boxingmaniaayalaのブログ

ボクシングマニア・悪童アヤラのページ

下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

ジョージ・フォアマン・「巨象をも倒すパンチ」・強かった全盛期

こんばんは。



フォアマンをはじめてみたのは、ジョー・キング・ローマン戦でした。とにかく「強い」それだけ。まだ小学校低学年。アリはすでに知っていましたけどとてもフォアマンに勝てるとは思えなかった。41連勝(37KO)無敗。メキシコ五輪の金(森岡栄治が銅メダル)。
ーフレージャー戦をみたのはずっと後でした。とにかくバッタンバッタン倒されてばかり。「相性」も大きく作用したように思える。フレージャーがまったく歯が立たなかったとはいえ、別に調子が悪かったわけではない。左フックは同じ破壊力とスピードでもって何度もかすめていた。フォアマン自身後に「私はいつも相手の目をみて睨み合い威嚇するのを常としていた。しかしあの試合は足が震えていた。だからフレージャーに頼むから目を逸らさないでくれと祈っていた。ゴングが鳴ったらジョーの左フックがビュンと音を立てて前を横切った。びっくりしたよ」とのこと。一発一発で倒す。フレージャーの体が浮き上がったり横へ吹っ飛んだり。あの破壊力はタイソンとはまた別の魅了があった。そして動きが敏捷できめ細かいのも好きだった。6度もぶっ倒す。何度みてもあきません(笑)。
ーこの間サンディ・サドラーの試合を見返していました。あのガードを前に出して弾くように相手のパンチを押さえながらプレッシャーをかけていく。Foremanまさしく4人でしたね(アーチ・ムーアは防御面、サドラーは攻撃面)。
ーケン・ノートンは景気よく大口を叩いていた試合前と対照的。急におとなしくなった。ローマンといっしょ。象に睨まれた蛙ほどにもみえた。あのヒットマッスルも小さくみえるほどフォアマンは大きかった。下を向いて、ゴングがなってもへっぴり腰。とはいえ、フレージャーの上を行く豪打だったよう相手が悪過ぎた。それに帰結するのでは。
ーボクシングとは本当に魅力と興味につきないスポーツ。かつて高橋直人氏が「ボクシングはジャンケン」おもしろ表現だと思った。アリはフレージャーにしろノートンにしろ分が悪かった。全盛期の25歳から30歳までの5年間をムダに過ごさなければいけなかったのは残念でたまらない。
ーただフォアマン戦はアリを応援していた。兄がフォアマンびいきで、ロープアドープ=「クリンチ戦法」とあの首を腕で締めつけるように下げる行為に文句ブーブーだったのも記憶に新しい。だからライブのときはアリが汚い戦法で勝ったような先入観にとらわれた。
ー見返してみるとそれほど汚い戦法とも思えないが、兄にいわせればフレージャーとの2戦目もアリはあの「首はがい落とし」みたいなのが目についたそう(判定もフレージャーの勝ちだといっていた)。どんなもんでしょうね(笑)。ともあれ、フォアマンはキャリアと経験そして狡猾さに負けた。そんなもんでしょうか。再戦していたらどうなっていたか考えてみるのもおもしろい。
ー再起後はアンジェロ・ダンディーがつく。サドラー伝授のガードは変わっていた。一戦目のライル戦はまだEXのときみられた、体のだぶつきが残り往年のヒットマッスルは戻っていなかった。すさまじい試合でしたね。
ーフレージャーとの二戦目はそれなりに面白かったけど、フレージャーの衰えが目立った(事実ラスト・ファイト=ジャンボ・カミングスとの引き分けはさておき)。フィニッシュの左アッパーからの連打は見事。たちあがったフレージャーにとどめ打ちのフック連打、最後は右で吹っ飛ばした。ジミー・ヤング戦は圧勝の雰囲気だった序盤戦。暑さで脱水症状に陥ってしまったと本人は語っていた。ただあまり打たれ強くはなかったのかもしれない。あるいはアリ戦のダメージがぬけなかったのか。打たれもろくなったのか。
ー再起後でもっとも印象に残っている試合はレオン・スピンクスをストップした白人パンチャーロッキー・セコースキー戦。37歳。すでにアメリカにいた。強引に出て行って豪打で圧倒と思いきや、下がりながらのパンチでストップしたのにびっくり。あとはクーニー戦。一度倒したあと、ノートン戦とおなじ。急に入っていきなりショートの左アッパーを打ち込む。戦慄のKO劇でしたね。


