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下の参照がわかる方にお勧め。

The G-man from Freeport Ilinois USA

Kronk Gold G.M 31W29KO3L His last fight at London in England/1995 He was 27.

速戦即決の「初回KO」男、G-man、We won't forget you☆忘れないぞ!!

一般ブログからの転用=好対照の2人イタリア系・スタローン氏とロバート・デニーロについての毒舌・Sylvester Gardenzio Stallone&Robert De Niro

PS:別の一般ブログから転用しました。興味のある方はどうぞ☆ アヤラ
2016/09/12 00:08
シルヴェスター・ガーデンツィオ・スタローン(Sylvester Gardenzio Stallone, 1946年7月6日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督、脚本家。身長178cm。1970年代から1990年代のアクション映画を代表するスター。60歳を超えた現在でも、鍛え上げた肉体で激しいアクションをこなす映画俳優である。左利き。
ロバート・デ・ニーロ(Robert De Niro, Jr.、1943年8月17日 - )は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督。アカデミー助演男優賞を受賞した『ゴッドファーザー PART II』、アカデミー主演男優賞を受賞した『レイジング・ブル』、および『タクシードライバー』をはじめとするマーティン・スコセッシ監督の一連の作品への出演で知られる。身長177cm。撮影の前に徹底した役作りを行うことで有名。また、『グッド・シェパード』などの作品で映画監督も務めている。
「役者・プロ」としての幅インチキ「マッチョ」ヲタ男とホンマモンしかやらない「真骨頂」俳優比較:
この二人は実に好対照を示している。ずいぶん前に書いた短編ルポがあった(むろん行方不明)。それにちなんでここでは、一般情報を掲載した。それを参考にしながら新たな検証を進めてみたいとおもう。
はじめに:
以前からこのデマカセ「マッチョ氏」についてはさんざんこきおろしてきた。北米の一般常識として特に「黒人」や「中東」あるいは「南アジア」(インド・パキスタンまたはバングラディッシュなど)の方々と友人になったとする(目撃してきた実例多数)。むろん「映画」などほとんど見ない人もいるので一概にはいえないのは断っておく。あくまで「一般論」に過ぎない。
ー好みの映画などを聞かれて「ロッキー」「ランボー」だの「オーバーザトップ」とやったらその時点で嘲笑されるのは避けられないはずだ。また表情が険しくなり「関係」そのものが深くならないのは間違いなかろう。これは何も「人種」がどうこうはあまり関係しない。「普通の教養」を持つ方なら白人だろうが欧州系だろうが今でいう「引かれ」るのはやむをえない。
ー方や、「デニーロ」といって嫌な顔をする人はまずいない。冒頭、ひとつの象徴的な事実をあげるので参考にしてほしい。
スタローン氏=かっこいい役もしくは「善人」しかやらない。おまけに「でっかい「黒人」を白人がぶっとばしたり」(「ロッキー」シリーズ)「特殊部隊・傭兵」「アジアのアフガン(アフガニスタン人などはなから眼中にない)で「ソ連軍」をやっつける大殺戮の狂宴」(「ランボー」シリーズ)または「コブラ」(単車にまたがりライフル銃をぶっぱなす、腕利き刑事)などなど一般常識を遺脱する傾向いがめず。(こっちもデニーロだと勘違い・スタローン氏でした)ブラアン・デ・パルマ監督(映画「キャリー」(ホラー・いじめらた超能力少女・血まみれ)「スカーフェイス」(アル・パチーノ主演)「カリトーの道」(同じく)などが代表的)だったらしい(知らなかった)。ともあれほぼ全ヒット映画が’自前’(要するに原作・脚本・監督・主演すべてひとり)でまかなっているということだ。
デニーロ=どんな役でもこなす。古くはフォード・コッポラ(映画「ゴッドファーザー」(2)ボスの若い頃回想・助演男優賞)後はマーティン・スコセッシ監督(映画「タクシードライバー」(ベトナム戦争からの海兵隊帰還兵)=この作品は個人的にはあまり好きではない)「キング・オブ・コメディ」(ほぼ「異常者」のストーカーコメディアンヲタ役)「グッド・フェローズ」(アイルランド系、粗暴なマフィア幹部役「カジノ」(ユダヤ系アメリカ人の「競馬屋」(コーチ屋)からマフィアがらみの「カジノ」ボス)「ケープフィアー」(元貧困文盲の婦女暴行犯)などなどあげる)。あとは「ザ・ファン」(ウェズリー・スナイプス主演・デニーロは元少年野球で情緒不安定な野球ヲタ・ストーカー役)ぱっと思いついたのをあげてみただけに過ぎない。その他、出演・主演などなど数え切れません。
好対照な実例:
スタローン氏=
「ロッキー」のお粗末さ舞台裏についてはあえて重複の必要もあるまい。もともと原作にいたった経路はフォアマンをまさかのKOで破り王座に返り咲いたアリの初防衛戦が起源となっている。
