boxingmaniaayalaのブログ

ボクシングマニア・悪童アヤラのページ

下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

☆地下鉄=iPod観戦記☆Merry Christmas☆

こんばんは。


最近いそがしくてなかなか更新できず、すみません。でも「ボクシング」のことは、何をしていようが1日平均「20~30%」は考えてますので(めしより’好き’ではなく、「めし」と’おなじ’=体の1部(笑)。


今日は地下鉄でジャクソンVSマクラレン(1・2)を見ていた。やはり悔しいし悲しいですね・・・永遠の思い。


解説でアマ時代・88年、全米ゴールデングローブ選手権の準決勝でロイ・ジョーンズに判定勝ち。金メダル。けど「ソウル五輪」には選ばれなかった。


おそらくムガビとやる前後。ハーズンとのEXをみました(Youtube)でたくさんでてくる。わたしが思うに、クロンクは「2つ」のスタイルがあると感じます。


1、ハーンズ=左ガードを下げてフリッカージャブを打つ。兄弟子ヒルマー・ケンティ、スティーブ・マクローリー、デュアン・トーマス、、ダーネル・ノックス(ハーンズVSキンチェンのセミでホープ対決。ナンに4回TKO負け(顎を骨折・引退、ジミー・ポール辺りがその系統。新しいところではサウスポーながら、わがカナダモントリオールのスティーブンソン(故スチワート、最後の弟子=「一発パンチの破壊力はNO・1」といってました)。生えぬきじゃないけどレノックス・ルイスも似ていると回想。


2、マクラレン(デビュー当時はもっとハーンズ型で左ガードは下げていた)=ガードをがっちりあげて、いわゆる「めつぶし」的な要素なしにしっかり打つ。マイケル・モーラー(サウスポーながらこっちのスタイル)、ト二ー・タッカー、ミルトン(はちゃんと両手を高く上げていた)などなど(また思い出したら入れますね☆)。ハーンズ型みたいに「バランス」をくずさない。どっしり構えてどんどん圧力をかける。


ハーンズとマクラレンのEXだと、本当に違いがわかる。ハーンズはちょっと前かがみな感じで、まさにフリッカーで放つ(バークレーに負けてからガードをあげるようになった)。一方、マクラレンはしっかりブロックして、強いジャブ(ラリー・ホームズにタイプはちがうけどストレートは近い)。ハーンズはどちらかといえばアリスタイルが濃いのでは(ただアリは「ボディー」は攻めなかった)。


2人の「右」は左と同じでタイプが異なる。ハーンズのはまさしく「閃光」「切れ・鋭さ」鞭のような右。マクラレンは打ち下ろしで、伸びがあって重たい。スピードはハーンズ(クロンクでも一番速いと観察)だけど、そのぶん「手打ち」(ハーンズはロープに詰めるとかなり手打ちになる)がないから一発一発ズシン、ズシンと響くよう。双方、ボディーブローが実に有効(マクラレンの連打は必ず左右、まんべんなく組み込まれて出す)。


レバーブロー一発で沈めた試合も多かった=初防衛戦、ベル(わずか30秒・ジャクソンの58秒(イスマエル・ネグロン)を更新)、ジャクソン(2)、2度目のダウン。


クロンクスタイルはむかしから大好き。強くてスピードがある左ジャブをどんどん繰り出す。ストレート主体で長い距離からの左右アッパー、そして「ボディーブロー」。


クロンクが「陽」なら「ダマト」は「陰」


むかしのタイソンも何がたまらなかったかといえば。スピード・防御重視・攻防一体・左から入る、頭をふる(それも「ハノ字」と普通のウィビングをもりまぜる、感のよさはむろんながら「反復練習」の成果)、足と上体は常に動かしきめ細かい。ワイルドなコンボもけっして「ムチャ」打ちでバランスを崩したりしない。


まず当てさせなかった。あのトニー・タッカー戦で初回はじまってすぐ、タッカーがロープ際から炸裂させた左アッパーのカウンター。あれだけ=次はブルーノ(1)、初回右ストレートを食って、左フックのカウンターでバランスを崩してロープに詰められて連打を浴びた。それからはもう多少打たれてもっていうボクシングになっちゃいました(もうぼくは「別の選手」と考えながらみてしまう=「ないものねだり」)。


それほどダマトスタイル、精巧に組み立てられていた。「基本中の基本」実に古典的クラシック。ルーニーも強かった。この間、アルゲリョ戦をみたけど。タイソン以上に「ダマトスタイル」でした。パワーもあった。負けた後、インタビューで「また帰って来る」といってた(ラスト・ファイト=すでに半トレーナー)。


そんなこんなで。まだ仕事から帰って来て、そのまま。カナダは昨日、今日は少しあたたかい(-2~3℃)。その前はずっとー20℃以下が続いてて寒かったです(苦笑)。もう30年近く北国の人間。「東京」日本時代は夢のまた夢(笑)。 シャワー浴びて、さっぱりしてきますね☆ メリークリスマス
アヤラ 香川さんの大好きな言葉=「ボクシングがない人生なんて考えられない」まさしく(^_-☆


Mike Tyson・永遠の「ダマト・タイソン」

みなさん、こんにちは。


昨日は通勤中iPodで「タイソン」みてました。

VSミッチ・グリーン(判定勝ち):
ーこちらも倒せなかったけど。タイソンの魅力と19歳にしてあの完成度。あらためて、ほれぼれしてしまいました。ほんとうに「打たせ」ない。上体を非常にいそがしく動かし、体重移動とスイッチ。こういったのも後年はなくなってしまった。バランスを絶対崩さない。
ー突き刺すようなジャブとストレートがよく伸びていて、どれも速い。

タイソンVSグロス(2回KO勝ち・2試合ぶりのノックアウト・18勝(12KO)4敗)
ーカマチョVSロサリオの前座。グロスはバート・クーパー(14連勝(11KO))を倒して初黒星をなすりつけたばかり。タイソンは快調だった。左ジャブはほんとうによくのびる。そして「スピード」があった。すべての動きがまんべんなく行われている。ガードをがっちり固めて。ジャブから入る。頭は必ず打つ前、後にふる。ロープに詰めて右ボディーの連発。すかさずアッパーを返す。ーなつかしいかぎり。スイッチもバランスよく、同じコンビネーションがでる(スパーでも「サウスポー」スタイルでかなりやっていた)。グロスの強引な連打をことごとくかわし、左フック一閃。カウンター。これで決まり。マクニーリーとやった試合なんかと対照的。足が揃い上体が突っ立つ傾向(むろんブランクのせい)。パンチは相変わらず破壊力満点でしかも切れていました。けど、「ダマトスタイル」とは無縁のボクシングになってしまっていた。上半身の動きがない。
1番よく見直す試合、
タイソンVSボイド(2回KO勝ち・16勝(9KO)1敗(この後「負け越して」ます)
ージャブが鋭くまた速かった。突き刺すように何発も放つ。相手のジャブはすべてハノ字の動きで、紙一重で外す。スイッチも有効で左右両方、おなじコンビネーションが打てた。得意の右ボディーからアッパーの連続で倒した。快勝でした。ラドック(2)あたりで「中間距離」でのったら、モタモタ戦ってるのが悲しかった。残念です。
タイソンVSリバルタ(10回ストップ勝ちで27連勝(25KO):
ースピンクス戦(最後の「ダマトスタイル」)のときと比べると。「ピーカブー」の構えも肘がしまてっていてボディーもがっちりブロックしている。ダグラス戦、「前」「横」が妙にすかすか開いているガードになっていた。
ー「ジャブ」から入るが徹底され、同時に「頭をふる」も忘れていない。後年のタイソンを思えば「スタイル」「ボクサー」としてはほんとうにすばらしかった。
ー何が変わったのか?「ナンバーシステム」がめちゃくちゃになったのだけではなく。「連打」「強打の連続」がなくなった。豪快に右ボディーからアッパー、左フックからまた右・・・こんなコンビネーションは影を潜めてしまう。パンチのふりが雑になり、威力・スピード・切れも少し落ちた(ブルーノ(1)・ウイリアムス戦)。
ー「右」をやたらにふりまわす「ヘッド・ハンター」の傾向もみえる。力でなぎ倒すような打ち方(ティルマン戦など)。

VSラトリフ(2回KO勝ち):
ー絶好調だった。ややワイルドだった(しかしその分迫力はすさまじかったけど)リバルタ戦より格段に鋭く、スピードあふれる。「オーラ」が違いました。まさしく「みえない」ほど速い動きと強打。初回中盤、ロープに詰めてすかさずスイッチにして豪快な右フックをふるう。返しの左フックから「強打の連続」。ラトリフは逃げるのに必死だけ。2回は、またロープ際、左ジャブとストレートにはじけるように力強く鋭いパンチでぶっ倒した。精巧に組み立てられていたスタイルがなつかしかぎり。
VSバービック(2回KO勝ち・初戴冠・20歳):
ーこの試合はさすがに「緊張」して固く、連打もいささか雑だったといわれていた(それでも例えば「ラドック」戦の頃とは’根本’がちがう=べた足、上体のふりもない、バランス悪し、連打が出ない一発ばっかり)。それでも2回、はじまるなや3~4連打組み合わせ、右フックでダウンを奪った。後年のホリーフィールド2(ベストの217ポンドながら手数とパワーがちがう。ワンツーと単発の左フック、いきなり出す右ストレートで終わってしまう)なんかを思い出すと悲しいだけ。かするような左フックで片づけた。衝撃の新王者。誰がきても相手にならない。すごい選手がでてきたとひたすら歓喜と感心だった。
VSティルマン(もはや下り坂)
ー手足の動きがばらばら。全然足が前に出ない。またウエイトも「219」(タップス戦「217」)。筋肉の「つき方」がかわった。「体型」が別になった(ダマト時代の練習はなんとも「あっさり」したものにかわってた)。首はそげ、胸が厚くなった。もちろん練習して鍛えあげた見事のボクサー体型。ジャブも伸びがなく、ガードも低い。頭もふらないから往年のティルマン得意の「右」クロスカウンターをまともに食らった(あんなことは「ダマト」時代には考えられなかった)。回り込まれてバランスを崩したりも。足が動かない。踏み込みも鋭くない。右フックをぶんまわす感じがもっと多くなった。最後のKOパンチもそれ。
*タッカーが仇敵についていったことば(1992)。「タイソンのトレーナーはルーニーがいいと思う」。むろんわたしも「ボクシング」としてはいまだに悔しい。ルーニーの人間性が問題でしょうね(だらしなく、素行も悪い)。
VSスチワート(24勝(全KO)1敗・初回KO勝ち・再起2戦目)
ー首が細くなった。相変わらずバランスもよくない。これこそ「一発強打」で沈めたような試合。ジャブもなくなり、パンチも足の動きともうひとつ合っていなかった。あのまま続いたら苦戦していたはず。

