとストレートを繰り出して。ひとまわり大きい相手の顔をはねあげていた。時々パンチをもらってロープに吹っ飛ばされたりもあったけど。ボディー攻撃が実に有効だった。
ー出し惜しみする傾向のある右もよく打ち込んでいた。日本にはないスタイル(スパーでバンフスをダウンさせた)。大贔屓でした。4回、2度のダウンを奪って再起を飾った(後に3連続ノックアウトながら。拳の負傷で引退)。
また思い出したら書きます。


はじめての後楽園ホール・小学校4年生・1970年代後半

こんにちは。カナダは今日も「秋雨」・・・厳寒期到来まで、温暖化の影響ただならず「1カ月」のずれ(苦笑)。
水道橋と後楽園:
ー忘れもしない日本タイトルマッチ。安藤文治VS岩本弘行(2)。岩本が9回にダウンを奪って雪辱。タイトル奪還でした。セミは連続KO中の小林裕幸が沖縄出身フレージャー・金城を初回で眠らせた。薄暗いところから、四回戦のエンジ色のグローブがみえてくる。今、こうして書いていると感無量。古き良き時代でもありました。
ー最近はどうなっているのか・・・想像もつきません(笑)。
それより、売店で買った「パンフレット」。「国際欄」もあって、ちょうどハーンズがガソを初回で吹っ飛ばした白黒写真がなつかしい。日本は後の世界王者小林光二(裕幸を初回ノックアウト)が前王者の船木和義を2回でねじ伏せた颯爽たる勇姿も思い出される。
数え切れない観戦:
ー元世界ランカー同士の生き残り戦だった上江州隆対丘勇治(高田次郎)。上江州はノンタイトルで世界ランカーのダニロ・バチスタ(サラテに挑戦・3回KO負け)を6回にノックアウト。世界ランク入りしたけど、磯上秀一とのランカー対決で9回ストップで敗れた。4回、上江州の負傷で丘のTKO勝ち。凡戦といわれたが、それなりに楽しめた。高田は周知のとおり、カントとエスパダスに挑戦してともにKO負け。
ーぱっと浮かぶのは尾崎富士雄対田端信之(デビュー戦もライブでみた。長身でパンチがあるいい選手がでてきたなと感心)、初回田端が右ストレートを炸裂させ先制のダウンを奪った。4回、尾崎が距離をつめ強打を命中させる。田端はうつ伏せに倒れ、豪快な逆転ノックアウト劇(尾崎は友成光との再戦をライブ観戦。4回KOで雪辱。友成のラストファイト(すっかり「たるんだ」体と、ゴチャゴチャボクシングがさびしかった)。こんな感じで少しづつ調子を取り戻します☆ 
アヤラ

お久しぶりです・帰ってきました・久しぶりにみたボクシング・オリバレスVSチャコンなど

ご無沙汰していました。ちょっと体調がすぐれず、おざなりになっていました。
オリバレスVSチャコン・3戦(2勝(2KO)1敗(判定):
ーオリバレスはすでに全盛期は過ぎていた。むかし「世界名ボクサー100人」でカスティーヨに14回TKO負けで初黒星(59連勝(56KO)1分)とともにタイトルを失った試合で峠を越したと書いてあったのを思い出す。
ー下にあがってきて嬉しい「青木」同様、長らく文と写真から頭で想像していたのが懐かしい。チャコンとの宿命的な対決にのぞんだときはすでに、相手を震えあがらせるような威容はなかったといわれる。けれど、まさに「人間風車」そのもの。強烈なパンチの暴風があらゆる角度からあらゆる種類で繰り出される。
ーこの前は、元世界フライ級王者のアラクラン・トーレスを新旧交代で豪快に沈めた試合もみました。チャべスのような「精巧さ」に欠ける分、迫力は度外れ。すさまじいもの。
ーチャコンとは「相性」も大きく作用したように感じる(ダ二ー・ロペスにチャコンはKO勝ち(ロペスの初黒星・25連勝(24KO))オリバレスは再起後6連続KO中、ロペスのロードバックで7回KO負け)。初戦はチャコンは若々しく、オリバレスもまだ「野性味」あふれる連戦連勝時代の風格が薄れてなかった。熱戦の末、9回にオリバレスがノックアウト勝ち。いい試合だった。
ー再戦は世界タイトル。チャコンはフェザー級王者。初回からオリバレスの豪腕うなりをあげる。左右フックからアッパー、ボディーでつるべ打ち。合計3度の強烈なダウンを食らい2回ストップ負けでチャコン王座陥落。オリバレスの二階級制覇。ただしオリバレスはもうバンタム級タイトルをKOでエレラに強奪されてロートルの雰囲気濃厚だった(しかし「腐っても鯛」まだまだ強かった)。
新しいプロ「ボクシング」についていけず:
ーこうした形で、「レトロ」「懐古」趣味はずっと続いています。せいぜい2000年代が精一杯。現役の選手はゴロフキンぐらいしかみたことありません。一時期わがカナダ、モントリオールの「ハイチ2人組」パスカルとスティーブンソン(特にこっち。故スチワートをして「最強の一発屋」といわしめたクロンクのサウスポー豪打者)をみていました。でもなじめなかった。
70~90年代ばかり相変わらずみています。Youtubeでオリバレスだろうが、ロペス、チャコンなんか全部みられる時代に感謝。
そんなこんなでまたよろしくお願いします。
アヤラ