ーアリが初防衛戦に選んだ相手は床屋が本業のチャック・ウェップナー(後に「ロッキー」原作実在人物として注目された。だからアリ(高額のカネにつられてきた)同様、来日。我らが燃える闘魂アントニオ・猪木氏と「異種格闘技」戦にいたる(6回猪木氏十八番「逆エビかため」でギブアップ負け)という中年ボクサーであった。とっくに峠を越え禿げ上がった頭でボテボテに太り半引退の選手(全盛期のキャリアで強敵とたいしたのは「ビッグベアー」(大熊)と呼ばれた前王者(21歳の若きアリがまさかのノックアウトでタイトルを奪った相手。再戦でも初回一発のクロスカウンターで沈めた)ソニー・リストン(享年38歳・自宅で変死・麻薬過剰摂取ともマフィアに殺されたともいわれている)ぐらいである(すさまじい流血打撃戦(リストンのラスト・ファイト。豪腕健在で終始強打を叩き込まれ両目上から出血。頑丈さにものをいわせなかなか倒れなかっただけ・10回KO負け)
ーなめくさって楽チンな相手として選んだこのロートル白人が蓋をあけてみればもう一歩で倒すところまでアリを追いつめる。おごり高ぶるスーパースターを大苦戦させたこの健闘ぶりに痺れてしまったスタローン氏がたどりついたのが「ロッキー」だそうな。
ーしかし実情はいささかどころかかなりの「誇張」「改竄」による「自分風」(当時のスタローン氏はただの「肥満体」(まだまだ「ボテボテ」だった「ロッキー」(1)当時より肥えていた=「ステロイド」使用はまだ一般的ではなかった時代)’あこがれ’要素にねじまげた内容である。
ー興味のある方はYoutubeでアリ対ウェップナーを直接みてみるのをお薦めする。アリは確かにあまり調子はよくなかった(今とちがって「30歳」は若くない。「5年」のブランクは結局、克服できず)。ただし「大苦戦」などさせていない。最終15回まで一方的に打ちまくられ血みどろ。パンチはまったく当たらず(スピードと切れがちがう)顔は二倍ぐらいに腫れあがっていた。リストン戦といっしょ。「タフ」だからなかなか倒れなかっただけ(最終回3度のダウンを奪われてストップ負け)。困ったことに「ランボー」などとおなくじ「フィクション」とはいっていない(そこも「いわしの頭」式、いいかげんな人格を反映している)。
デニーロ=
はじめてのアカデミー主演男優賞を獲得した映画「レイジング・ブル」(マーティン・スコセッシ監督(おなじくイタリア系アメリカ人)はそういうニックネームをつけられたジェイク・ラモッタというイタリア系元ミドル級王者の実話である。
ーこの原作の人物は映画をみればわかるとおり一種の「変人」であった。だから「評価」は高かったにせよ「興行」的にはそれほど芳しくなかった(あまりに陰惨でやりきれない内容である。また暗黒街、放蕩と暴力もからむ)しかし「ドキュメンタリー」(事実)に近い)。
ーここが決定的差違。デニーロは撮影に備え毎日ロードワーク10キロ。ジムワークに半年を費やし、合計「200ラウンド」のスパーリング(後に「ボーイズ・ライフ」でデカプリオ氏を虐待する田舎オヤジ役。「ボクシング」を教える場面を思いだしていただきたい。正規に、習ってもおらずパンチの打ち方すらしらないスタローン氏と比べてみてください。本当の「ボクサー」そのものである)。しかも鼻が魔女のようにでかかった本人をまねて「整形」までするこだわり(監督とは無関係に自己の意思)。
ーさらに驚くべきことは引退後のシーン撮影のためわざわざ「肥る」ことまでこなす(その後「ワンスアポン・ア・タイム・イン・アメリカ」(ニューヨークのユダヤ系チンピラ組織を描いた映画)出演のため急激に「減量」したため老けてしまった)。
ーこれだけでもう伝わったと思いますがどうでしょう?空手王者のソ連アマ世界チャンピオン役俳優の「手加減」パンチをボディに一発食らっただけで「救急車」全治一ヶ月の入院男「キン肉マン」スタローン氏・・・。
ー「ケープ・フィアー」(1991)での’筋肉’は全部鍛え上げたもの。「ステロイド」や「プロテイン」など一切使用せず。また数作(「タクシー・ドライバー」「キング・オブ・コメディ」)で共演している黒人女優は別れた元奥さんである。
ーただしデビュー当時の「バンク・ザ・ドラム」(プロ野球選手)は猛特訓を積んだとはいえ。努力の甲斐なく、’野球’はむずかしい(苦笑)。「プロ」レベルには達せず(しかし「あんちょこ」ばっかりで高慢なスタローン氏(特におなじ「イタリア系」)と比べれば評価できるだろう)。「ヒート」(アル・パチーノ(おなじくイタリア系・ニューヨーク貧民街育ち・「舞台俳優」と「作品を選ぶ」傾向が強く「映画」出演はデニーロほど多くない)とはじめて「面と向かって」(ゴッド・ファーザー(2)ではオヤジの若い頃「回想」シーン担当だったので一緒には現れない)共演。パチーノは刑事役・デニーロは知能犯役。
ー方や特に「黒人」たちの憎悪と軽蔑の的となってるデマカセ「マッチョ」俳優兼監督業(アメリカ時代もカナダでも「別の映画」の予告編で「ロッキー」なり「ランボー」が出てくれば冷笑と時には、激しい「ブーイング」が巻き起こる)。
ー今、思い出した。ちょうどモントリオール時代。ハンガリー系の友人家族の自宅に夕食に招かれ、アメリカ黒人たちも同席していた。そのとき、テレビで「ロッキー」(3あたり?)がやってた。そのハンガリー系友人が「Beat a meat」ととかいってバカにしていた。てっきり私は「ロッキー」(1)=(肉工場勤務)スタローン氏がぶらさげてある牛肉を素手で乱打する場面を思い出しててっきり勘違い。黒人のひとりが意味を説明してくれると、要は「マ*かき行為」のことだと知り参ってしまったのも懐かしい(それに「ボクサー」(世界ランカー?)は「肉」なんか殴りません。「生卵」(10個?)飲み干す。それも「ロードワーク前」(あれ特に「ウルトラクイズ」罰ゲーム(故ジョー・フレージャー(元東京五輪金・アリのライバル)とのスパー前に飲まされる)などで使われていたので「ランボー」どうよう。特に「日本」でまた余計な「誤解」を生んでしまった)と似たような「浅はか」発想に過ぎないでしょう。
ーもうひとりは以上のような「役者魂」・・・(-_-; 
また思い出したらつけくわえます。ありがとうございました☆サム