今日はこの辺で。ばらついた内容ながら、だんだん調子が出てきました。アヤラ

懐かしのアメリカ☆ボストンの稲妻☆ナザロフVSガマチェの地☆歴訪

みなさん、こんばんは。
最近ちょっと本業の方がいそがしく。こっちにまで手が回りませんでした。一部の方はおそらくご存知のよう。私はカナダ国籍トロント在住の日系一世の私です。

1987-89、2年住んだアメリカメイン州ポートランドを訪れていました。仕事場の隣にある市民会館(実は私もアマで二試合(二RSC負け=(-_-;

無冠時代のハグラーも数試合戦ったところ(ウイリー・モンローとワッツに判定負け。もしくは両者ともに2回KOで雪辱した試合のどっちかでした)。故ガッティ(不幸な最後でした。カナダ人の同胞。モントリオール出身。イタリア系英仏伊に堪能(ノリスに初回で倒された兄ジョーも同じく)・近年の調査でブラジル人妻による殺害説(ブラジルで遺体発見。無残なもの。当初は逮捕された・一ヵ月後に証拠不十分で釈放)に豪快に粉砕されてしまった地元の英雄ジョーイ・ガマチェ(この試合で「前日軽量」にナンクセがつき(ガッティが当日10パウンド以上重量)ガマチェ側が提訴(却下)がロス五輪銅(ウィティカ相手に果敢にストレート攻撃で対抗)の贔屓だった全七星を8回終了ストップしてタイトル奪取したのも遥かむかしの話。初防衛戦で新鋭パンチャーのトニー・ロペスに無残な7回KO負けで喪失=次にこれまたただならぬ強打の荒法師。ジョン・ジョン・モリナにすさまじいノックアウトでタイトルを失ったロペス(再戦で判定勝ち奪回。正直驚きました)

またナザロフ(ユーリも同行し来米)の防衛戦前夜。後に聞いたところ。仕事場であった日本食には故金平氏一行が試合前日まで数回現れたとも聞いた。私の旧知経営者に「大将も見に来てください。2回あれば十分ですよ」と豪語したとおり本当に2回、ナザロフは豪快に3度倒しノックアウト防衛。アメリカではほとんど知られておらず(マニア間ではすでに、米ソ対抗戦でサザーランドに圧勝していたナザロフの強さは知られていたが)。お得意「なめくさって」楽勝だとのひとりきめ予想地元アメリカ人たち(ガマチェVS全のときはカナダにいた。先輩が電話してきて「奇声があがってた」とやら)。蓋を開けてみればヒーローの惨敗。ふがいなさにファンたちは憤慨(というより実力がちがう。相手が悪過ぎました)。


ナザロフ自身はバップティスト・メンディに初黒星(当時連勝街道まっしぐらだった対抗王者モズリーも統一戦をやりたかった。「負けてしまったのは残念」と感想をもらしていました(アカリエス傘下なら十分可能性もあったはず)。ともあれ7度防衛(5KO)のタイトルも喪失。協栄からフランスに移籍して2戦目(ライトやむかしはクォーティーが活躍した同門)。実はナザロフ自身は現役続行を希望していたとか。網膜はく離の左目は今でも痛々しい。すっかり肥りキルギスタンのプロボクシング推進有力者として活躍中。