Tony 'El Torito’ Ayala・31W27KO2L・悪童アヤラの最後・無敗の22連勝(19KO)

みなさん こんばんは、
このアヤラの記事が上がってきたので。もう一度詳細をまとめました。正直「死亡」したことに関しては何もいうことはありません。「塀の中」暮らし同様「自業自得」でしかない。
ーリング誌の「What If」というページでムーアとの無敗対決が行われていたら。アメリカにいたころ、読んで感慨深かったです。
ムーア・12連勝(9KO)対アヤラ・22連勝(19KO)
おそらくアヤラが早い回でノックアウトしていた展開しか浮かばない。
ーそれはともあれ。わたしは「模範囚」として15年で出所してきて以来5連続KO勝ち。元王者カンパスとの一戦での健闘ぶり(一進一退の強打戦、拳を痛めての8回TKO負け)。

それにちなんで「ワールドボクシング」に「過去への反省」そして更正ぶりを讃える投稿が載ったりした(苦笑)。
ーあれほど人が嫌いに信じられなくなったときはなかったかもしれません。「塀の中へ逆戻り」18歳の顔見知り程度の女性宅に泥酔(むかしとおんなじ)状態で不法侵入。ライフルで肩を撃たれ婦女暴行未遂で逮捕された。「仏の顔も三度まで」、これでもう完全に見放しました。
ーその後また、麻薬使用のあげく無免許運転で一時停止を無視。捕まった車の中には大量の幼児ポルノ雑誌やDVDが発見される。10年の刑。単なる「精神病質者」(反社会性異常性格・サイコパス)だったとしかいえない(小さい頃、性的虐待を受けたなどといった出所後のドキュメンタリーを真剣にみて考えていた自分が情けなくなりました)。
ー思い出の試合はまず、無敗の30連勝(26KO)中だったミドル級1位。ハグラー打倒の最有力候補だったドワイト・デヴィソンを判定で破り土をつけた長身の白人パンチャーロビー・エップスを初回でストップした一戦。ロープに詰めて滅多打ち。レフリーがストップした後も何発か打ち込みチャチを入れる(’スポーツマン’らしからぬ粗暴な’本性”が現れていた気がする)。

ー次はなんといっても世界1位アルゼンチンの功打者カルロス・マリア・エレラ(モーリス・ホープに挑戦して善戦、判定で惜敗・47勝(30KO)6敗)との一戦。今でも時々見返す戦慄のノックアウト劇。初回から圧倒。エレラの鋭角な左右アッパーをかいくぐりながら強打を叩きこむ。ー3回のKOはすさまじかった。まず痛烈な左フックを炸裂させる。棒立ちになったエレラにもう一発左フックをテンプルに命中させた。もんどりうって倒れたエレラ。ダメージは相当なものでしばらく立ち上がれず。