VSラドック(1)モントリオールのホッケー会場・大スクリーンでみた:
ー6回、ストップ前、最後の連打まで単発だった。足がでない。べた足。左に頭をふり、がっちり顎を防御してラドックの左をうまく防いだ。調子は悪くない。けどボクシングが’混乱’していた。やっぱり「トレーニング方法」と「トレーナー」が変わってしまったのはタイソンの場合、大き過ぎた。まさに往年のヘビー級。デカイ奴の殴り合い化が見え隠れ。
VSラドック(2)判定勝ち:
ー胸は一層厚くなったけど首はもっと削げた。第一戦とほぼ変わらぬ展開に感じた。タイソンは振りまわすパンチ。スピードと威力は申し分ないにせよ。バランスがよくない。左ガードをおかしな感じで下げていて、危なっかしい。「破壊力」を武器に打ち込むスタイルになった。「連打」は出なかった。この試合は「ボディーブロー」を多様。有効だったが、中盤から中だるみの傾向。足をとめたまま。中間距離で一発一発の強打を叩き込んでいた。ラドックはよく倒されなかったと思う。またタイソンも初戦以上に打たれた。一般受けする「派手な」どつき合いのような様相。
ールーニーが後年いっていた「いまの彼はパンチャーに過ぎない。頭もふらず上体の動きもない。もし彼に打たれたら倒される。でもあなたが当てたら逆にノックアウトできるでしょう」。そのとおりではなかったか。小泉氏が「自由への逃走」といっていた。しかし「ダマトスタイル」にかわるボクシングはできあがっていない。同意します。
ースタイルの混乱は顕著。ダマトが生んだ「最高傑作」からは遠く離れてしまい。さびしかったです。
VSボタ(5回KO勝ち):
ーこの試合は例の「耳かみ」ブランクを終えてでてきた第一戦。この試合辺りから「ダマトスタイル」に戻ろうという意志が感じられた。けどいかんせん、「体」がついていかない(再重量の「223パウンド」)。かつての「きめの細かい」「精密機械」のような’理論’にもとづいての基本は’スピード’といそがしく「うごきまわる」こと。右の一発でしとめたのはさすが。「一般」になじみやすい「スター」になったのはうれしかったにせよ。
VSホリーフィールド(1):
ー調子は悪かった(この時点で最重量の「222」が気になったが図星)。初回ゴングと同時につっかけて右ストレートを命中させる。これだけ。手数が少ない。5回、左フックがカウンターになりチャンス。右ストレートの打ちおろしをつなげ。ひさしぶりの「十八番」右ダブルが炸裂。ここで出れなかった。もう「ジャブ」から入り「頭をふる」時代のタイソンは過去のものと考えるようになった。あと「強打の連続」も加えてです。
ーちょうど「スタイル」が=1、スピンクス戦まで2、ラドック(2)3、この時代(4)、ダマトスタイルへの回帰。個人年代別にしてみました。
やはりさびしい。

Sumo Scandal=「綱に訊け?」(ビックコミック・スピリッツ)相撲界「八百長」問題について

また一般ブログから。結構衝撃を受けました。
2016/10/25 19:46
はじめに:
 私は幼少時より「相撲」の大ファンであり、日本時代の少ない「楽しみ」のひとつでありました。小学校に入る前ころ、一度だけ旧蔵前国技館に見に行ったことがある。後ろの方の席だったけど。「化粧まわし」もきれいでやはり興奮してみたものでした。「廃業」してプロレスラーになってしまった輪島関が大贔屓。
―しかしアメリカに来た頃、偶然仕事場においてあった「週刊現代」で八百長関連のすっぱ抜き記事を読んで以来。すっかり疑惑と不信の目で眺めるようになってしまった。
―「概要」は下にゆずるとして覚えているのは当時廃業した元横綱「双羽黒」(北尾光司=「スポーツ冒険家」「綱に訊け」(ビッグコミック・スピリッツ=読んでました(笑)「プロレスラー」「空拳道空手」から「リングス」「K1?」)の元付け人。上山という三段目力士の証言を匿名の現役幕内力士が是非を問う。そんな形式の記事で衝撃は大きかった。
まず当時の理事故双子山親方(先代若乃花)は「八百長などあるわけがない」と一蹴。そこから展開されていった。
 1、 千秋楽で7勝7敗の力士が勝つのは「同情」なのか?
 「そんな同情で負けてくれるような甘い世界じゃありません。すべてカネです」
 2、 支度部屋のトイレで付け人が交渉する?
 「これも上山のいうとおりです。支度部屋のトイレでやることが多いんです」。
そんなこんなで近年は「賭博」もまじりもはや「国技」などとよべるしろものじゃなくなってる感がつよい。欧米でもファンは少なくないので結構特集されていた。
虐待と暴行殺人:
それよりあまりに痛ましく廃刊になった月刊日系紙にも投稿したのは「17歳の少年虐殺事件」に関して。被告故山本順一(元小結双津竜・巨体で「象さん」という愛称。好みの力士でした)はじめ「おえらいさん」(故北の海もふくめ)たちがことごとく「うそ」を平然とついていたこと・・・。まるで「戸塚ヨットスクール」だな。真相を知ってそれらを「密室」「無法地帯」での「人権侵害」「暴行・虐待」として記事にしました(むろん所持していませんし、おそらく発見できないのは他といっしょ(苦笑)。
 「かわいがり」でもなんでもない単なる「拷問」「リンチ」に過ぎない。加えて元横綱千代の富士(九重親方=平年寄りに格下げ)の部屋でも「空気銃」いじめがあったなどなど・・・。
まあ、これについてはどうにもならんのでしょう。もともと「一般庶民」がそうは簡単に入れないようなものを「国技」とは呼べないと思う(「升席」だとかの‘値段’たるや・・・くわえて‘コネ’でもない限りまず「ムリ」)。要するに「旧皇軍」「自衛隊」「相撲界」「戸塚ヨットスクール」すべて同列の「無法地帯」としかいいようがない(あくまで独論・毒舌に過ぎず)。
―ひとつ関連で「ルポ」を。日本で「英語教師」をしていたアメリカにしろカナダにしろ「白人」教師たちは「升席」に‘ご招待’されて満喫した方も少なからず(直接談話を聞いた)。
これも「日本的現象」のひとつなんでしょう。