ユーリやジューもおなじく(2003年にロシアで再会した写真をみました。感慨深かったです)。アマ時代のソウル五輪強化合宿88年の映像がある。Youtubeで出てます。単なる合宿場のひととき。ロシア語でざわざわやっているだけながら。しかも旧ソ連版撮影。画像が悪いけど食事のたのしいひととき。若きジュー(ソウル五輪3回戦で敗退)とユーリ、ナザロフ(ライバルのジューとは一勝一敗(ナザロフがノックアウトしたらしい)や悲劇のセルゲイ・アルテミエフ。さらにはヤノフスキーそして故ミロシニチェンコ(五輪銅(前年の世界選手権決勝で辛勝したボウに負けた(初回ダウンを奪うも2回に奪い返されそのまま押し切られた)の姿もみえる。


ナザロフとデラホーヤ、もしくはモズリー戦みたかったですね。同様、ジュー対デラホーヤもしくはユーリVSゴンザレス(アメリカで開催本決まり寸前)、ロペス、カルバハルなども。


時代は流れましたね。またよろしく。


アヤラ

真の豪打者たち・・・クエバス・ムガビ・ハイメ・ガルサ

みなさん、


昨日はこんなのみてました。


1、「クエバスVSランザにー」2回、雨の中、豪快にノックアウト(左フックで壮烈に倒し。連打から右クロスで。左右双方、どんなパンチでも倒せた。全盛期のクエバスはスピードと切れもあった(ハーンズ戦も一般にいわれる意見とは異なる見解を持つ)


ークエバスはたじろいでいる(ハーンズは「靴のひもを気にしたりトランクスを気にしたり」)。わたしはそうはみえなかった。たしかに緊張していたけどあの眼光はいつもの「若い獅子」そのもの。


ーハーンズは速くて強すぎた。相手が悪すぎた。クエバスがもっとも苦手とするタイプ。長身でリーチが長い。しかも「デトロイトスタイル」ストレートと長い距離からのボディーブローが特徴。スピードと切れを重視。ウエイトレーニングは一切なし。バッグうちより「ミット」。アリが「左をつけ」。忠告に守りました。クエバスもスピードがなかったとは思えなかった(威力も切れも十分)。ただスピードが違いすぎた。


ー「ハーンズは強い。・・・彼の若さに負けたよ(おなじ22歳・11度(10KO)防衛疲れもあったでしょう)。最後の世界戦になってしまったのは本当に残念。


ー例えばジュー(が苦手としたタイプもいっしょなのでは)をストップしたヴィンス・フィリップスがクォーティーにはまったく歯が立たなかったのといっしょなように=ほんと「世界」は広い。朴政吾選手(クォーティーのベストファイトのひとつに数えます。左ジャブの威力たるや(フィリップスも「あの左だけでぐらぐらになってしまった。あんな強いパンチは受けたことない)。後年の例えば「バルガス」や「ライト」に負けた頃は体格負け(バルガスはともかくミドル級(しかもあの手ごわい)のライトには全然パンチが効かなかった)


ーしかし日本選手で勝ったのは尾崎選手(10回見事なKO勝ち)だけ。坂本孝雄(初回ロープダウンを奪いながらスタミナぎれ)、吉野(いい打ち合いでした。吉野もKOチャンスはいくらでもあった。でも全体的に一段上だった)、佐藤(「パンチがあるいい選手だ」と褒めていたよう初回でもうひとおしすれば倒せたはず。2回はちょっと油断しましたね)。