ー試合後のインタビューでムーア戦について聞かれ「Well he is next, has no execuse」(次はおまえだ。もう逃げられないぞ)と自信満々に語ったあと、アルコール問題について。素直に認めもう大丈夫だ。といっていた。しかし・・・ムーア戦を控えた一ヶ月前にまたやらかす・・・どうにもこうにも。残念でなりません。「人間」としてではなく純粋に天才「ボクサー」として。
ー享年52歳・ペンネーム変えようかな?と思ったけどこの「同人誌」世界ではこの方が覚えている方がいると考えそのままにしています。はあ~・・・まったくため息しかでません。けど「ボクシングのない生活なんて考えられない」のは永遠の良好な「宿命」(笑)。たとえ「見て」いなくても一日の30~50%は関連を考えてますので(^_-☆ これからもよろしくおねがいします☆ ボクシングはすばらしい!!それだけ☆
悪童アヤラ
Antonio Ayala Jr.
(February 13, 1963 – May 12, 2015) was an American boxer who fought in the light middleweight division. He began his professional career in 1980, and by 1982 he had compiled a record of 22 wins and no losses, with 19 knockouts. Ayala had three brothers who were boxers, Mike Ayala , Sammy Ayala and Pauline Ayala[1]
トニー・アヤラ・ジュニア(Tony Ayala, Jr.、男性、1963年2月13日 - 2015年5月12日)は、アメリカの元プロボクサー。テキサス州サンアントニオ出身。
Biography[edit]
Early life[edit]