概要[編集]
大相撲の八百長とは、主に本場所での取組で力士同士が白星を金で売買する故意の敗退行為である。携帯電話のメールでやり取りしていたとされ、勝ち負けのほかに取組での具体的な戦い方の内容についてもやり取りしていたとされるもので、数十万円の金銭がやり取りされたと報道されている。実際の取組ではメールのやり取り通りの内容になったことが明らかになっている。前年2010年に起きた大相撲野球賭博問題の捜査において、賭博に関与した力士から証拠として押収した携帯電話のメールを調べていて、発覚した問題である。大相撲の八百長に関する疑惑は、週刊ポスト(小学館)が「角界浄化キャンペーン」と称して元力士の告発などの形態で1980年代から30年にわたって報じており、週刊現代(講談社)も後の2008年になってこれを取り上げるなどしてきたが、相撲協会は一貫して八百長があることに関しては否定し、週刊現代に対しては複数の協会員が訴訟を起こし、勝訴した(2011年以前の八百長疑惑問題については八百長#大相撲も参照)。発覚当日の理事長による会見でも「過去には八百長は一切なく、新たに出た問題」と発言している。前年に発覚した野球賭博などの賭博罪と違い、大相撲の取組で力士が八百長行為を行うことは直接には法律に違反しない[注 2]。八百長が疑われた取組で賭博が行われば賭博容疑で捜査となるが、この日明らかになった取組では賭博行為は見当たらなかったとされている[1]。しかし2月3日に枝野幸男内閣官房長官は記者会見で、この問題が起きたことで日本相撲協会の公益法人化[注 3]に難色を示す発言をしており、公益認定等委員会を所管する蓮舫・行政刷新会議担当相も「公平なルールで競技が行われないのでは、公益法人認定の要件を満たしているとは言えず、現段階で(公益法人認定は)厳しい」旨の発言をしている[2]。この問題を受けて、相撲協会は発覚した翌月に行われる春場所(大阪場所)中止を決定した[3]。
八百長問題に関する各界の反応[編集]
政界[編集]
本問題は国会などでも取り上げられ、前述の枝野、高木らの他閣僚、政府内からも厳しい声が相次ぐ。
 菅直人内閣総理大臣は、2月3日の衆議院予算委員会において、自民党議員の斎藤健の質問に対し「八百長があるとしたら、重大な国民への背信行為だ」と述べた[41]。また3月の春場所での内閣総理大臣杯授与を見送ることも検討[42]していたが、春場所中止により自動的に見送りが決まった。
 江田五月法務大臣は2月4日の記者会見で「大相撲とは興行でもショーでもなく、ガチンコ勝負をみんなが手に汗を握って見るもの。本当に見たくない景色を見ている感じだ」と批判した[43]。北沢俊美防衛大臣も「横綱ら上位は外国人力士で、下位の日本人力士が八百長をしていては笑い話にもならない。相撲協会挙げて徹底的に改革してほしい」と日本相撲協会に対し改革を求めた[44]。
 石原慎太郎東京都知事は2月4日の定例会見で、八百長疑惑について「相撲はそういうもの。昔から当たり前のこととしてあった」と自らの持論を展開しており、相撲界の現状を「日本の文化、伝統を踏まえた日本の文化の神髄である国技だというのは、ちゃんちゃらおかしい」と批判した[45]。さらに、かつて就任を要請された横綱審議委員を固辞した経緯を話した[46]。
有識者[編集]
元NHKアナウンサーで、東京相撲記者クラブの会友である杉山邦博は「これまでの不祥事とは次元が違う。大相撲の存立に関わる問題だ」と、八百長問題を厳しく批判している[47]。日本相撲協会の元外部委員の漫画家のやくみつるは「放駒理事長は『過去に(八百長は)一切なかった』というが、その根拠はまったくない」と厳しく批判[48]。ちなみに、スティーヴン・レヴィットシカゴ大学教授が1989年から2000年までの取組結果を分析したところ、7勝の力士と8勝の力士が千秋楽で当たった場合、7勝の力士が勝つ率は80パーセント近くだが、千秋楽でない場合は50パーセント弱に落ち込むという[49]。ヘヴィメタルロック歌手のデーモン閣下は自らのブログにて、八百長メール問題が発覚した2011年2月2日を「日本相撲協会『最悪の日』であった」と断じ、更に大相撲関係者の中に『その最悪たる事態の意味が理解出来ていない者もおる』と指摘している[50]。アメリカ合衆国の旗米国ABCテレビプロデューサーのデーブ・スペクターは、2月3日付のサンケイスポーツにて「現代のテクノロジーにやられたといえる。メールならば消去するなど、証拠隠滅する方法はいくらでもあった」と指摘した[51]。ビデオジャーナリストの神保哲生は、前年の大相撲野球賭博問題に際し、裁判所の令状は賭博に関する証拠押収だけを認めているのであって、警視庁がそれ以外の情報を押収した携帯電話から抜き出すことは違法であることを指摘している。にもかかわらず、それが八百長というショッキングな内容を含んでいるが故に誰もそれを問題にしていないという点において、沖縄返還協定密約をリークしながらスキャンダルな女性関係に関心が移ってしまった西山事件を思い出したという[52]。社会学者の宮台真司は、(前述のような)違法な情報開示に関し、警視庁および国家公安委員会が「公益性の観点から問題ない」としたことについて、法律ごとに公益性とは何かを構成要件という形で規定するのであって、単に公益性なるものを法律と無関係に持ち出して議論すること自体が行政官僚制にはありえないものであり、同制度の劣化が著しいことを指摘している[53]。
日本国外[編集]
この問題は日本国内のみならず、日本国外でも大きく報道されている。
イギリスの旗 イギリスの大衆紙インディペンデント電子版が2月3日付で「明かされたスモウレスリングのダークサイド」の見出しで紹介、長文で報じた。またデイリー・テレグラフは「Sumo in Crisis」と表現している[54]。
アメリカ合衆国の旗米国のABCテレビは「賭博問題から1年もたたずに、新しい問題に直面した」と報道[54]。またウォール・ストリート・ジャーナル電子版は2月6日(現地時間)付で、春場所の中止決定を「史上最大の危機」との見出しで報じている[55]。出身力士の活躍などで相撲への関心が高まっていたロシアの旗 ロシアでも、春場所の中止について、コムソモリスカヤ・プラウダ電子版が2月6日付で「日本社会に衝撃を与えている」と伝え「相撲が単なるスポーツではなく、文化と伝統の名残と見なされている日本では、八百長スキャンダルは大きな反響を巻き起こしている」と解説。またタス通信も2月5日付で「日本社会の怒りを招いた」と報じた[56]。モンゴル国の旗国営モンゴル放送で解説者兼通訳者を務めたムンフバト・バルジルによると、朝青龍、白鵬、安馬(現日馬富士)が優勝を競った2008年ごろには夕方の中継時間帯に「地方政府庁舎から人影が消え、議員が離席するため国会審議も一時中断した」ほどの人気があった。しかし2014年7月時点では中継するテレビ局も当時の7社からウランバートル放送ただ1社に減ってしまった。元小結・旭鷲山は「八百長問題が最大の原因」と断ずる。モンゴル大相撲協会の会長も務める旭鷲山は「日本の相撲は正義の取組だと信じていた国民は本当にがっかりした。人気は50%以上急落した」と話す。[57]ほか、米国のニューヨーク・タイムズ、フランスの旗 フランスの新聞「ル・モンド」、韓国の旗 韓国のスポーツ新聞「韓国スポーツ」等が詳しく報じている。
相撲協会以外の対応[編集]
八百長問題を受け、日本相撲協会以外でも対応に追われている。相撲協会は2011年2月8日、全ての力士、親方らのテレビ出演やイベント活動などを当面自粛することを決定している。すでに収録済みのテレビ番組についても出演場面を可能な限りカットしてもらうという異例の対応となる[58]。
メディアの対応[編集]
NHK[編集]
NHKは、松本正之会長が2011年2月3日の定例会見で、2月11日に両国国技館にて開催を予定していた『第44回NHK福祉大相撲』興行の開催中止を発表した[59]。春場所の中継についても、松本会長が「極めて重大な問題」として、中止の可能性もありうることを示唆していた[60][61]が、2月6日の日本相撲協会の臨時理事会で開催中止が正式決定されたことを受け、中継自体も自然消滅した。八百長問題発覚の2月2日から2月3日までに、NHK視聴者コールセンターに430件もの厳しい声が寄せられた。このうち半数は「許せない」「場所の開催をやめるべき」などで、残り半数は「中継すべきでない」というものだったという[62]。なお、NHKでは2011年度に衛星放送が3波から2波[注 19]への再編により、BS2の大相撲中継を2010年度で終了することから、春場所が予定通り開催で中継があればBS2で最後の中継になるはずだった。しかし春場所中止が決まり、2011年1月の初場所がBS2での最後の中継となった[注 20][注 21][注 22]。春場所中止決定翌日の2月7日には、NHKサービスセンターから発行されている雑誌「大相撲中継」「春場所展望号」の発売が中止となった。同雑誌の刊行中止は1975年の創刊以来2度目で、前年の野球賭博問題を受けて名古屋場所展望号が中止となって以来となる[63]。2月9日には、NHKスペシャルで『八百長はなぜ起きたのか 〜揺れる“国技”大相撲〜』(総合テレビ、22:00-22:50)と題した番組を放送し、この問題を取り上げた[64][注 23]。2月14日には、NHK厚生文化事業団が当初の予定通り、福祉車両5台を老人ホームなどに寄贈することを発表。今回の場合は前述の福祉大相撲の収益はなく、同事業団の創立50周年事業として900万円を自己負担で賄った。ただし「福祉相撲」の文字を入れずに贈呈されることになった[65][66]。また、松本会長は4月7日の定例会見において、夏場所の中止により新たに開催されることになった技量審査場所を中継するかについて「日本相撲協会の話を聞いて最終的に判断したい」としつつも「本場所ではなく技量審査の場なので、中継するのはなかなか難しいと考えている」と、中継について難色を示した。また前年の名古屋場所と同様にダイジェスト版での放送についても明言を避けていた[注 24][67]。NHKは4月20日、技量審査場所の中継は行わない旨を正式に発表し、ダイジェスト版の放送も行わないことも明らかにした[68][注 25]。
民放・新聞・出版・その他メディア[編集]
フジテレビは、同局主催で2011年2月6日に開催予定していた『日本大相撲トーナメント第三十五回大会』の中止を決定した[69]。大会の模様は同局系列とラジオの文化放送で中継される予定だった[注 26]。文化放送では代替番組として『しろバラスペシャル 大相撲たっぷり語ります』を放送した[注 27]。毎年8月に東北・新潟地方で開催される夏巡業のうち、2011年8月8日に秋田県秋田市で予定していた秋田巡業の中止を勧進元の秋田魁新報社が発表した[70]のはじめ、2011年中の全国での巡業が中止ということになった。
ベースボール・マガジン社から発売される日本相撲協会機関誌『相撲』については通常通り発売したものの「春場所展望号」の名称を外し「3月号」として発売された[63]。講談社の『週刊現代』は“偽証で本誌から賠償金を詐取した詐欺罪で相撲協会理事長と当該力士を告訴する”と誌面で声明(2月26日号)[71]。4月19日、北の湖元理事長・竹縄親方・豊桜・安壮富士・十文字の5人を詐欺罪で警視庁に告訴した[72]。しかしこの件に関して告訴状が受理されたとの報道はなく、当の週刊現代にも続報は掲載されていない。
企業各社の対応[編集]
懸賞金[編集]
今般の八百長問題発覚を受け、大相撲の取組に懸賞金を提供している企業(スポンサー)側の対応も揺れた[73]。以下は各企業側の対応。
 永谷園 - 「事態の推移を見守りたい」としているも、開催中止により、大相撲春場所への懸賞金提供を中止。
ニュース証券 - 「稽古に励む力士のためにも応援する姿勢は変わらない」として、春場所開催の場合でも懸賞金提供を行うとしていたが、春場所の中止に伴い行わなかった。
 日本マクドナルド - 「日本の国技であるから、引き続き応援してゆきたい」とコメント。春場所は開催中止のため懸賞金提供を行わず。富士ゼロックス - 「相撲協会側の対応(調査委員会の調査結果など)を見てから判断したい」とコメント。春場所は開催中止のため懸賞金提供を行わず。
テレビCMなど[編集]
八百長問題を受け、力士が出演するテレビCMの放映を自粛する企業も出ている。
 住友林業が、2011年2月5日から放映を予定していた白鵬翔が出演したCMの放映を当面休止することを決定[74]。富士ゼロックスも、1月22日から放映していた白鵬出演のオフィス用コピー機CMの放映を当面中止する旨を明らかにしている[75]。なお、白鵬が出演しているサッポロビールのCMに関して、放送中止の予定は今のところ無し。また、魁皇博之が2011年1月から出演している健康食品通信販売業、エバーライフの「皇潤」のCMについても、問題を受け放映を見合わせている[76]。
自治体の対応[編集]
八百長問題によって巡業が中止になったことを受け、巡業開催予定だった自治体では困惑、怒りの声が上がっている。自治体によっては、相撲協会に損失負担を求める声もあがっている[76]。
 神奈川県藤沢市では2011年4月9日に巡業開催を予定していたが、日本相撲協会からの年内巡業中止決定を受け、勧進元の建設会社社長は「怒りでいっぱいだ。どう表現していいか分からないほどの悔しさがある」と怒りを露にしていた。藤沢巡業は2011年で20回記念となることから、準備も例年以上に早く進めていたという。損害額は1500~2000万円になるのではないかという[77]。
 東京都青梅市で2月20日に開催予定の『第45回記念青梅マラソン』では、横綱・白鵬翔がスターターを務める予定だったが、白鵬側が今般の問題を受けてスターターを辞退した[58][78]。
無気力相撲[編集]
疑惑のあった取組について、日本相撲協会関係者は一貫して「故意の無気力相撲」と呼称しており「八百長」という語句は一切使用したことはない。日本相撲協会は公式見解として八百長相撲という表現は発していない[注 28]。しかし一方で無気力相撲に対する罰則規定を設け、その問題は否定せず、過去には無気力相撲を行った力士に対する注意などをしていた。その後、2011年2月3日に放駒理事長が会見で記者に無気力相撲と八百長は同じものなのかを問われ「無気力相撲=八百長とみなす」旨の見解を示した[79]。
八百長=「国技?」


相撲界では日常茶飯事のように、毎場所半分以上の取組が八百長で土俵を賑わせている。 それを放送しているHNKのスタッフは、当然相撲界の『八百長』の実態を知っているはずだ。相撲の担当記者たちもしかりだ。協会側になんらかの形で脅しをかけられているのか、相撲界で起こっている真実を書こうとしない。これが今の日本のマスコミといわれている集団の実態に思えてならない。国技とまでいわれている相撲界にはびこる八百長相撲。「果たしてこんなことがあっていいのか」という怒りから、微力ながら日本相撲協会内部にはびこるひどい実態を、相撲ファンに知ってほしいと思った。そんな目的で本書を上梓する気になった。 << 元大鳴戸親方著 八百長(相撲協会一刀両断)まえがき | TOP | 八百長 一刀両断 第一章 八百長密議 >>
2011年02月11日
第七章 国民栄誉賞横綱も八百長まみれ
元大鳴戸親方著 八百長 相撲協会一刀両断 第七章 国民栄誉賞横綱も八百長まみれ「親の背中を見て子は育つ」とはよくいったもの。私の部屋の弟子だった板井が八百長の中盆をしていたのも、師匠の私が北の富士の優勝や横綱昇進に絡んで、八百長の中盆の一人だったことを知っていたところから始まったようなものと思っている。八百長で作り上げられた北の富士の弟子である国民栄誉賞横綱・千代の富士(九重親方)。彼もまた、同じように八百長の常連だったのだから困った世界だ。千代の富士は国民栄誉賞まで貰っているが、その虚像の国民栄誉賞を作り上げてきたのは、私の弟子の板井だった。千代の富士と言えば、前人未踏の通産1045勝を達成したのをはじめ、優勝回数は31回と大横綱・大鵬の32回に次ぐ史上第2位、連勝記録も双葉山の69連勝に次ぐ53連勝を記録するなど、数々の記録を塗り替えてきた大横綱である。特にここ一番の優勝決定戦には強く、6回とも制している。しかし、この横綱 の大記録の陰には、板井と逆鉾という2人の中盆が暗躍していたことをここで 断言し、暴露する。 板井が理事会の承認が得られず年寄春日山を襲名できなかったのは、このことが関係していた。 横綱千代の富士が国民栄誉賞を受けた時、当時の親方連中の反応は実に複雑なものだった。中には、「『あいつは注射で塗り固められた横綱だ』と言って、海部さん(当時の首相)に投書してやりたいよ」と本気で怒っていた親方もたくさんいた。自身のもつ32回の優勝記録にあと1回と迫られた大鵬などは、千代の富士が八百長で優勝回数を増やし続けると「いい加減にしろ」と、弟子の巨砲に怒っていたそうだ。 しかし、そういう大鵬も20回以降は注射で勝ちとった優勝。そのころの番付上位の関取や引退して親方になった者の大部分は注射力士だったため、八百長力士を否定することは自分たちのやってきたことを否定することであり、協会や自分の部屋への影響があるので口をつぐむしかない。 二代目若乃花、若嶋津(松ケ根親方)、旭富士(安治川親方)、隆の里(鳴門親方)、五代目朝潮(若松親方)、北天佑(二十山親方)、琴風(尾車親方)などみんな、注射にドップリと漬かっていた関取だ。注射力士で番付を構成していたことになる。注射というのは、建前上、どこの部屋でも親方には内緒ということになっている。私の弟子の板井にしても、いくら注射相撲が決まってもいても、「今日の一番は売ります」なんてことは言わないし、若衆が「走ってきます」などとはいわない。しかし、土俵を見ればおかしな一番というのはすぐにわかる。いってはこないが、聞けば教えてくれる弟子もいる。また橋本さんのようなタニマチには、板井や若い力士が、師匠の私には言えない本音を言ったりもする。その内容を橋本さんから私が聞くわけだから、板井たちのやっていることは大抵把握していた。いくつかの情報を貰ったことで、さらにナゾだった点もわかった。