スタローン氏のキャリア(ウィキ):
極貧生活からのスタートスタローンが初主演した映画は1970年のポルノ映画 The Party at Kitty and Stud's(子猫と種馬のパーティ)である。当時は極度の困窮生活で、出演はやむにやまれぬ事情だったとスタローンは述べている[6][注 2]。同じく1970年には No Place to Hide(隠れ場無し)というコメディ映画に主演した[注 3]。1971年にはオフ・ブロードウェイの小劇場で Score というアダルト劇の舞台に立っている。このようにポルノ映画への出演やボディーガードなどをこなして日銭を稼ぐ極貧生活が長く続いた。顔面麻痺による演技力の限界や、あまりにも典型的なシチリア人の風貌のため54回のオーディションに落ちた[要検証 – ノート]。1974年に出演した『ブルックリンの青春』(The Lords Of Flatbush)での演技が何人かの評論家の目にとまり、スタローンは妻と愛犬を伴ってハリウッドへ移った[4]。1975年には『デス・レース2000年』に準主役として出演した。『ロッキー』の半年前である。ロッキーでの大ヒット1975年、29歳の時、観戦したボクシングの世界ヘビー級タイトルマッチ「モハメド・アリ対チャック・ウェプナー」の試合に感銘を受け、それをヒントにわずか3日で書き上げた脚本をもって映画会社に売り込む。脚本が気に入った映画会社は一線級スター(ロバート・レッドフォードらが候補)を主役にした大作として製作しようとしたが、スタローンは自分を主役にしないなら脚本は渡せないと固辞、結局主張は認められた。この作品こそ『ロッキー』である。もっとも無名俳優の主演作品のため低予算のB級扱いとなり、わずかな上映館でのスタートとなった。しかし徐々に大評判を呼ぶことになり、世界的規模で大ヒット(詳細は 『ロッキー』の項で記述)、遂には同年のアカデミー作品賞を受賞する。映画の主人公の境遇とスタローン自身のそれが「荒んだ生活から一夜にして栄光を掴む」という古典的なまでの「アメリカン・ドリーム」を体現した点で共通していることから大変な話題を呼び、多くの人間に希望を与えた功績が評価された。ランボーでの再ヒットその後『パラダイス・アレイ』で監督業にも進出。しかし、様々なジャンルに挑戦し続けるが『ロッキー』シリーズ以外は興行的に成功することがほとんどない状態が続く。1982年の『ランボー』でようやくロッキー・バルボア以外の役をヒットさせることに成功。以降ランボーはロッキーと並ぶスタローンの代表作となった。その後は『クリフハンガー』など、常に鍛え上げた肉体を駆使した作品でアメリカを代表するアクション俳優となる。2006年、シリーズ16年ぶりの新作となる『ロッキー・ザ・ファイナル』 が公開され、2008年には、20年ぶりの新作となる『ランボー/最後の戦場』が公開された。ステロイド疑惑2007年の2月に『ロッキー・ザ・ファイナル』の宣伝でオーストラリアを訪れた際、シドニー空港にて、手荷物の中にオーストラリアでは禁止されているステロイドが発見され、起訴された。5月15日に行われた審理では代理人が起訴事実を認めたが、スタローンは出廷をしなかった。21日、2500ドルの罰金を科す判決が下った。本人は当初『持ち込んだのは成長ホルモンだけだ』と弁明していたが、やがてはステロイド剤の所持を認めるに至った。しかし、後日になると『あれはテストステロンだ。ステロイドではない』と再度弁明を行った[7]。近年の活動2010年9月に訪日し、大相撲秋場所を観戦。その際九重親方に映画出演のオファーを行い話題を呼んだ。また、同年9月28日放送分のNTV系列『魔女たちの22時』や、『おしゃれイズム』にもゲスト出演している。2010年12月7日、一連の『ロッキー』シリーズのボクシング映画製作などが評価され、国際ボクシング殿堂顕彰者に選出された[8]。2015年に公開された映画『クリード チャンプを継ぐ男』で再度ロッキー・バルボアを演じ、その演技が批評家から絶賛され[9][10][11]、2016年の第73回ゴールデングローブ賞では自身初の助演男優賞を受賞した。
 役者として駆け出しの頃は、同様に無名フィルムメーカーであったブライアン・デ・パルマ監督とコンビを組んでいた。