Ayala was born in San Antonio, Texas. Tony is the brother of former boxers Mike Ayala, Sammy Ayala and the son of trainer Tony Ayala, Sr.[2]
Professional career[edit]
Many have said Ayala was a boxing prodigy, he first fought at the age of five and won over one hundred forty amateur fights. Ayala turned professional in June 1980 with a one-round knockout of Zip Castillo and proceeded to score three other first round knock outs. Ayala was known as a savage brawler who was often considered a "dirty" fighter, for example on one occasion, he spit on his opponent after knocking him to the ground. He also admitted to using heroin before a fight on three occasions (his brother Mike Ayala also made allegations of using drugs before his world title fight against Danny Lopez). In the summer of 1981, teenager Ayala was featured in a cover story of Sports Illustrated as a rising star in boxing. Veteran boxing writer Michael Katz claimed he was the best young fighter he had ever seen, Muhammad Ali's trainer Angelo Dundee said he thought Ayala could have been one of boxing's greatest fighters. On September 16, 1981, he fought on the undercard of the legendary fight between Sugar Ray Leonard and Thomas Hearns.
Rape conviction[edit]
After defeating Carlos Herrera at the end of 1982, he was scheduled to fight champion Davey Moore.[3] The fight was not to be. On January 1, 1983, Ayala burglarized the home of his neighbor, a young schoolteacher, and brutally sexually assaulted her.[4] Although he was only 19 years old, Ayala had already been convicted twice of assaults against women. One of these attacks took place in the restroom of a drive in theatre and left the victim with a broken back. He had been given probation for these offenses.[5] Under a repeat offender's law, he was sentenced to 35 years in prison. The prosecutor at trial argued the young boxer should serve the full term because he was a danger to the community.[6]
Release in 1999[edit]
Ayala was paroled from prison in 1999 and resumed his boxing career,[7] winning six high-profile fights, all by knockout. Ayala was still popular in his hometown, however women's rights organizations often protested at his fights. An eliminator against hard hitting ex-champ Yori Boy Campas brought an end to his unlikely comeback, a hand injury caused Ayala to quit on his stool after 8 rounds. His troubles with the law continued. In 2000, he was shot in the shoulder by a young woman after breaking into her home. At Ayala's trial the prosecution pointed out this was almost an exact replay of Ayala's 1983 offense. He received probation and a brief jail term for this offense. In 2003, Ayala was charged with having sex with a thirteen-year-old girl, but the charges were dismissed when the girl said she lied about it.
Reincarceration in 2004[edit]
In 2004, Ayala was sentenced to ten years in prison for violation of probation, after Ayala was pulled over in his vehicle for speeding, and was also charged with driving without a license, heroin possession, and possession of pornography in his vehicle. Tony Jr. was housed at the private Sanders Estes Unit for lower-level offenders in Venus, Southeast of Fort Worth, where he worked as a janitor.
Release in 2014 and father's funeral[edit]
Ayala was released on April 25, 2014. Ayala did not grant any interviews and make any appearances or public statements during his second incarceration.
His father, Tony Ayala Sr., who still owned and operated the Zarzamora Street Gym in San Antonio, died on April 10, 2014. Tony was granted special permission to attend his father's funeral on April 16, 2014, greeting family, friends, and fans, his first public appearance in over a decade. He then returned to custody to serve the remaining nine days of his sentence. [8] [9]
El Torito at Zarzamora Street Gym[edit]
Tony Ayala Jr. assisted his brothers, Paulie Ayala, Mike Ayala and Sammy Ayala, in the running of the Zarzamora Street Gym in San Antonio, following his father's death.[10]
Death[edit]
Ayala died on May 12, 2015, age 52, from an apparent overdose at Zarzamora Street Gym, San Antonio, Texas. It has been reported in the media that drug paraphernalia was found near his body.[11]
来歴[編集]
1980年にプロデビューを果たし、1982年までの2年間で22戦全勝19KOの戦績を残す。
1981年には10代にしてスポーツ・イラストレイテッドで特集記事が組まれ、有名ボクシング記者が今まで見た中で最高の若手選手だと絶賛、伝説的トレーナーのアンジェロ・ダンディーも将来的に最も優れたボクサーの一人になる可能性があると発言するなど、若くして非常に将来を期待されたボクサーだった。
しかし、その一方でKOをして倒れている相手につばを吐きかけたり、試合前にヘロインを使用するなど問題行動があった。
WBA世界スーパーウェルター級王者デビー・ムーアに挑戦が決まっていた矢先の1983年1月1日、近隣の女性教師宅へ強盗目的で押し入り、被害女性を縛って強姦する事件を起こし、懲役35年を宣告される。アヤラはまだ19歳だったが、この事件以前にも女性を2人襲って執行猶予判決を受けており、その内の1人は背骨を骨折させられた上にトイレに放置される残忍なものだった[1]。
1999年に仮釈放で刑務所から出所して、17年ぶりにボクシングに復帰した。
5連勝した後の2000年7月28日、元IBF世界スーパーウェルター級王者ルイス・ラモン・カンパスと対戦するも8回終了後にアヤラが棄権、8回TKO負けを喫した。
2000年12月12日に18歳の女性宅に押し入り、女性に肩を撃たれる。執行猶予10年を宣告される[1][2]。
2003年4月25日、アンソニー・ボンサンテと対戦し11回TKO負けを喫する。この試合が最後の試合となった。
2004年、スピード違反で停車を命じられ、無免許運転並びにヘロインとポルノ所持で逮捕。執行猶予中の身であったため懲役10年が宣告され、軽犯罪者用の施設に収容される[3]。
2014年4月10日、サンアントニオでジムを運営していた父親のトニー・アヤラ・シニアが死去。アヤラは軽犯罪者用施設から特別許可を得て葬儀に参列後、再び施設へ戻る。
2014年4月25日、刑期満了で釈放される[4]。
兄弟のパウリー・アヤラ、マイク・アヤラ、サミー・アヤラと共にサンアントニオの父親のジムを継いでいた。
2015年5月12日、ジム内の床で死んでいるのを発見される。死体のそばのテーブルの上に使用済みのヘロインと注射器が置いてあった[5]。検死の結果ヘロインの過剰摂取が死因と判明した[6]。









 








 


 




 








 


 












 








 

 






 










 








 


 








 










 








 


 








 










 








 


 

 






 










 








 


 

 






 










 








 


 







 










 








 


 


 






 










 








 


 






 










 








 


 







 










 








 


 







 










 








 


 








 










 








 


 


 






 










 








 


 







 






 










 








 


 



 