■橋本成一郎氏の証言
「板井は『大横綱といわれている人間が一番注射が好きだから困ったもんだ。海部さんもよく調べてから贈ってもらいたいものだ・・・・・。政治家の人気取りの手段とはいえ、こういう立派なものは個人戦の種目に贈るのなら、八百長のないアマチュア世界の人にあげるもので、絶対にプロにあげるべきものじゃない。贈られる方が迷惑だ』と自分のことのように怒ってましたね」マスコミも含め、千代の富士が八百長で白星を重ねていたことは、みんなが知っていた。協会の中でも、「八百長で連勝記録を塗り替えるなんて、双葉山に対する冒涜だ」という声が上がっていた。私にもそういう気持ちがあった。千代の富士の53連勝中のことだ。NHKの相撲中継の解説者として番組内で私は、こんなセリフをいってしまった。アナウンサーが、「この連勝はいつまで続くんでしょうね」とつまらないことを聞くものだから、つい、「止めるといってもガチンコの大乃国(芝田山親方)しかいないんだかね・・・・・・・」と生放送にもかかわらず吐き捨てるように答えてしまった。千代の富士からの注射を断ることができるのは、ガチンコの大乃国ぐらいしか思い浮かばないということは、他の親方衆とも話していたので、ついこのようないい方になってしまったのだ。アナウンサーも私のいわんとすることがわかったようで、一瞬気まずい空気が流れた。もちろん一般ファンにはどういうことなのかわからない。おもしろいのはそれ以降、なぜかNHKから解説者としてのお呼びがかからなくなってしまったことだ。最近のオウムとTBSの関係ではないが、NHKと相撲協会の関係はおかしなものだ。このように、監視すべきマスコミまでが、臭いものにはフタをしろという姿勢では、八百長撲滅なんてまず不可能だ。私も、板井とは相撲の話はもちろん、日常会話もほとんどしなかった。というより、こちらからはあえてしなかったのだ。師匠として失格だといわれても仕方ないが、板井が私の現役中のことを知っていたことと、それ以上に板井を実業団からスカウトするときに、「関取になれるここ一番には、ワシが注射でバックアップしてやる」という口説き文句をいったという経緯が、後ろめたさとなって最後まで尾を引いていたからだ。しかし、こんなことは私が特別ではない。注射で地位を気づいてきた親方なら同じような口説き文句をいっている。そのため弟子がやっていることがわかっていても、ハッキリ注意ができないのが実情だ。私が親方として板井にしたアドバイスは「みっともないから、お尻の筋肉の張りだけは保っておいてくれよ」が精一杯だった。注射を覚えると稽古をしなくなる。結果として最初にお尻の筋肉が緩んでしまう。土俵上で塩を取りに行く姿がテレビで大写しになると、尻だけデレーッとしていまい、みっともない。そのためにそれだけは守ってほしいと思ったのだ。ある時期、私のところの板井や逆鉾が中心となり、若嶋津を横綱にしようという動きがあった。私は弟子や橋本さんからそのことは聞いて知っていた。私たちが北の富士を横綱にしようとしたように、自分たちの手で横綱を作ろうとしたのだ。なぜそんなことをするのか。それは、横綱になると大関時代より高い金で星を買い取ってくれる。なぜなら横綱は、負けが込むと引退するしかないからだ。それを防ぐために、無理をしても星を買うので、注射に走ることになる。私がタニマチのところに板井を連れて行こうとしても、板井はまず行こうとしない。これは十万円や20万円しか祝儀をくれないタニマチのお座敷に行って、頭なんか下げてられん・・・・・という意味合いを含んでいる。
■橋本成一郎氏の証言
「板井が言っていたのは、横綱・大関に星をひとつ売れば50万円、60万円になるということ。だから飲み屋街を偉そうに連れ回すタニマチが一人増えるより、注射をする横綱・大関が一人増えてくれる方が嬉しいということでした。つまり、自分たちのタニマチは角界の中にいるんだ・・・・・という意味のことを言ってました。1場所で300万ぐらいになる話をしていましたね」板井たちは角界内のタニマチを増やそうとして、若嶋津に目を付けた。あの男は性格がいい。そこで自分たちのいいなりになってくれると考えたのも無理はない。当時板井は、角界の自分のタニマチ的存在であった旭富士と、ちょっとした行き違いから仲がこじれていたこともあり、若嶋津に目を付けたのだ。若嶋津は昭和59年の大阪と名古屋に2回の優勝をしているが、その頃に彼を横綱にしようという動きが始まった。そういう場合は板井に私が付けていた付け人が動く。そのため弟子の動きを見ればすぐにその意図がわかった。私自身も注射はさんざん経験してきているから、土俵での相撲を見てもすぐわかるのだ。しかし、若嶋津は板井が考えていたほど強くなかったため、結局は失敗に終わってしまった。
■橋本成一郎氏の証言
「逆鉾が若嶋津に負けることになっていた一番で、逆鉾を吊り上げたとき、逆鉾に軽く足をかけられたら、そのまま若嶋津が尻餅をついてしまったので注射崩れになったことがありました。これではダメだというので、若嶋津を横綱にするのを諦め、再び旭富士に乗り換えたという話を、板井から聞いたことがあります。」若嶋津が優勝した2場所は、いずれも千代の富士が休場している場所だ。彼は千代の富士にはまったく分が悪く、千代の富士がいる限り、若嶋津は横綱への道を絶たれたようなもの。その頃の幕内上位は注射力士といわれている力士ばかりだった。私たちの現役時代より、さらにガチンコ力士が少なくなっていた。北の湖は引退直前。千代の富士、隆の里が横綱で、大関が若嶋津、5代目朝潮、琴風、北天佑。その他の幕内上位には、保志(後北勝海=八角親方)や旭富士、巨砲といった顔ぶれ。ガチンコといわれていたのは、大乃国や大錦(山科親方)ぐらい。金さえあれば星はどうにでもなったのに、若嶋津が横綱を断念しなければならなかったのは、いかに千代の富士がわがままだったかということの証明でもある。私たちが現役だった頃は、ガチンコ力士でも、脅してここ一番には注射をうけさせることができた。八百長は野放しにされていたから、8勝や9勝しかあげられない北の富士のような本当は弱い力士でも横綱になれたし、10回優勝することも可能だった。ところが板井たちの時代には、中盆をやっている力士たちはガチンコを切り崩すほどのパワーを持つことができなくなっていた。そうなると、ガチンコでもある程度強くないといけない。千代の富士が優勝回数を重ねたというのは、「どうせ負けるならあの力士に売っておいた方が得」と思わせるような強さがあったからだ。板井にしても、本気でやれば千代の富士と互角で戦えるぐらい強かったはずだ。だからこそ、注射の中盆として千代の富士を牛耳ることができたのだと思う。舛田山が千代の富士の全休明けの昭和58年名古屋場所で、星を売りに行き、 「顔じゃない」と言われて蹴られたことがある。 舛田山は、休場明けには必ず星を買い漁り、復活優勝を飾る千代の富士の 習性に目を付け、相場が50~60万といわれていたのを倍近い90万円で自分から 売りに行ったのだ。千代の富士から話が来る前に、自分のところの若い者を 走らせて、買わないかと持ちかけたのである。 以前注射を断った寺尾を後ろ向きで土俵中央に叩きつけたのをはじめ、自分 に逆らった力士にはめっぽう強いのが千代の富士だ。 「俺に逆らったらどうなるかを見せてやる」 といわんばかりに、手荒い取り口で相手をねじ伏せる。 ところがその場所は、立会いの一瞬に舛田山の引き落としで負けてしまった。 結局、この場所は2敗となり、隆の里に優勝をさらわれることになってしまった。親方衆の間でも この話は有名で、ざまあみろという感じで広まっていた。 私が知る限りでは、千代の富士が買う星の価値は50~60万円が相場で、高くても80万円程度。板井の場合だけが安くて30万円だったと聞いている。これは千代の富士が幕内での星のやり取りを、板井が仕切っていたことへのお礼の意味があったようだ。この頃は、注射力士の方が圧倒的に力を持っていた。千代の富士が53連勝をした当時でも、注射をやらない力士を挙げた方が早いぐらい。安芸乃島、栃乃和歌、花乃潮、大乃国ぐらいのもの。板井が、ガチンコ相撲に固執し、いうことを聞かない大乃国を、包帯を巻いた張り手で何度もノックアウトした。それに関して当時審判部長をしていた九重(北の富士=陣幕親方)が理事長から調べてこいといわれたが、結局は本人には伝えなかった。板井が九重のところの横綱(千代の富士)の手先だったというのは、協会内でも有名な話だったため、私も板井には何も言わなかった。言ったところで聞く耳を持たないだろうし、反抗されるのが怖かったのだ。関取になれば親方はあまり細かいことはいわない。しかしこの場合は、やはり自分が現役時代に同じような立場で、北の富士の手先として働いていたことが私の心の中で大きく影響していたことは事実だ。
■橋本成一郎氏の証言
「板井が大乃国に強烈な張り手をかましていたのは、千代の富士の指示だったようです。最初の1発はたまたまうまく決まって倒れてしまったようですが、そのあとからは千代の富士から張り手1発につき50万円の金を貰い、大乃国戦に勝てば祝儀も出たと板井が話してくれたことがあります。板井は千代の富士との対戦成績が0勝16敗で、完全に軍門に降っていましたが、大乃国とは8勝8敗で天敵ぶりが評価されていたようです。もちろん序ノ口から十両までを5場所で通過という最短記録保持者であるという実力に加え、花乃潮(8勝3敗)や大錦(7勝1敗)などのガチンコに強く、小錦、霧島などの大物食いが気に入られ、注射の中盆役にピッタリだと思われていたようです。最後は千代の富士とはうまくいかなくなってしまったようです。太刀持ちをしても金をくれないとか言って、その頃から大乃国を張らなくなりましたね。千代の富士はもともと嫌いな力士だと、板井の方では言っていましたからね」大乃国が千代の富士をはじめ、多くの力士からあまりにもイジメられていたのが気になり、 私は弟子の一人に聞いたことがある。その弟子が言うには 「大乃国は十両時代に注射をやっていたのに、入幕と同時にいい子になって しまったのが、注射力士たちには気に入らないんだ」ということだった。それで千代の富士が、「大乃国には挨拶するな」と号令を出したりして、支度部屋でもみんなに無視されるようになった。そのワガママ千代の富士の割りを一番くったのが、元横綱・双羽黒(北尾)だ。一度も優勝しないまま、不祥事で廃業してプロレスに転向していった不運な男である。しかし、この男の運命を変えたのも国民栄誉賞横綱・千代の富士だったはず。板井が動くということは、私たちの弟子が動くわけで、その動きというのはちょっと調べればすぐにわかった。当時はあえて聞かなかったが、後で弟子たちに聞くと驚くべきことばかりだった。双羽黒は、昭和59年に入幕してから昭和62年に廃業するまでの20場所で、何度かあった優勝のチャンスも、千代の富士の貪欲な優勝への執念によって阻止されてしまった。私の部屋の力士から聞いた話だが、当時北尾だった双羽黒は、三役に上がる頃は千代の富士に連勝するなど、五分に渡り合っていた。しかしそういう力を切り崩すのがうまいのが千代の富士だ。双羽黒は横綱昇進のかかった場所(昭和61年名古屋場所)で、千代の富士から、「横綱に昇進させてやるから優勝させてくれ」と持ちかけられた。双羽黒がこれを飲んで、成立した本割りでは双羽黒が千代の富士を破り、14勝1敗で決定戦に持ち込んだが、優勝は計算通り千代の富士ということになった。
■橋本成一郎氏の証言
「その前の場所(昭和61年夏場所)では千代の富士と2敗同士の相星で対戦しましたが、その場所では優勝を譲れといってきた千代の富士に対し、双羽黒が『俺にも優勝させてくれ・・』といって話がもつれ、ガチンコで対戦したら千代の富士に負けてしまったのです。だから次の場所は千代の富士のいいなりだったと、板井の付け人が言っていました」この場所の後、計画通り双羽黒は横綱に昇進している。その後も61年九州場所では2敗同士の相星決選で負け。62年初場所では千代の富士に勝って千秋楽で追いついたが、決定戦で負け。62年の九州場所でも1敗で全勝の千代の富士と対戦したが負けている。これらはすべて千代の富士サイドにうまくいい含められて、板井が動いた結果のこと。星買い取りの値段は1000万円だったと聞いている。千代の富士はとにかく優勝回数を重ねたかった。「20回優勝すればシコ名で一代年寄を襲名できるから」というのが本人の口癖で、「うちの横綱はあまり先がないんだから・・・・」という手も千代の富士サイドがよく使ったと若い者から聞いている。そういう話を聞くたびに、昔一緒に注射をした仲間だった親方たちと、「まるで大鵬みたいだな。そういうことをしていると引退してからソッポを向かれるよ」と話したのを覚えている。私たちが現役の頃は、とにかく大鵬が貪欲に優勝回数をかき集めていた。そのときに割りを食ったのは玉の海だった。当時はるかに力が上だった玉の海も、同門の先輩の顔ばかり立てているうちに横綱在位中に死亡してしまった。旭富士が2場所連続優勝をして横綱昇進を決めたとき(平成2年名古屋場所)、板井と逆鉾の指示でうちの若衆がかなり激しく動いた。両国、久島海、安芸乃島、栃乃和歌ぐらいがガチンコで、残りは全部注射に走ったという。1場所で1500万円は使っていたと、私のところの若衆が驚いていたこともあった。1番高かったのは千秋楽で、千代の富士に勝った1番で、2000万円だったと聞いている。優勝のかかった一番では、優勝は横綱より大関にとって値打ちがあるというのを千代の富士は知っていた。大関は優勝が横綱昇進に直結していくから、どうしても高く買いにくる。
■橋本成一郎氏の証言
「この一番は興味があったので、板井や若衆に細かく聞いて知っています。板井が、『千代の富士は商売がうまい』と言っていました。旭富士が連続優勝を飾ったことのきは、旭富士が絶対に買いに来るというのを見越して、千代の富士が1000万円で先に買いに行ったんです。旭富士は相手が1000万円でと言っているのに、自分が同じ額というわけにはいかない。それで多少の色をつけたところ、千代の富士が『倍なら転んでやる』というので、結局は2000万円で転んでもらったと聞いています。金額をいってきたものは値切って、それがダメなら断る。そして、実力でねじ伏せます。それが損だと思えば、値切りに応じなければなりません。板井が、『力と金のあるヤツには勝てない』とボヤいていたことがありました」千代の富士の下では付け人の峰の富士、西の富士、岩の富士というのが動いていたが、この弟子たちは口がうまかったといわれている。断られても、「そこをなんとかお願いします。今場所優勝させてくれたら来場所はそっちのもの・・」といっておき、来場所が来たらまた同じセリフをいったともいう。断ってガチンコで挑んで負けて、次から千代の富士のいいなりになるというケースもよく聞く。あるいは、同じ部屋の北勝海の星で場所内に星を返すということで、相手に納得してもらうということもしていたようだ。
■橋本成一郎氏の証言
 「北勝海は注射が嫌いだったといいますが、千代の富士に利用され、地位が上がっていくに従って、その地位を維持するためには注射をするしかなくなってしまったという話を若衆から聞いたことがあります」彼らが私の部屋の若衆に話していたのは、千代の富士は関脇から大関に上がる時点で、当時出演したコマーシャルで儲けた金を貯め込んでいたという話だ。祝儀もタニマチから1場所に何百万円も集まるし、懸賞金も沢山あった。高砂一門はタニマチが派手で、優勝したときの祝儀が多く、優勝賞金も含めて最低5000万円にはなるといわれていた。千代の富士の時代になると、注射をするからといって素人に金を借りたりするようなことはしない。いくらなんでも、北の富士のように図々しいのは少ない。北の富士は橋本さんのようなタニマチがいて金を出してもらっていたし、その上注射相撲まで仕切って金を手に入れていたのだからとんでもないことだ。ただ、当時輪島のように、優勝するための資金を暴力団から借りるような強者がいたことも事実だ。昭和53年の名古屋場所。優勝するために資金が必要だということで、輪島は暴力団から金を借りた。ところがそれを遊興費に使ってしまって優勝できなかったという、相撲界では有名な事件がある。ガチンコでもなんとかなると思っていたわけだが、北の湖が全勝で突っ走ってしまったために、結局優勝できなかった。金を返せとまでは言われなかったが、暴力団からこっぴどくやられたという話は聞いている。そんな事件もあり、橋本さんのような外部のタニマチを巻き込むのは望ましくないということで、だんだん自分たちの若衆を走らせて、自分で金を準備するようになった。しかし、このような国民栄誉賞横綱である人物が、注射で現金を巻き上げていたというのは、まったく困ったことだ。板井が橋本さんに、「プロにこのような賞をあげてはいけない」といった気持ちが理解できるというもの。あれだけ優勝に対して貪欲な千代の富士が、大鵬の優勝回数32回にあと1回と迫りながら断念したのは、そういった協会内の空気を察知したからである。大鵬の20回以降の優勝が注射で積み重ねたものだとすれば、千代の富士の優勝は関脇での初優勝からすべて注射で作られたものだ。師匠の北の富士を彷彿させるような戦績である。親を見れば子がわかるというが、私が板井に何も言えなかったように、北の富士も千代の富士には何も言えなかったのだろう。しかし、その千代の富士と北の富士も最後は金のことで決裂した。私たちの前で、いつも北の富がボヤいていた。陣幕と九重との年寄名跡の交換で、北の富士は部屋ごと大きな金で買い取らせようとしたが、千代の富士から、「俺のお陰でここまで大きくなれたんだろう・・」というようなことまでいわれたといい、北の富士は怒っていた。一晩話し合って出た結果が5000万円だったそうだ。平成4年4月に交換した。北の富士としては横綱(北勝海)付きのつもりだったが、千代の富士の力のお陰で綱をはっていた北勝海は、後ろ盾を失ってしまい平成4年夏場所前に引退してしまった。陣幕に名義を書換え、九重の名義を高く売りたかった北の富士は、計算が狂ったことになるが、安く買い叩いた千代の富士としては計算通りだったのだ。北の富士は5000万円のうち3000万円を祝儀で叩き返してやったと言っていた。その後、陣幕は北勝海が平成5年9月に独立して興した八角部屋に、九重部屋付きの君ケ濱、谷川、錦戸ら他の親方連中とともに移籍した。長年付け人としてがんばってきた峰ノ富士も部屋を去り、結局は独りぼっちになってしまった国民栄誉賞横綱。現在の千代の富士は、大鵬があまりに欲張りすぎて親方連中の人気をなくして孤立していったのに似ている。同じ八百長をしていても、決定戦で3勝5敗(千代の富士は6勝0敗)の北の湖は人気があって、将来の理事長候補とまでいわれている。さらに、最強の外国人力士といわれていた小錦も、この千代の富士の注射地獄に潰されていった力士の一人。協会の外国人力士排除の動きも手伝って、不運の大関・小錦は転落の道を歩んで行った。