デニーロのキャリア(ウィキ):
1972年に公開された『ゴッドファーザー』でソニーやマイケル役のオーディションを受けたが落選。しかし、監督のフランシス・フォード・コッポラはデ・ニーロの演技力を高く評価し、続編の『PART II』では若きドン・ヴィト・コルレオーネの役を割り当てた。デ・ニーロは、この役を演じるためにわざわざシチリアまで赴いてイタリア語を完璧にマスターした後、マーロン・ブランドのしゃがれ声を真似るために必死の練習をしたという。その演技は評判となりアカデミー助演男優賞を受賞した。1973年には長らくコンビを組むことになるマーティン・スコセッシ監督の『ミーン・ストリート』に出演。これ以降、『タクシードライバー』(1976年)、 『ニューヨーク・ニューヨーク』 (1977年)、『レイジング・ブル』 (1980年)、『キング・オブ・コメディ』 (1983年)、『グッドフェローズ』(1990年)、『ケープ・フィアー』(1991年)、『カジノ』 (1995年)といった同監督の作品に主演した。2012年にはイギリスのTotal Film誌の発表した「映画史に残る監督と俳優のコラボレーション50組」にて第1位に選ばれた[6]。現在企画中のスコセッシ監督作『The Irishman』にて9度目のコンビを組むことが予定されている[7]。2013年公開の主演作『マラヴィータ』ではスコセッシは製作総指揮を担当した。アカデミー主演男優賞を受賞した『レイジング・ブル』では体を鍛え上げボクサー役を演じた後、老いた主人公を演じるために体重を20キロ増やした。また、『アンタッチャブル』(1987年)においてはアル・カポネを演じるために頭髪を抜いている。このようなデ・ニーロ流の徹底した役作りはデニーロ・アプローチと呼ばれるようになり、彼の代名詞となった。出世作である『ゴッドファーザー PART II』をはじめ、『タクシードライバー』、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』、『アンタッチャブル』、『グッドフェローズ』、『カジノ』など犯罪映画に多く出演してきたが、1980年代半ばからはコメディ映画などでも成功を収め、近年は『ミート・ザ・ペアレンツ』や『アナライズ・ユー』でコミカルな役柄を演じるなど幅広い演技力を見せている。1988年には、ジェーン・ローゼンタール(Jane Rosenthal)と共同で、プロダクション「トライベッカ (トライベッカフィルムセンター)」を設立。初監督となった1993年の『ブロンクス物語/愛につつまれた街』など、監督や製作としても活躍している。2013年には『世界にひとつのプレイブック』で11年振りにアカデミー助演男優賞にノミネートされ、60歳を超えてもなお精力的に活動を続けている。また、養女であるドレナ・デ・ニーロとは『ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ』(1997年)以降、何度か共演している。