Leon Spinks 「カネに翻弄された神童」28勝(14KO)17敗☆兄弟同時五輪金・世界選手権銅のアマエリート+追加☆

Leon Spinks (born July 11, 1953) is an American former professional boxer who competed from 1977 to 1995. In only his eighth professional fight, he won the undisputed heavyweight championship in 1978 after defeating Muhammad Ali via split decision, in what was considered one of the biggest upsets in boxing history. Spinks was later stripped of the WBC title for facing Ali in an unapproved rematch seven months later, which he lost by unanimous decision.
スピンクスについて:猪木戦から
ーまず、猪木がグローブをつけて4回まで戦ったのは参りましたけど。初回、クリンチの離れ際に猪木の右スイングがテンプルに「ヒット」。スピンクスがおどけてフラフラってにやついてばかにしてるのを猪木が激怒してる表情。笑っちゃいました。
ーレフェリーはガッツ氏。実はスピンクスは何度となく「ギブアップ」を申し出ていたとか。「理解」できなかったのか「黙殺」したのか。真偽不明ながら世紀の「茶番」・・・(-_-;
Besides being heavyweight champion and his characteristic gap-toothed grin (due to losing two and later all four of his front teeth), Spinks gained notoriety for the disaster which befell his career following the loss to Ali.[1] However, he did challenge once more for the WBC heavyweight title in 1981 (losing to Larry Holmes), and the WBA cruiserweight title in 1986 (losing to Dwight Muhammad Qawi).As an amateur, Spinks won numerous medals in the light heavyweight division. The first was bronze at the inaugural 1974 World Championships, followed by silver at the 1975 Pan American Games, and gold at the 1976 Summer Olympics; the latter alongside his brother Michael Spinks, who won middleweight gold. Leon would also serve on active duty in the United States Marine Corps from 1973 to 1976.
アマ時代:L・ヘビー級:
ー本当にいきがよく。好戦的なラッシャーで常に頭を振りながら前へ出る。キューバや旧ソ連のメダル候補を総なめにしての優勝。すばらしかった。日本選手は石垣仁(ソ連選手に敗退・プロ入り後、日本王者獲得)瀬川幸雄(ハワード・デービスに判定負け・サウスポーの強打者リカルド・カルドナに挑戦)がでてましたね。
ーモントリオールのオリンピックスタジアムにはじめていったとき。各メダル獲得者の大型写真(ちょっとアブストラクトに工夫)がずらりと並んでるのをずっと眺めていたのも懐かしい。
Amateur career[edit]
1974, 1975, and 1976 National AAU light heavyweight champion
Defeated future champion Michael Dokes for first AAU title in 1974

Olympic results[edit]
Defeated Abellatif Fatihi (Morocco) KO 1
Defeated Anatoly Klimanov (Soviet Union) 5-0
Defeated Ottomar Sachse (East Germany) 5-0
Defeated Janusz Gortat (Poland) 5-0
Defeated Sixto Soria (Cuba) RSC 3