Michael Gerard "Mike" Tyson ・アイアン・マイクの生涯・現在は「一文なし」と「パンチドランカー症状?」=「栄光と悲惨」

2016/09/23 20:49
みなさん こんにちは、
やっと帰ってきました。トロントも東京にははるかに及ばないにせよ、結構な「通勤・通学ラッシュ」。一応カナダ「最大の都市」なんでしょう。本日は朝から雨。でも大分涼しくなりました。これで案外そのまま「冬」になだれこむかもしれない。この季節になるとだんだん落ち着いてくるのは毎年のこと。それにしても最近「グチ」ばかり。「治療師」の仕事は疲れる・・・。こういうときはいつもiPodで「ダマト・タイソン」(21歳まで)のあらゆるものを見るのがある種の癖になっています。
はじめに:
一般の人にはまだまだなじみが深いひとりなのでは。そう察しますがいかがでしょう?周知のとおり。日本には2度きました。88年(21)と90年(23)。ただあれほど「ちがった」人物となって現れたのもめずらしいかもしれない。純粋に「ボクシング」以外の面でも、「異質」になっていた。一般の視聴者の方々には伝わらなかったのはやむを得ないこと(なにせ日本放送は、「長嶋茂雄氏」と「薬師丸ひろ子女史」、アメリカ放送は「小錦」と相撲をとり、はじめの奥さんといっしょに「チャンコ鍋」を食べている「How do they get bigger with these? I eat these just on my diet」(魚、鶏と野菜だけ)これでどうやって大きくなるんだ?減量のときしか食べない」と奥さんと横にいる小錦に目をパチクリさせながら尋ねてる若武者タイソンでした。小錦は「A training」(稽古だよ)と答えていたけど理解しておらず(笑)。 
ーおそらく現在は「パンチドランカー」だと思います(打たれ過ぎました)。21歳までほとんど当てさせなかった。きれいな顔をしていました。現在はボコボコ、鼻はつぶれ顔も歪んでしまった。
ーかつて「少年」のように甲高い声でペラペラ早口で話した頃は別人のよう。重苦しい口調でしどろもどろ低音で話す。言っていることは「不明」になるときも少なからず。北米では「ム所」暮らし「塀の中」が増えれば増えるほど「刺青」が多くなります(牢屋の中でやることは1、喧嘩沙汰2、重量上げ(ウエートトレーニング)3、各種「賭けトランプ」4、読書・学習・・・に「趣味」が続く(ほかにやることがないから=「刺青」)。
ー顔面の刺青はまわりに評判が悪かったから途中でやめただけ。実に中途半端なまま。左肩に黒人英雄テニス・プレーヤーアーサー・アーシュ、右に毛沢東(暴行事件ではじめの服役)。右腹にチェ・ゲバラ(再び収監されたとき)。その後が中断した「顔面」・・・さびしいですね(苦笑)。
不幸な人生:
ータイソンは現在、3度の結婚(バツサン)が破局に終わり。今、「四度目」。8人の子持ち。残念ながら4~5年前、娘さんが「首吊り自殺」をしてタイソンが見つけ。一生懸命人工呼吸をしたけど結局蘇生できず。近年の言葉「わたしは一文無しだ・・・恥ずべきこと。むかしは楽しかった・・・たくさんいい思いをした・・・しかし今の現実はちがう・・・」(おそらく合計手取り「300億」円は稼いだでしょう。ニューヨークはじめいろんなところに「廃墟」となた「豪邸」がそのまま狐狸の巣となり放っておかれたまま)。
ーこういうこともあんまり筋がとおった形で話せない・・・ダメージが感じられる・・・悲しいしさびしいですね・・・。
ー教護院に叩き込まれていた13歳でボクシングをはじめた。たちまちアマチュアで注目される。しかし当時のタイソンの映像を見るとよく試合前。涙を流していた。不幸な育ちで情緒不安定。本当は弱くて、繊細な性格なんです。当時のトレーナー・テディ・アトラス氏(アイルランド系・タイソンとおなじく元チンピラ・荒くれもの・前科モノで二度のむ所暮らし・元ボクサーであり故カス・ダマト門下の若きトレーナーとして更正した)が後姿にさびしさと悲しみ漂う二倍も大きい。泣き顔のタイソンを「大丈夫だ。力をぬけ」と太い首に腕をまわしながら肩をポンポンとたたきながらなだめ。しばらく沈黙・・・場所はニューヨーク郊外の「青年センター」。アマチュア時代、アトラスはおもむろに「よしっ、行くぞっ!」タイソンはたちまち「戦う男」の顔に変わる(試合は初回、一発KOでタイソンが勝つ)。
ーアトラスとは17歳のとき、ケンカ別れ。この間、約30年ぶりに解説者席に座るすっかり老いたアトラスと和解した。がっちり握手し面と向かって言葉を交わし、謝罪したタイソン。アトラスはまだ「兄貴分」そのものまた「大丈夫だ」と抱擁していて。感動し、涙がでました。何回も戻してみた。今度はその後のトレーナー同じく兄弟子だったルーニー氏と和解してくれたら。祈るような気持ちながらこちらはそう簡単ではない(おそらく不可能なほどこじれてしまった)。
Michael Gerard "Mike" Tyson (/ˈtaɪsən/; born June 30, 1966), also known as Malik Abdul Aziz,[4][5] is an American former professional boxer who competed from 1985 to 2005. He held the undisputed heavyweight championship and holds the record as the youngest boxer to win the WBA, WBC, and IBF heavyweight titles at 20 years, 4 months, and 22 days old.[6] Tyson won his first 19 professional fights by knockout, 12 of them in the first round. He won the WBC title in 1986 after stopping Trevor Berbick in two rounds. In 1987, Tyson added the WBA and IBF titles after defeating James Smith and Tony Tucker. This made him the first heavyweight boxer to simultaneously hold the WBA, WBC, and IBF titles, and the only heavyweight to successively unify them.In 1988, Tyson became the lineal champion when he knocked out Michael Spinks in 91 seconds of the first round. Tyson successfully defended the world heavyweight championship nine times, including victories over Larry Holmes and Frank Bruno. In 1990, he lost his titles to underdog Buster Douglas, who knocked Tyson out in the tenth round. Attempting to regain the titles, Tyson defeated Donovan Ruddock twice in 1991, but pulled out of a fight with then-undisputed heavyweight champion Evander Holyfield (who had defeated Douglas later in 1990) due to injury. In 1992, Tyson was convicted of rape and sentenced to six years in prison, but was released after serving three years. After his release in 1995, he engaged in a series of comeback fights. He won the WBC and WBA titles in 1996, after defeating Frank Bruno and Bruce Seldon by knockout. With his defeat of Bruno, Tyson joined Floyd Patterson, Muhammad Ali, Tim Witherspoon, Evander Holyfield, and George Foreman, as the only men in boxing history to have regained a heavyweight championship after having lost it. After being stripped of the WBC title in the same year, Tyson lost the WBA title to Evander Holyfield by an eleventh-round stoppage. Their infamous 1997 rematch ended when Tyson was disqualified for biting Holyfield's ears.In 2002, Tyson fought for the world heavyweight title at the age of 35, losing by knockout to Lennox Lewis. Tyson retired from professional boxing in 2006, after being knocked out in consecutive matches against Danny Williams and Kevin McBride. Tyson declared bankruptcy in 2003, despite having received over $30 million for several of his fights and $300 million during his career. At the time it was reported that he had approximately $23 million of debt.[7] Tyson was well known for his ferocious and intimidating boxing style as well as his controversial behavior inside and outside the ring. Nicknamed "Iron",[8] and "Kid Dynamite" in his early career and later known as "The Baddest Man on the Planet",[9] Tyson is considered one of the best heavyweights of all time.[10] He was ranked No. 16 on The Ring's list of 100 greatest punchers of all time,[11] and No. 1 in the ESPN.com list of "The hardest hitters in heavyweight history".[12] Sky Sports rated him as "the scariest boxer ever" and described him as "perhaps the most ferocious fighter to step into a professional ring."[13] He has been inducted into the International Boxing Hall of Fame and the World Boxing Hall of Fame.
はじめてのタイソン:
ーなるべく例の「同人誌」語調は避けるよう心がけますのでよろしく☆タイソンについてはまったく知らなかった。16歳の頃、全然関係ない仲間から「民放チャンネル」ですごいのがいる。てっきり当時イギリスの英雄だった黒人世界ランカーフランク・ブルーノ(後にタイソンに二戦二敗(二KO負け)・デビュー以来25連続KO無敗)かな?でもブルーノならそんな民放のテレビに出るはずもない。
ーそれから「東京テレビ」で特集があった。正直びっくりしてしまった。そこで日本人レポーターのインタビューに答えた若干18歳のタイソン(19連続KO勝ち無敗=25勝(23KO))
「もしぼくが世界チャンピオンになったらぜひ日本で試合をしたいと思ってます。バア~イ」と言葉少なく語り笑顔をみせていた映像が懐かしい。
ーそれから当時はまさか自分がその国の人間になるなど露ほども感じていなかった。土方建設業時代。残念ながら10年以上前に保険金がらみの事件で甥に殺されてしまったジャマイカ系カナダ人の故トレバー・バービック(ノバスコシア州・ハリファックス出身(*注)・引退後、日本で「リングス」の高田と対戦。初回蹴りまくられてあっさりギブアップ=プロレスファンを憤慨させた)を豪快に倒してチャンピオンとなる(ヘビー級、最年少・20歳(アリの21歳を破った)。
当時のタイソンとニューヨーク・キャットスキル:
ー「東京テレビ」の「マニア向け」とは別に、先がけて民放番組でも特集されていた。インタビューに答える19歳のタイソン。飾り気のない、あどけない青年に過ぎなかった。師匠のカス・ダマトはすでに逝去。ボクサーになる前は何になりたかったか?「ギャング」といってはにかんでいたのも遠いむかしの話になりました。
ー当時から確かに「女癖」は悪くいつも3~4人の「彼女たち?」に囲まれ「両手に花」。しかしボクサーとしては真面目一本やり。毎朝4時におきて約6キロのロードワーク。がんばって毎日練習してました(この当時のトレーニング方法のまま来日したのが88年。91年はすべて「別のもの」。同じだったのは練習とロードワーク以外はほとんど外に出ず。ホテルの部屋にひとりこもり。ひたすら「ジャッキー・チェン」のカンフー映画をみていたこと)それ以外は故ダマト(肺炎をこじらせて病死する一年前正式「養子縁組」・いまさらながらダマトがもう少し生きていれば・・・)の家で鳩をたくさんかってたわむれていた。あどけない後姿も思い出す。近所の人たちに道であいさつされても気さくに応じていた。
ーおそらく日本の方々。特に若い人たちの印象にある「タイソン」は変貌して暴力的。罵詈雑言を吐く別の姿ではないでしょうか?(苦笑)。アメリカ軍人で横須賀に兄が駐屯していた。それについても聞かれ「そうなんです。どこにいるか知らないのですが、もし日本に行ったら是非会いたい」(後にタイソンが王者になってから「同人誌」でインタビューが載せられた。まじなイチ軍人でした)。また再開します☆ サム 少し元気がでてきました=「拳闘こそ我命」まさしく)。
(*注)私もハリファックスは二度ほど行ったことがある。モントリオールからバスで1日半。当時の「観光バス」(グレイ・ハウンド)はもっと衛生状況も悪く。特にアメリカはひどかった)。この間行ったメイン州・ポートランドにそっくり気候も似ている港街。ただ当時は(おそらく今も変わらないだろう)おっとりきさくだったアメリカ人に比べて「偏見・閉鎖的」でアジア人はほとんどおらず。冷え冷えとあしらわれた(これは西部アルバータ州・カルガリーもいっしょ)。カナダは一般に「保守的」なんです(ただ一概にはいえないにせよ。はじめはどこでも「つっけんとう」に感じるけど「なれる」と深い友人関係になれる。アメリカ人は「派手」で「仰々しい」反面「広く浅く」の傾向あり)。
ー偶然にも、その当時は知る余地もなかったけど。私の「専攻」にとって非常に重要なことも起っていた。つまり1917年、亡命地ベルギーで「2月革命」の報を耳にしたトロツキー一家がアメリカ経由で祖国への航海中。イギリス軍にハリファックスで強制下船させられ。帝政ドイツ軍俘虜収容所内に1カ月抑留された(この顛末については別の「歴史・政治」でいずれ詳しく☆23歳のとき、再びハリファックを訪れたとき歴訪しました)。例によって「革命機運?」(時代錯誤(苦笑))にひっぱり込まれるのもいつものこと(失礼しました☆)。
Amateur career
Tyson won gold medals at the 1981 and 1982 Junior Olympic Games, defeating Joe Cortez in 1981 and beating Kelton Brown in 1982. Brown's corner threw in the towel in the first round. He holds the Junior Olympic record for quickest knockout (8 seconds). He won every bout at the Junior Olympic Games by knockout.He fought Henry Tillman twice as an amateur, losing both bouts by decision. Tillman went on to win heavyweight gold at the 1984 Summer Olympics in Los Angeles.[29]
相次ぐ不幸・義父ダマトと兄貴分ジェイブスの死:
ースピンクスを初回でノックアウト。すでにタイソンの生活環境はまったく変化していた。初妻のギブンスとはわずか「8ヶ月」で離婚。くりかえしタイソンの「暴行沙汰」が問題にされ。トークショーにも夫婦揃って出演。ギブンスはタイソンの「躁鬱病」を指摘。戸惑った少年のような表情をして聞き入っていたタイソンを思い出す。
ーダマトの死よりある意味ジェイカブス(13歳よりタイソンを商売パートナーであるケイトンといっしょに援助)の死は決定的だった。ケイトンは「資金面」調達の係りであり、タイソンとは直接ほとんど接していなかった。
ージェイカブスはまさに「親分」であり。ドン・キングにしろほかの取り巻きにしろジェイカブスがいたころは誰一人タイソンに近づけなかった。
ーただスピンクス戦においてギブンス(後ろでドン・キングと母親が音頭をとり陰謀をめぐらしたと大衆には理解された)が映像に現れるや激しいブーイングと野次が飛んだ(市民会館に設置された「有料大スクリーン」でみた私の会場でもすさまじい騒乱ぶり)。これが今もってしてギブンス(タイソンに約「26億円」の慰謝料を請求)の生涯に否定的に作用したといえる。特に女優ギブンスは「黒人」たち(とりわけ「女性」層)の支持を失ってしまった。みなタイソンに同情していた。
ー事実、ジェイカブスが急病死(58歳の若さ)するまでタイソンは後の「贅沢三昧」「散財放蕩」とは無縁の質素な生活をしていたに過ぎない。「おカネ」のことなど構わず。相変わらず「キャットスキル」の旧ダマト家で「鳩」たちといっしょに暮らしていた青年に過ぎなかった。
Rise to stardom