(2)ムガビ(25勝(全KO)無敗)VSハーグローブ(25勝(24KO)1敗(ぺタルに4回KO負け)。


ーこれもスピード資質、すべて5,6段。ちがいすぎた。ハーグローブはスピードがもう一つだし中堅クラスのノックアウトパンチャー(だからメダルに負けたのでは)。パンチの鋭さ速さ切れ、まったく及ばず。振りが大きいけどスピードがあるからよけられない。豪快な左フックのカウンターで倒し。右の振り下ろし連打。どんなパンチも破壊力はおなじ。最後の左フックから右ストレートで悶絶させたのはベストファイトのひとつだと。Youtubeでいくらでも出てきます☆)全盛期のムガビと例えばジャコ、ノリスあたりを比べるとやはり鈍くなっている(一発はあるにせよ)。ハグラー戦のダメージがずっと残った(11連続KOとはいえだんだん勢いが下がってきていた=チャべス戦後のロサリオみたいに(12連勝(10KO)。倒されてはいないがうたれもろくなった。ノリス戦はその終結。次にマクラレンに倒されたのは衝撃的(体格差・ジャクソン「マクラレンは一番強くそして大きいミドル級だ」まさにそれだけ。クエバスがハーンズに惨敗したのといっしょでしょう)。


(3)、ハイメ・ガルサVSキッド・メサ、ボビー・ベルナ


ースピードはあまりなく体も硬い。不器用な選手だけど一発パンチの破壊力はゴメスはおろかラポルテも及ばない気がする。防御がもうひとつ(そこをメサに突かれた・衝撃の初回逆転KO負け・連勝44勝(41)でストップ)。うたれモロさもあり。ベルナにも初回倒された。かなり打たれて危なかった。ただゴツン、ゴツンと響くような強打がすごい。一発パンチの強さはあまり注目されないのが残念☆またみてみてください(ビジャサナやネグロン戦も出てきます☆


アヤラ

ダマトタイソンと故ロサリオ(Catskill New York)時代

私は相変わらず「ダマトタイソン」しか(とくに最近は)悲しくてみれないんです。

上体の動き、スピードときれ、勘のよさとガードの固さ、どんなパンチでもよけられる、そして強打の連続6、7,8と全力の豪打を随所に叩きこむ。左フックはまったくみえない閃光なみ。ジャブから入る(そのジャブがスナップが効いてよく伸びる強烈なジャブ)。まず当てさせない(クリンチのもみあいで下から打ってくるパンチすらヘッドスリップでかわす=ロレンゾ・ボイド戦(2回得意の右ボディからアッパーの二連発でKO)。

ー後年
ガードも低い。上体のふりもない。連打も出ない(いきなり出す右ストレートか単発の左フック、アッパー、ワンツーばっかり)。一発屋(ぶんまわしてなぎ倒す。「ダマト式」きめの細かい精密に計算された「強打の連続」とは別質)。ルイス戦なんか一生懸命ダマトスタイルに戻ろうとがんばっていた。けどブランクと無駄な時間を浪費しすぎた・・・とにかく残念。


それほどあのパターソンやトーレス、ルーニー(一番忠実なダマトスタイル・リーチが短い割りにパンチはあった)そして「ダマトタイソン」(まだ右腕に「MIKE」っていう刺青だけだった頃)。


そしてタイソンがリングで笑ったとき。
1、ケイトン傘下の同僚(先輩)ロサリオのリング入り(VSカマチョ、VSチャべス)。
解説者も「はじめてリングでタイソンの笑顔をみた」。あれこそ素朴な「勝負師」スポーツ選手の姿ですよね。ブランブルをKOした後、カマチョの取りまき先頭でロサリオ。ゴング前、グローブたたきあって激励。

2、あの頃のキャットスキルはヒルトン四兄弟(事故死した故スチワートもまだ生きていた)「マイケルジャクソン」オラジデ(わがカナダ(ナイジェリア人)・無敗24勝(17KO)とハムショ(も二度ハグラーに挑戦。二度目は一度目のダメージではないかな。でもハムショはラストファイト。全盛期のロニー・ラロン(我カナダ・五輪銀のウィリー・デウィットなども)にも倒されなかった。60勝(38KO)4敗(しかしてない)。ハムショの軍門に下ったホープはカーチス・パーカー(二連敗17勝(14KO)無敗から3連敗)ボビー・チェズ(あのタフなチェズが完璧にのされた)再起のアラン・ミンター(明らかにミンターの勝ち)。