アリ(1):
ーアリは調整不足にみえた。体がたるんでいてなめていた帰来あり。終始「ロープ・ア・ドープ」戦法。スピンクスは構わず打ち続けた。プロ8戦目、若々しく溌剌としたラッシャーぶり。左右フックからロープに詰まりっぱなしのアリに強引にパンチを叩きこむ。
ー最終回、アリは逆転ノックアウトを狙い猛反撃。しかし倒せず。判定は明らか。スピンクス、生涯最高の瞬間。五輪金からスーパースターアリを破る快挙。横でマイケルが大喜びで手を叩いて嬉しがっていたのがなつかしい。
アリ(2):
ースピンクスは「おカネ」の問題で私生活が乱れていた。調子は決して悪くなかったけど。アリの「頭脳」「作戦」「経験」勝ち。
ー往年を彷彿させる「蝶の舞」で15回戦った。ロープにもたれて休まず、足も止めない。スピンクスが入ってくるところへ左フックのダブル、トリプルを叩き込み迎撃。
ー当時の36歳は若くない。おまけにアリはすでに晩年。最後の輝きをみせた一戦。一方スピンクスは「契約」がらみの「何十億」単位のカネ問題でもめにもめ。ボクシングに集中できなかったのが気の毒でならない。大差の判定でアリ、タイトル奪回。
アルフレド・エバンへリスタ戦:15勝(13KO)4敗「スペインのロッキー」
ースピンクスは5戦目。落ち目だったとはいえかつてアリに善戦し、ホームズにも挑戦した歴戦のアルゼンチン出身のタフガイ。ただ当時に比べてキン肉がおちたな。そんな感じだった。
ースピンクスは初回からいつものラッシャーの本領発揮。ガンガン打っていく。エバンジェリスタは元気がなかった。スピンクスはコーナーに詰め猛連打。フックがチョップ気味になるのが気になったけど。5回ノックアウトで圧勝。
ゲリー・コーツイ戦:
ーコーツイは実力者でした。それに「アパルトヘイト」(人種隔離政策)反対者だった。ジョン・テートとの決定戦に破れ、マイク・ウイバーにも13回逆転KO負け。マイケル・ドークスを10回KOで破り「三度目の正直」王座に就く。初防衛戦のペイジ戦はいわくつき(ペイジのゴング後の加撃と8ラウンド「3分48秒」ノックアウト)。
ー初回、スピンクスは調子よかった。いい打ち合いになったなと思った途端コーツイの右フックが炸裂。大きくぐらついたところへ猛連打。ロープ外に上半身をつんのめる形で痛烈なダウン。立ち上がったところへもう一撃。仰向けに倒れテンカウント。しかしこの1敗はいわゆる「ラッキーパンチ」的な色合いも強かったので。その後のキャリアにそれほど影響しなかったようにみえた。コーツイの見事な初回KO勝ち。
Professional career[edit]
Spinks debuted professionally on January 15, 1977 in Las Vegas, Nevada, beating Bob Smith by knockout in five rounds. His next fight was in Liverpool, England, where he beat Peter Freeman by a first-round knockout. Later, he saw an improvement in opposition quality, when he fought Pedro Agosto of Puerto Rico and knocked him out in round one. He then fought Scott LeDoux to a draw and defeated Italian champion Alfio Righetti by a decision.
ラリー・ホームズ戦:10勝(8KO)2敗2分け・スピンクス最後の全盛期ファイト
ーこの試合、実は痛恨の思い出から。録画放送、夜だったので楽しみにしていたところ。うちのおふくろが「38連勝だっけ」などと口にして「なんだよお~!!」っと兄と二人で激怒した(笑)。そういう素人のなにげない「一点」で結果がわかってしまう「マニア・ヲタ」みなさんなら分かってくれると思います。
ーホームズはちょうどこの試合が最後のベストファイトだったんじゃないでしょうか。これ以降、だんだん衰えがみえてきた。スピンクスを応援してました。夢よもう一度。
ー初回からいつものラッシャースタイルでどんどん前にでたスピンクスはホームズのジャブを的確に外していた。上体もよく動き、絶好調。ただ有効打を打ち込むまでいかないうちにつかまってしまう。ー迎えた3回、ホームズの右ストレートがまともに命中。コーナーに詰まったスピンクスに右のつるべ打ち。左はよけていたけど右が盲点だったのか。打ち下ろしの右が立て続けに炸裂。がっくりと崩れ落ちて試合は終わってしまった。
ホームズの圧勝、14度目の防衛に成功。強かったですねホームズ。
First Ali match[edit]
Now a lower ranked contender, he made history on February 15, 1978, by beating Muhammad Ali on a 15-round split decision in Las Vegas. Spinks won the world heavyweight title in his eighth professional fight, the shortest time in history. The aging Ali had expected an easy fight, but he was out-boxed by Spinks, who did not tire throughout the bout. It was one of the few occasions when Ali left the ring with a bruised and puffy face.
Spinks' victory over Ali was the peak of his career. He was the only man to take a title from Muhammad Ali in the ring, as Ali's other losses were non-title contests or bouts where Ali was the challenger. Spinks' gap-toothed grin was featured on the cover of the February 19, 1978 issue of Sports Illustrated.
However, Spinks was stripped of his world title by the WBC for refusing to defend it against Ken Norton, instead agreeing to a return bout against Ali to defend his WBA crown. The title, stripped from Spinks, was then awarded to Norton.
カルロス・デ・レオン戦:クルーザー級転向戦
ースピンクスはもともとL・ヘビー級の金メダリストだった(アリもそうだったけど)。ヘビー級ではそれほど体は大きいほうではない。だから1階級降りるのはちょうど衰えてきたのもあったので。いい選択かな。期待していました。
ースピンクスのラッシャースタイル最後の試合となった。デレオンは巧い。スピンクスが突進してくるのをうまくいなしながら得意の左ジャブ、ストレートをヒットさせる。スピンクスはそれが邪魔でなかなかロープに詰められない。
ー体はデレオンの方が一回り小さい。けどパンチは実に正確でジャブだけでなくいろんなコンビネーションを叩きこむ。だんだんじり貧になってきた6回。ダウンを奪われそのままストップ。スピンクスの完敗。デレオンはきれいないいスタイルのボクシングしていました。
The Ali rematch[edit]
His second match with Ali, at the Louisiana Superdome on September 15, 1978, went badly for Spinks. A now in-shape Ali—with better, sharper tactics—rarely lost control, winning back his title by a unanimous fifteen-round decision. Ali regained the title, becoming the first three-time heavyweight champion. Spinks was never given a rematch; Ali retired after the fight (although he came out of retirement a few years later to fight Larry Holmes and Trevor Berbick). Spinks during his final victory held at the "Little bit of Texas" in St.Louis
Spinks's next fight, his only one in 1979, was at Monte Carlo, where he was knocked out in the first round by future WBA world heavyweight champion Gerrie Coetzee. In the following fight, Spinks defeated former world title challenger and European title holder Alfredo Evangelista by a knockout in round 5. He fought to a draw in with Eddie López, and beat the WBC's top-ranked challenger, Bernardo Mercado, by a knockout in round nine.