Main article: Trevor Berbick vs. Mike TysonTyson made his professional debut as an 18-year-old on March 6, 1985, in Albany, New York. He defeated Hector Mercedes via a first round knockout.[20] He had 15 bouts in his first year as a professional. Fighting frequently, Tyson won 26 of his first 28 fights by KO or TKO; 16 of those came in the first round.[30] The quality of his opponents gradually increased to journeyman fighters and borderline contenders,[30] like James Tillis, David Jaco, Jesse Ferguson, Mitch Green and Marvis Frazier. His win streak attracted media attention and Tyson was billed as the next great heavyweight champion. D'Amato died in November 1985, relatively early into Tyson's professional career, and some speculate that his death was the catalyst to many of the troubles Tyson was to experience as his life and career progressed.[31]Tyson's first nationally televised bout took place on February 16, 1986, at Houston Field House in Troy, New York against journeyman heavyweight Jesse Ferguson. Tyson knocked down Ferguson with an uppercut in the fifth round that broke Ferguson's nose.[32] During the sixth round, Ferguson began to hold and clinch Tyson in an apparent attempt to avoid further punishment. After admonishing Ferguson several times to obey his commands to box, the referee finally stopped the fight near the middle of the sixth round. The fight was initially ruled a win for Tyson by disqualification (DQ) of his opponent. The ruling was "adjusted" to a win by technical knockout (TKO) after Tyson's corner protested that a DQ win would end Tyson's string of knockout victories, and that a knockout would have been the inevitable result. The rationale offered for the revised outcome was that the fight was actually stopped because Ferguson could not (rather than would not) continue boxing.On November 22, 1986, Tyson was given his first title fight against Trevor Berbick for the World Boxing Council (WBC) heavyweight championship. Tyson won the title by second round TKO, and at the age of 20 years and 4 months became the youngest heavyweight champion in history.[33] Tyson's dominant performance brought many accolades. Donald Saunders wrote: "The noble and manly art of boxing can at least cease worrying about its immediate future, now [that] it has discovered a heavyweight champion fit to stand alongside Dempsey, Tunney, Louis, Marciano and Ali."[34]Because of Tyson's strength, many fighters were intimidated by him.[35] This was backed up by his outstanding hand speed, accuracy, coordination, power, and timing. Tyson was also noted for his defensive abilities.[36] Holding his hands high in the Peek-a-Boo style taught by his mentor Cus D'Amato,[37] he slipped and weaved out of the way of the opponent's punches while closing the distance to deliver his own punches.[36] One of Tyson's trademark combinations was a right hook to his opponent's body followed by a right uppercut to his opponent's chin; very few boxers would remain standing if caught by this combination. Lorenzo Boyd, Jesse Ferguson and Jose Ribalta were among the boxers knocked down by the combination.
ー日本に初来日。奥さんも後から続いた。2回KO勝ちの快勝。これがタイソンの全盛期最後の試合となったといえる。帰国後、たびたび問題を起す。前妻ロビンの仕事に同行してモスクワ訪問。ロビンは繰り返しタイソンは躁鬱病だといいだした。しかしボクサーは試合前は神経が過敏になる。張り詰めてぎりぎりまで闘志を高め試合にのぞむ。勝てば嬉しさと解放から歓喜。すなわち「躁」という状態になる。これを「精神病」と決めつけるのは理解が足りないと悲しい。
ー帰国後、タイソンはロビンと大ゲンカ(したとされる)。その直後、自宅近辺で交通事故を起し木に激突。
Undisputed champion
See also: Mike Tyson vs. James Smith, Mike Tyson vs. Tony Tucker, and Mike Tyson vs. Michael SpinksExpectations for Tyson were extremely high, and he embarked on an ambitious campaign to fight all of the top heavyweights in the world. Tyson defended his title against James Smith on March 7, 1987, in Las Vegas, Nevada. He won by unanimous decision and added Smith's World Boxing Association (WBA) title to his existing belt.[38] 'Tyson mania' in the media was becoming rampant.[39] He beat Pinklon Thomas in May with a knockout in the sixth round.[40] On August 1 he took the International Boxing Federation (IBF) title from Tony Tucker in a twelve round unanimous decision.[41] He became the first heavyweight to own all three major belts – WBA, WBC, and IBF – at the same time. Another fight, in October of that year, ended with a victory for Tyson over 1984 Olympic super heavyweight gold medalist Tyrell Biggs by knockout in the seventh round.[42]
 During this time, Tyson came to the attention of gaming company Nintendo. After witnessing one of Tyson's fights, Nintendo of America president Minoru Arakawa was impressed by the fighter's "power and skill", prompting him to suggest Tyson be included in the upcoming Nintendo Entertainment System port of the Punch Out!! arcade game. In 1987, Nintendo released Mike Tyson's Punch-Out!!, which was well received and sold more than a million copies.[43]Tyson had three fights in 1988. He faced Larry Holmes on January 22, 1988, and defeated the legendary former champion by a fourth round KO.[44] This was the only knockout loss Holmes suffered in 75 professional bouts. In March, Tyson then fought contender Tony Tubbs in Tokyo, Japan, fitting in an easy two-round victory amid promotional and marketing work.[45]On June 27, 1988, Tyson faced Michael Spinks. Spinks, who had taken the heavyweight championship from Larry Holmes via a 15-round decision in 1985, had not lost his title in the ring but was not recognized as champion by the major boxing organizations. Holmes had previously given up all but the IBF title, and that was eventually stripped from Spinks after he elected to fight Gerry Cooney (winning by a 5th-round TKO) rather than IBF Number 1 Contender Tony Tucker, as the Cooney fight provided him a larger purse. However, Spinks did become the lineal champion by beating Holmes and many (including Ring magazine) considered him to have a legitimate claim to being the true heavyweight champion. The bout was, at the time, the richest fight in history and expectations were very high. Boxing pundits were predicting a titanic battle of styles, with Tyson's aggressive infighting conflicting with Spinks' skillful out-boxing and footwork. The fight ended after 91 seconds when Tyson knocked Spinks out in the first round; many consider this to be the pinnacle of Tyson's fame and boxing ability.[46][47] Spinks, previously unbeaten, would never fight professionally again.
Controversy and upset
Main article: Mike Tyson vs. Buster DouglasDuring this period, Tyson's problems outside boxing were also starting to emerge. His marriage to Robin Givens was heading for divorce,[48] and his future contract was being fought over by Don King and Bill Cayton.[49] In late 1988, Tyson parted with manager Bill Cayton and fired longtime trainer Kevin Rooney, the man many credit for honing Tyson's craft after the death of D'Amato.[36][50] Following Rooney's departure, critics alleged that Tyson began to use the Peek-a-Boo style sporadically.[51] Tyson insisted he hadn't altered the style that made him a world champion.[52] In 1989, Tyson had only two fights amid personal turmoil. He faced the popular British boxer Frank Bruno in February. Bruno managed to stun Tyson at the end of the 1st round,[53] although Tyson went on to knock out Bruno in the fifth round. Tyson then knocked out Carl "The Truth" Williams in one round in July.[54]By 1990, Tyson seemed to have lost direction, and his personal life was in disarray amidst reports of less vigorous training prior to the Douglas match.[55] In a fight on February 11, 1990, he lost the undisputed championship to Buster Douglas in Tokyo.[56] Tyson was a huge betting favorite; indeed, the Mirage, the only casino to put out odds for the fight, made Tyson a 42/1 favorite. However, Douglas was at an emotional peak after losing his mother to a stroke 23 days prior to the fight; Douglas fought the fight of his life.[56] Contrary to reports that Tyson was out of shape, it has been noted at the time of the fight that he had pronounced muscles, an absence of body fat and weighed 220 and 1/2 pounds, only two pounds more than he had weighed when he beat Michael Spinks 20 months earlier.[57] Mentally, however, Tyson was unprepared. He failed to find a way past Douglas's quick jab that had a 12-inch (30 cm) reach advantage over his own.[58] Tyson did catch Douglas with an uppercut in the eighth round and knocked him to the floor, but Douglas recovered sufficiently to hand Tyson a heavy beating in the subsequent two rounds. (After the fight, the Tyson camp would complain that the count was slow and that Douglas had taken longer than ten seconds to get to his feet.)[59] Just 35 seconds into the 10th round, Douglas unleashed a brutal uppercut, followed by a four-punch combination of hooks that sent Tyson to the canvas for the first time in his career. He was counted out by referee Octavio Meyran.[56]The knockout victory by Douglas over Tyson, the previously undefeated "baddest man on the planet" and arguably the most feared boxer in professional boxing at that time, has been described as one of the most shocking upsets in modern sports history.[60][61]
After Douglas
Main articles: Mike Tyson vs. Henry Tillman, Mike Tyson vs. Alex Stewart, Mike Tyson vs. Donovan Ruddock, and Mike Tyson vs. Donovan Ruddock IIAfter the loss, Tyson recovered with first-round knockouts of Henry Tillman[62] and Alex Stewart[63] in his next two fights. Tyson's victory over Tillman, the 1984 Olympic heavyweight gold medalist, enabled Tyson to avenge his amateur losses at Tillman's hands. These bouts set up an elimination match for another shot at the undisputed world heavyweight championship, which Evander Holyfield had taken from Douglas in his first defense of the title.Tyson, who was the number one contender, faced number two contender Donovan "Razor" Ruddock on March 18, 1991, in Las Vegas. Ruddock was seen as the most dangerous heavyweight around and was thought of as one of the hardest punching heavyweights. Tyson and Ruddock went back and forth for most of the fight, until referee Richard Steele controversially stopped the fight during the seventh round in favor of Tyson. This decision infuriated the fans in attendance, sparking a post-fight melee in the audience. The referee had to be escorted from the ring.[64]Tyson and Ruddock met again on June 28 that year, with Tyson knocking down Ruddock twice and winning a 12 round unanimous decision.[65] A fight between Tyson and Holyfield for the undisputed championship was scheduled for November 8, 1991 at Caesars Palace in Las Vegas, but Tyson pulled out after sustaining a rib cartilage injury during training.
Rape conviction, prison, and conversion