3、ロサリオのスタイルはタイソンに一番似ている(カウンターパンチャーとガードのハノ型で。そこをチャべスにボディを狙いうたれた)。一見まったく別のように見えて、頭のフリ、ハノ字型から通常のウィービング(小刻みな動きはトリニダードより速かった・小回りと切れもよかった)動く標的には絶対ならない。左右どのパンチだろうと一発でノックアウトできる(アンソニー・ジョーンズ(20勝(15KO)1敗・当時はまだオーバ・カーもクロンク、ロレト・ガルサ(28勝(24KO)2敗いち分け・最初のクロスカウンターで一撃。決まったようなもの。3回まで6度倒され完敗。「腐っても鯛」だったのは残念ながらここまで。平仲に負けてランドールにもストップされた(でも三回終了間際、右の相打ちを往年のヘッドスリップで外し叩きこんだカウンター。あれはきいていました。ゴングに救われたようなもの)。


4、きめの細かい動きがダマトスタイルに共通点がおおい。常に上体を動かし、一発当てさせても後続打をことごとくガードとヘッドスリップでかわす(ラミレス(1))。

5、あのラミレス(2)=あんまり調子はよくなかった。スロースターターとはいえ一戦より切れもスピードもなし)。2回までまさに完璧なKOパターン。最後の連打の強烈さと豪快さ。チャポならでは。

6、チャべス戦は減量に失敗して元気がもう一つなかった(ナザリオ(2)が同列)。それよりもロープに詰められっぱなし。チャべスの追い足の鋭さとボディーブローをたんまりふくめた連打。カマチョ戦のときのようにスピード重視。スリムな体に仕上げ切れ味鋭く速さ閃光・・・とロサリオ永遠殿堂一位はつねに「判官びいき」・


こんな感じで続けていきますね☆
アヤラ

追悼モハメッド・アリ お疲れさまでした

またまたです。参考までに。


アヤラ

ボクシング、これは毎日の「10%」を占める。

ただここは「同人誌」ページではないので、マニア(ヲタ)的なことは書かないよう気をつけます。

活動家として:

モハメド・アリ(本名カシアス・クレイ・ケンタッキー州ルーイビル出身)。ボクサーである以上に「活動家」であり「社会運動」の闘士。「公民権運動」(キング牧師やマルコムX、ジェシー・ジャクソン師も)。

「人種差別」と戦った生涯は、他の著名人たちと似たようなもの。世界中に支持者がいる。マンデラ氏やズズ主教または、マイケル・ジャクソンやプリンスなどとも思いあうところはあったでしょう。みんな「迫害」と「貧困」にさらされた(ただアリは中上流階級の出身。恵まれた家庭環境・坊ちゃん型)。

決定的な「アメリカ」との対決は、「ベトナム人を殺さなきゃいけない理由がない」と宣言。徴兵拒否からはじまった。有罪判決・禁固刑(牢獄入りこそまぬがれけど、ボクシングはできなくなった。25歳から30歳まで、油ののりきった全盛期。


宗教「黒人回教団」(教祖イライジャ・モハマド、78年死去・マルコムXもここ)、破門された(マルコムXは、その後暗殺された)あとはボクシングに専念)入信の記者会見。「カシアス・クレイ」という名前は奴隷主がつけた名前とした。


イスラム教に改宗(キリスト教から)。名前を「モハマド・アリ」に変更。


彼は「黒人たちのため」「アフリカのため」「南アフリカの黒人たちのため」「人種差

別・偏見の被害者たち」「貧しく保護もないこどもたち」


「寄付」を惜しまず、「ホラ吹きクレイ」のおしゃべりはあくまで表向き・宣伝。真の表情は厳しく、あまり多くを語らなかった。


ボクサーとして:

天才。一つの「型」を作った(多くの黒人ボクサーが模擬した。日本では辰吉選手など)。「蝶のように舞い鉢のように刺す」。スピードを重視し、ストレート攻撃を中心にどんどん手を出す。速くて強い。得意としたコンボはワンツー(左右で前のめった相手に下からこすりあげるような閃光、左フックのダブルさらに連打)ガードを下げて足を駆使する。「デカイ奴の殴り合い」的色合いが強かった「大男階級」、アリが革新の清風を吹き込んだ。

19歳でローマ五輪(1960年)ライト・ヘビー級金メダル・アマで200戦・21歳で王座に就き39歳のラスト・ファイトまで通算59戦54勝(37KO)5敗・デビュー以来31連勝(26KO)・第一期(25歳まで・9度防衛(5KO)・第二期(30歳から10度防衛(3KO)通算19度(日本最高具志堅12度)。

ただマンデラ氏(27年間の刑務所生活)・マザー・テレサ・「ヒロヒト」氏・・・

(~_~;などともに「長寿」で人生は悪くなかったと考えます。

生涯稼いだお金は今になおして「200憶円」くらい(の50憶円が手取り)。大いにしゃべったし大いに遊んだ。ただ練習はまじめにこなし、ロードワークも欠かさない。

アリほど防御感がよく(紙一重で見切り、上体を動かし目でよけるタイプ)まれな神童。戦った相手たちのレベル。超世界一ばかり。パンチの強烈さたるや、すさまじい一級品ばかり。かなり打たれたし、顔も腫れた。「パーキンソン」を発病しても何ら不思議はない(また本人も覚悟してのこと・ちなみによけかた。「ブロック」「ガード」パンチを弾き返す防御報方がもう一つ)。

この辺でしょうか。

70~80歳まで生きら幸せだったと思います。いつも気を必要以上に引かれてしまうのはボクシングだけに限らず。不幸な病死、若い命悲劇的な死、生き残ったけど障害者などなど。

番外編・G-man from イリノイ州フリーポートからデトロイト:

すでに亡くなったデトロイトを本拠地とする「クロンク・ジム」の師匠黒人元アマチュア王者。トレーナーやマネージャーとして活躍。2012年、68歳で病死。数多くのスター選手を生み、世界中飛びまわった。

アリ戦法とは違う型で黒人の長所を最大限有効活用。長い手足。強くて速い左ジャブ、ストレート。相手の射程外からどんどん叩き込む。アリ型と決定的に異なる相違点。執拗にボディ攻撃をまじえる。連打にも必ず組み込む。これは本当に有効で強烈。だいたい長身の戦慄パンチャーが多い。初回、2回で倒す短期決戦型。その中に一人、

さるミドル級(72キロ)無敵王者がいた。アマでキングスカップ・ゴールデングローブ王者・プロ31勝(29KO)2敗。

初回ノックアウト勝ち20回。14連続KO勝ち中。三度の防衛をすべて初回で片づけ。その悪夢のイギリス・ロンドン。敵地の一階級上チャンプ。初回30秒でとらえ、リング外に叩きだした。


ここで問題が起き、地元の声援により立ち直られ猛反攻を食らう。8回もう一度倒しながらも10回。逆転KO負け。1994年・それがラスト・ファイト。


コーナーで座り込んでしまい、意識を失い担架で運び出された。救急車。脳内出血。手術成功・でも脳漿の半分は死滅し、自分の名前すら覚えていない(完全に視力を失い車椅子・聴力80%喪失)。残っているのは生来のユーモアだけ(看病・介護する姉の言葉)。2011年、試合後初の渡英。ライバルと再会(姉に告げられて**、You almost killed me(冗談っぽく・・・tell him not to sorry・・・もちろん本人は覚えていない。姉から伝えられただけ)。涙を流した。


そのままロンドンで、功労を讃える記念イベントに出席。車椅子の姿が痛ましかったけど、「同人誌」にどんどん突きすすんでるので歯止めを(^_^;



アリは偉大な人生をまっとうした。「人種差別」断じて許せない。「人類平等」。


またまたありがとうございました。