ドワイト・ムハマド・カウィ戦:クロンク傘下でボクサースタイルに変身:
ー17勝(11KO)4敗2分け、前哨戦で中堅選手を6回KOで倒し健在振りをみせたスピンクス。今度は新設のJ・ヘビー級で最後の世界戦。試合前の減量ですでにへとへとだったらしい。まるで「抜け殻」のようなスタイルだった。ジャブを突いて旋回するけどカウィは構わずガンガンでてきて強打を浴びせる。
ー4回、スピンクスの左フックから右ストレートが炸裂。カウィはびくともせず、おちゃらけてケツをふりふり顎をだして小バカにする。スピンクスは圧倒され後続打がでない。そこでカウィは俄然猛攻にうつりロープ際で滅多打ち。
ー6回までワンサイド。最後のフィニッシュはコーナーに詰められ「岩石」パンチを立て続けに食らい無防備になったところでストップ。スピンクスは完敗。これ以降「噛ませ」的存在になってしまう。
The Holmes title fight[edit]
His strong performance against Mercado earned Spinks a title match against Larry Holmes. In Spinks' only fight in 1981, and what would be his last chance opportunity at the heavyweight title, he had a clear loss by a TKO in the third round at Joe Louis Arena in Detroit on June 12.
ホセ・リバルタ戦:
ーリバルタもすでに峠を越えた選手。ながらまったく相手にならずあっという間に3度倒され初回KO負け。かつてアリとの初戦。いきのいいラッシャーぶりに痺れたのが遠いむかしに感じられ悲しかったです。
Changes weight division[edit]
It was Spinks' last heavyweight bout for years, as he began boxing in the cruiserweight division. He beat contender Ivy Brown by a decision in ten rounds, and a gained a decision against former and future title challenger Jesse Burnett in twelve rounds.When his brother Michael Spinks defeated Larry Holmes in a controversial upset for the IBF heavyweight championship in 1985, they became the only brothers to have held world heavyweight championships. They kept the distinction until the Klitschko brothers became champions two decades later.In the 1980s Leon Spinks competed in several boxer vs. wrestler matches in New Japan Pro Wrestling, including losing by submission to Antonio Inoki. In 1986 Spinks earned his last championship opportunity, fighting Dwight Muhammad Qawi for the WBA cruiserweight championship. Qawi had been defeated by Michael Spinks three years earlier for his WBC light heavyweight championship. However, Leon Spinks lost by TKO in the sixth round. During the fight, Qawi taunted Spinks as he beat him mercilessly in a corner.
Spinks boxed for another eight years with mixed results. In 1994 he lost a bout by KO to John Carlo, the first time a former heavyweight champion had lost to a boxer making his pro debut (promoter Charles Farrell later admitted to falsifying Carlo's record in order to get the fight sanctioned by the District of Columbia).[2] Spinks retired at age 42, after losing an 8-round decision to Fred Houpe in 1995, who was coming off a seventeen-year hiatus.