Tyson was arrested in July 1991 for the rape of 18-year-old Desiree Washington, Miss Black Rhode Island, in an Indianapolis hotel room. Tyson's rape trial took place in the Marion County superior court from January 26, 1992 to February 10, 1992.Desiree Washington testified that she received a phone call from Tyson at 1:36 am on July 19, 1991 inviting her to a party. Having joined Tyson in his limousine, Washington testified that Tyson made sexual advances towards her. She testified that upon arriving at his hotel room, Tyson pinned her down on his bed and raped her despite her pleas to stop. She ran out of the room and asked Tyson's chauffeur to drive her back to her hotel.[citation needed] Partial corroboration of Washington's story came via testimony from Tyson's chauffeur, Virginia Foster, who confirmed Desiree Washington's state of shock. Further testimony came from Thomas Richardson, the emergency room physician who examined Washington more than 24 hours after the incident and confirmed that Washington's physical condition was consistent with rape.[66]Under lead defense lawyer Vincent J. Fuller's direct examination, Tyson claimed that everything had taken place with Washington's full cooperation and he claimed not to have forced himself upon her. When he was cross-examined by lead prosecutor Gregory Garrison, Tyson denied claims that he had misled Washington and insisted that she wanted to have sex with him. Because of Tyson's hostile and defensive responses to the questions during cross-examination, some have speculated that his behavior made him unlikable to the jury who saw him as brutish and arrogant.[67] Tyson was convicted on the rape charge on February 10, 1992 after the jury deliberated for nearly 10 hours.[68]
 Alan Dershowitz, acting as Tyson's counsel, filed an appeal urging error of law in the Court's exclusion of evidence of the victim's past sexual conduct, the exclusion of three potential defense witnesses, and the lack of a jury instruction on honest and reasonable mistake of fact.[69] The Indiana Court of Appeals ruled against Tyson in a 2–1 vote.[69]
 On March 26, 1992, Tyson was sentenced to six years in prison followed by four years on probation.[70] In spite of being 25 years old at the time he committed the rape, he was assigned to the Indiana Youth Center (now the Plainfield Correctional Facility) in April 1992,[71] and he was released in March 1995 after serving less than three years of his six-year sentence.[72] Hakeem Olajuwon claims that during his incarceration, Tyson converted to Islam.[73]Due to his conviction, Tyson is required to register as a tier II sex offender under federal law.[74][75][76][77][78] As of May, 2016, he is so registered, as Michael Tyson, in Henderson, Nevada.
Comeback
Main articles: Mike Tyson vs. Peter McNeeley; Mike Tyson vs. Buster Mathis, Jr.; Frank Bruno vs. Mike Tyson II; and Bruce Seldon vs. Mike TysonAfter being paroled from prison, Tyson easily won his comeback bouts against Peter McNeeley and Buster Mathis Jr.. Tyson's first comeback fight grossed more than US$96 million worldwide, including a United States record $63 million for PPV television. The fight was purchased by 1.52 million homes, setting both PPV viewership and revenue records.[79] The 89-second fight elicited criticism that Tyson's management lined up "tomato cans" to ensure easy victories for his return.[80] TV Guide included the Tyson-McNeeley fight in their list of the 50 Greatest TV Sports Moments of All Time in 1998.[81]Tyson regained one belt by easily winning the WBC title from Frank Bruno in March 1996. It was the second fight between the two, and Tyson knocked Bruno out in the third round.[82] Tyson added the WBA belt by defeating champion Bruce Seldon in one round in September that year. Seldon was severely criticized and mocked in the popular press for seemingly collapsing to innocuous punches from Tyson.[83]
Personal life
Tyson resides in Seven Hills, Nevada.[158] He has been married three times. He has fathered seven children, one deceased, by three women; in addition to his biological children, Tyson includes the oldest daughter of his second wife as one of his own.[159]
 His first marriage was to actress Robin Givens, from February 7, 1988 to February 14, 1989.[48] Givens was famous for her work on the sitcom Head of the Class. Tyson's marriage to Givens was especially tumultuous, with allegations of violence, spousal abuse and mental instability on Tyson's part.[160] Matters came to a head when Tyson and Givens gave a joint interview with Barbara Walters on the ABC TV newsmagazine show 20/20 in September 1988, in which Givens described life with Tyson as "torture, pure hell, worse than anything I could possibly imagine."[161] Givens also described Tyson as "manic depressive" on national television while Tyson looked on with an intent and calm expression.[160] A month later, Givens announced that she was seeking a divorce from the allegedly abusive Tyson.[160] They had no children but she reported having had a miscarriage; Tyson reports that she was never pregnant and only used that to get him to marry her.[160][162] During their marriage, the couple lived in a mansion in Bernardsville, New Jersey.[163][164]His second marriage was to Monica Turner from April 19, 1997 to January 14, 2003.[165] At the time of the divorce filing, Turner worked as a pediatric resident at Georgetown University Medical Center in Washington, D.C.[166] She is the sister of Michael Steele, the former Lieutenant Governor of Maryland and former Republican National Committee Chairman.[167] Turner filed for divorce from Tyson in January 2002, claiming that he committed adultery during their five-year marriage, an act that "has neither been forgiven nor condoned."[166] The couple had two children; son Amir, and daughter Rayna.On May 25, 2009, Tyson's four-year-old daughter Exodus was found by her seven-year-old brother Miguel, unconscious and tangled in a cord, dangling from an exercise treadmill. The child's mother untangled her, administered CPR and called for medical attention. She died of her injuries on May 26, 2009.[168][169]Eleven days after his daughter's death, Tyson wed for the third time, to longtime girlfriend Lakiha "Kiki" Spicer, age 32, exchanging vows on Saturday, June 6, 2009, in a short, private ceremony at the La Bella Wedding Chapel at the Las Vegas Hilton.[170] They have two children; daughter, Milan, and son, Morocco.[159]Tyson has been diagnosed with bipolar disorder.[171] While on the American talk show The View in early May 2010, Tyson revealed that he is now forced to live paycheck to paycheck.[172] He went on to say: "I'm totally destitute and broke. But I have an awesome life, I have an awesome wife who cares about me. ... I'm totally broke. I had a lot of fun. It [going broke] just happened. I'm very grateful. I don't deserve to have the wife that I have; I don't deserve the kids that I have, but I do, and I'm very grateful."[172]In March 2011, Tyson appeared on The Ellen DeGeneres Show to discuss his new Animal Planet reality series, Taking on Tyson. In the interview with DeGeneres, Tyson discussed some of the ways he had improved his life in the past two years, including sober living and a vegan diet.[173] However, in August 2013 he admitted publicly that he had lied about his sobriety and was on the verge of death from alcoholism.[174]In December 2013, during an interview with Fox News, Tyson talked about his progress with sobriety and how being in the company of good people has made him want to be a better and more humble person. Tyson also talked about religion and said that he is very grateful to be a Muslim and that he needs Allah.[175] He also revealed that he is no longer vegan after four years.[175]In 2015, Tyson announced that he was supporting Donald Trump's presidential candidacy.[176]
In popular culture
For more details on this topic, see Mike Tyson in popular culture.At the height of his fame and career in the late 1980s and throughout the 1990s, Tyson was one of the most recognized sports personalities in the world. Apart from his many sporting accomplishments, his outrageous and controversial behavior in the ring and in his private life has kept him in the public eye and in the courtroom.[177] As such, Tyson has appeared in myriad popular media in cameo appearances in film and television. He has also been featured in video games and as a subject of parody or satire.The Blackstreet single "Booti Call" was written about Tyson's rape trial and conviction.[178] Boogie Down Productions' 1992 song "Say Gal" also addressed the rape trial.[179]The film Tyson was released in 1995 and was directed by Uli Edel. It explores the life of Mike Tyson, from the death of his guardian and trainer Cus D'Amato to his rape conviction. Tyson is played by Michael Jai White.Published in 2007, author Joe Layden's book The Last Great Fight: The Extraordinary Tale of Two Men and How One Fight Changed Their Lives Forever, chronicled the lives of Tyson and Douglas before and after their heavyweight championship fight. The book received positive reviews and claimed the fight was essentially the beginning of the end of boxing's popularity in mainstream sports.In 2008, the critically acclaimed documentary Tyson premiered at the annual Cannes Film Festival in France. The film was directed by James Toback and has interviews with Tyson and clips of his fights and from his personal life.The Felice Brothers, a folk-rock band from Upstate New York, released a song on their 2011 album Celebration, Florida titled "Cus's Catskill Gym". The song tells the story, albeit briefly, of Mike Tyson and a few notable characters and moments in his life.[citation needed]He is the titular character in Mike Tyson Mysteries, which started airing on October 27, 2014 on Adult Swim.[180][181]

A Boxer's Life・一般ブログから・ボクシングジム

みなさん こんにちは。
最近あんまりボクシングみていないので。どうにもこうにも。一般ブログで書いた記事をよろしかったから。
アヤラ
ボクサーのドキュメンタリー:
ー不意に朝から「大橋秀行」(元ストロー級王者(2度獲得=WBA・WBC)の特集をみていました。そこで大橋がリカルド・ロペスに5回KO負けで敗れ。タイトルを失った再起戦。1989年、20歳の私は「後楽園ホール」にいました(メイン平仲VS山本(大橋の同門・後輩・ヨネクラジム)。ヨネクラジム(米倉会長(元メキシコ五輪代表・プロ東洋フライ級王者・二度世界挑戦)もどうなっているのか。むかしはほぼ「普通」オーソドックス(正統派)な練習=(某ジム・金子ジムもいっしょです)。みんな一斉に開始する(柔軟体操とウォーミングアップから「ゴングがなる」(練習開始)と腕立て伏せ30回からはじまる)。
ーどんなカッコをしていたかすらあまり覚えていません。あらためて現代科学の進歩。「カナダ」からみる。すごいものです。同時に、こうしてみなさんたちと通信できる。私がアメリカに来た頃(1987)は「国際電話」は。まだ「交換手」を使わなければいけないときもありました(アルツハイマーのばあさんがでてどうにもならなかったときもある)。
最後に:豆知識=ジムの練習:
だいたいこういった流れです。参考までに。
普通は「1時間半~2時間」。(「ダイエット」や「練習」だけの人はだいたい「昼」に来る。夕方5時30分頃にジム入り。柔軟体操開始。ゴング(すべて1R「3分」・休憩1分・最後の1分には「ラスト1分」と声がかかる)がなるとだいたい「縄跳び」(2~3回からはじまる)。すべて「ラウンド」として続けられる(アメリカなどはそうとは限らない。タイソンの全盛期は30分でも1時間でも休みなくやる選手もいます)。
ともあれ、次はほとんど「空いている」ところでやるのでひとりひとり「臨機応変」で「順不同」。内容はほぼいっしょ。
1、シャドーボクシング。
2、サンドバッグ打ち。
3、ミット打ち。
4、パンチングボール。ダブルパンチングボール。
ーここで「スパーリング」(だいたい「2R」・みんな順番、はじめは「コッパ」から。プロの選手は一番最後)。
5、筋力トレーニング(終わってからのボクサーも多い)。
6、再び↑と「ウィービング」(頭をふる練習)
7、縄跳び。
ー終了。
みんなリラックスして気を抜いてる(「会長」はもう奥「事務所」へいなくなる。「トレーナー」はすぐ着がえて帰る)。整理体操・メジシンボール(腹筋強化・通常の腹筋など(これらも人それぞれ。一人離れ黙々とやっている人もいる)。「ゴング」はもう鳴らない。
「一斉掃除」。終了。みんな順番に「シャワー」に入る(ぼくはそのまま家に帰り「風呂」に入ってた)。
ー癒しのひととき。話をするのはこのときがほとんど。ぼくは壁に会長がはった「記事の切り抜き」(大体「デイリー・スポーツ」(ボクシング関連の比重がおおきい)をみるのが何よりの楽しみ(ここでタイプも分かれます。「ボクサー」だから「ボクシングが好き」とはかぎりません(私はどちらかといえば「研究者」(マニア)ですので。「ボクシングそのもの」(スポーツ(格闘技)として「メシより好き」。善悪正邪無関係。なかにはボクシング自体はあまり興味がない人も少なくない(試合やビデオもみない)。
ーキックはあまり好きではない。K1(いずれ詳しく)もおなじです(「中途半端」)。そんなものですよ(笑)。「空手」は好きです(特に「極慎空手」(世界大会・これもYoutubeでたくさんでる)。「マーシャル・アーツ」(全米プロ空手・あまり好きではない)「ムエタイ」(もしみるのなら「K1」よりこれ)はあまりみません。
*ボクシングは厳格に「階級」(体重)がきめられています。みなさんも例えば「K1」の選手とボクサーの「スピード・切れ・鋭さ・速さ」と「体の締まり」を比べてみていただけるとわかりやすいかも。結構腹がでてるのもいれば(マーシャルアーツは似ている。「キック」「ムエタイ」はほぼボクサーに近い)たるんでいる選手多い(たとえば白人アーツやアーネスト・フォースト(双方もうひとつひきしまってない)日本の佐竹(ボテボテでスピードがない)それとフリオ(ブラジル人・極慎会世界大会王者)にしろ故フグ(アメリカ人・同じく)」にしろ。「全盛期」(空手選手時代・二人とも「迫力」が違う=「アマチュア」です)。もっと引締りまさに「現役」格闘家)を過ぎてから「K1」に参入する(ボクサーも「元」か引退間近がほとんど「タイソン」(ザップ氏との一戦は「前科モノ」で入国できないから流れた)。
さて「タバコ」買いに行ってきます☆ また後で いつもありがとうございます。平和PEACE☆ サム
追記:
ー私は「夜中」に走ります(若い頃は「逆」でした。「朝」にめっぽう強かった)。「冬」は「大得意」。毎朝マイナス20℃だろうが「朝」走れる(「むし暑い」(春夏は弱い)。最近は「夜」(ほんとうは「原則」(あらゆる面でも「朝」(早朝に)走るべき)走る選手も少なくありません。
ーあと、「トップ」(アマ・プロ無関係)選手たちになればなるほど「自主トレーニング」をします(例えば「ペレストロイカ軍団」(招待選手・毎月給料「25万」・生活費も別支給)「旧ソ連」のトップアマたち(ユーリ・ナザロフ)は1日「3時間」の練習と「自主トレ」(筋力強化など)。毎朝10キロのロードワーク)。
ー「五輪代表」「世界選手権」アマたちは「強化合宿」(高校のインターハイも基本はおなじ)は「山にこもる」(山道を毎朝「駆け上がる」)。屋外「体育館」での合同練習(ちなみにはじめて「アメリカ」=「メリケン」から伝わってきた最初の日本ボクシングジム名は「メリケン練習場」です(日系人ジェームス・北条氏開設)。次が「日本拳闘倶楽部」(略称「日倶」・渡部勇次郎氏(アメリカ仕込みのプロボクサー)。
ー日本選手はみんなほとんど「仕事」をしながら。だからマンガと異なりあんまり「ジム」にだべってなどいない(あくまで「仕事」(職業)「鍛錬道場」「格闘技の習い事」ですので)。みんな毎朝最低「20キロ」走る(大橋選手の現役時代は「25キロ」(朝)・「5キロ」(坂道ダッシュなど)(夜)が日課でした)。
ーあらためて思ったのはボクサーは「現役時代」はあまり話もしないこと(口数も少ない。特に「練習」「試合前」は)。今では「ウエスト100」センチのまるっこいおじさんになってしまった「大橋選手」(現役時代は「最軽量」階級(ストロー級・J・フライ級(49キロくらい)・最重量階級「ヘビー級」(86キロ以上))も引締った。見事な天才パンチャー(氏の「当てる巧さ」「一発破壊力」と「防御勘」は天性のもの)=それに「研究」を重ね「鍛錬」を積み「完成」させる=「実戦」)でした。
また続けます☆